「ムダ」が豊かさや奥行きを生む
精神科医の春日武彦さん。「読書とは言葉を使って内面を上手く語る練習、あるいは見本を探す行為だった」と語る春日さんに、「本」について、執筆に込められた想いを伺ってきました。
精神科医という仕事
――お仕事について伺います。
春日武彦氏: 週3日、病院で外来患者を診ています。診察日以外は、講演で全国に出かけています。精神科医の仕事は苦労もありますが、色々学ぶことができて、「こういうこともあるんだな」と、素朴な驚きもあって、やりがいのあるものですよ。
――どのように患者と接していますか。
春日武彦氏: 患者さんにとっては、病院に行くことを決心するだけでも一大事です。本人は「どうしたらいいのだろう、もう病院に行くしかない」と、覚悟を決めてくる。だから、腹をくくって病院に行くことを決心したという部分をまず労って、それからやっと「ここから始めよう」と診療は始まります。たいていの場合、悩みがあっても悶々としているだけで、実際には動けない。少々酒を飲んで、愚痴をこぼすぐらいです。病院まで来たというのは、「余程あれこれ悩んだのだろう」ということを理解しないといけません。
――相手の立場に立つというのがこれほど重要な仕事は無いかもしれません。
春日武彦氏: しかし、優しければいいとは限りません。「多少横柄でも、偉そうな人のほうが、頼りがいがあっていい」という方もいますし、あんまり丁寧に説明されると「自信がない証拠だ」と思う人もいます。色々な考え方がありますから、そういう意味ではマッチング、相性の合う医師との出会いがあるかどうかというのは大変重要になってきます。
――どうしてこの仕事を選ばれたのですか。
春日武彦氏: 元々父が外科医をしていたのですが、途中から保健所に務めて、その後は厚生省、環境省、最終的には東海大医学部で教授をしていました。親戚などにも医者が多かったので、そうするとなんとなく医者になるんですよね。私は1人っ子で、ぜんそく持ち。周りと接する機会が少なく、社会性に乏しい子供でした。医学部に進みましたから、アルバイトをしたことも一度も無いし、経験を通して普通を知るというようなこともありませんでした。一般的な社会での経験から得られるような、共感覚が足りない部分があるのです。ですから未だに、いわゆる「普通」の感覚がよく分からないことがあります。
ただ、他人だからこそ、状況を冷静に吟味することができるという場合もあります。自分なりの経験から推測して、辛さはどういったものか見当をつけます。「それじゃ生ぬるい」と言われるのは百も承知だけれども、こちらも一緒に苦しんでいたら何もできませんから。
活字化、されることの意味
――医学部時代はどんな生活をしていたんですか。
春日武彦氏: それはもう、暗いもんですよ(笑)。勉強以外は、本を読むか、音楽を聴いているか、どちらかでしたね。それから絵も好きで、銅版画などを作ったりもしていました。版画は、ある意味印刷物です。未だに、レッテルやコースター、チラシなどの紙の印刷物が、本の延長という感じで好きなのです。肉筆だと、クライマックスで急に字が大きくなったり、肉太になったりということがありそうで、嫌なのです。情が入り過ぎてね。一度、印刷という形式を経ることによって、ある程度の個性を抜くというところが好きです。
本も、文章を書くだけではなく、編集者や装丁家などを介して、ある程度ろ過されて世に出ますよね。活字というのは、形式で見れば無個性です。好みとして、生々しさをある程度抜いていないとちょっと嫌だなという思いがあります。物体としての本にはこだわりがありますが、無個性である部分も同時に好きなのです。
活字、紙、装丁などを含めて、本が好きなのです。それに装丁は、本を出す時の楽しみの1つですから、新書はあまり好きではないんです。私の本の装丁は、凝っているものが多いです。装丁にこだわると、編集者に嫌な顔をされてしまうこともありますが (笑)。
――電子書籍などは、春日先生にとってどういった存在ですか。
春日武彦氏: そこはなかなか微妙なところですね。便利な部分は確かにあるだろうと、例えば何冊分も持ち運ぶことができるから旅行にはいいだろうと思っています。ただ、装丁については引っ掛かりますね。だから、仮に自分の持っている本を電子書籍的なものに変えるとしたら、単行本よりも雑誌を電子化したいです。雑誌の場合、気になる記事があると、なんとなくとっておくことが多いのです。場所をとりますし、背が高かったりするので、そういうものをとりあえずデータとして取り込んでおくといいのではないかという気はしています。背表紙を見ながら考えるということが多いので、単行本についてはやっぱり物体として確保しておきたい。ただ、雑誌まではいちいち読み返せないので、パラパラ見るという意味では、電子媒体にしても全然かまわないという思いはあります。
物によっては、本は本で確保しておいて、時々読み返す時は電子媒体で、なんていうのもありですよね。そうすれば、出先でも見たい時に見られますから。
「本」の中に、見本を探す
――春日先生の思い出の本を教えてください。
春日武彦氏: ウィリアム・カーロス・ウィリアムズという詩人がいます。彼は、アメリカで小児科医をやりながら詩を書いていた人で、歴史に残る素晴らし作品を数々残しています。彼は、「詩人と医者、どちらで生きていこうか」と悩んだ時期があったそうなのですが、結局、「アーティストで貧乏するなんてバカバカしい」と。また、彼の詩は、日常生活のなんでもないものから詩的なものを発見する、という作風だったので、安定した生活を送る事が重要だと考えたのです。しかも彼は、外来診療の合間、処方箋の裏に、ひらめいた文章を書きつけていたそうです。彼の生き方を知って「地に足のついた人生のほうがよっぽどいいな」という風に思いましたね。
それともう1冊は、晶文社の『ぼくの遺稿集』(ローベルト・ムジール,1969)です。エッセイと短編小説が入っている本で、私はこれを見て、文章の力というものを強く感じたのです。といっても、実はこの本、本当にくだらないことしか書かれていません。ハエ取り紙にくっついたハエが死んでいくところがやたら細かく描写されていたり、明け方に目を覚まして、窓の外にある煙突を見ているうちに、なんとなく不思議な気持ちになったとか、どうでもいいようなことしか書いていないのです。でも、どうでもいいことをわざわざ書くことによって、世の中には、ある種の豊かさや奥行きなどが出てくるのだと思いました。本には、必要なことだけ書いてあればいいというものではない。そういうくだらないことに注目して、それを非常に正確な文章で書くということに、ものすごく感動したのです。文章の力というのをハッキリと理解したというか、自覚したという感じです。この本との出会いは、個人的にものすごく重要ですね。
――どのようにして、そういった本と出会えたのでしょうか。
春日武彦氏: 自分の気持ちをどのようにして人に伝えるか、という事が全然分からなかった。だから見本として、他人の書く様々な文章を読んでみるしかない、と思いました。膨大な数の本がある中で、自分に近い考え方を持っていて、尚且つそれを上手く文章に言い表せている、そういう著者の本を探しました。
――春日さんにとって読書とは。
春日武彦氏: 言葉を使って内面を上手く語る練習、あるいは見本を探す行為でしょうか。高校生の頃「ひょっとしたら、この自分の気持ちを表現する言葉は無いのかもしれない」というようなことを思っていたので、求めていたような本に出会えたとき、「僕は1人じゃないんだ」と、とても気が楽になりました。上手く言い表す見本を示してもらえるだけで、ものすごく勇気を得られました。
本には色々な体験や思いが凝縮されている。そこに、ぐっとくるわけです。1冊の本の中に、世界が入っている。その充実感が良いのです。1冊の本が人生を変えることもある。素晴らしい存在です。
よくベストセラー本を読んで「癒やされた」「泣けた」などといった月並みの感想を言う人がいますが「共感するのはおかしいだろう」と、いつも思います。売れている本というのは、万人向けをするように、なるべく共通項が多い部分をおそらく語っているのだろうと思います。ですから、そういった本ばかり読んでいる人には、「あなたらしさに沿った文章や語り口の物など、もっとプライベートな本があるはずだよ」と教えたくなります。
対等にディスカッションすることが、良い本作りにつながる
――自らも書き手になったきっかけは。
春日武彦氏: 最初は、雑誌の『週刊SPA』の取材か何かを受けたのです。その時に来た記者が私に興味を持って、友人の編集者に、「こういう変な奴がいる」というようなことを話したんです。その編集者が僕のところに執筆依頼をしに来て、本を書くことになったという感じですね。病院で当直をしながら、ひっそりと時間を見つけては書いていましたね。
――理想の編集者とは。
春日武彦氏: 私は、自分では思いつかないような意外な切り口を示して「こういうことについて書いてみないか?」と提案してくれるような編集者が好きです。「それならこういう書き方ができるな」というように、自分でも発見があるようなやり取りができると、1番うれしいですね。自分でも気付かない部分を指摘してくれる、それが、編集者の本来の姿だと思います。
私はわりと素直に聞くほうです(笑)。編集者はプロだから、だいたいの指摘は正しいのです。文芸の編集者はシビアですよ。以前、小説を書きおろした時は、編集者から「この登場人物は余計だから消して下さい」という指摘がありました。消した後に、「やっぱり必要なかったでしょ」と言われました。物語から消すことのできる登場人物は必要ない、という事でした(笑)。人によっては「失礼な奴だ」と思うかもしれないけれども、私としては、やや面白くないところもあるけれども、納得する部分もありますね。できる編集者というのは、対等です。向こうがこんなことを考えている、というとき、「私もこういうことを考えているのだ」と盛り上がれば、良い本を作ってもらえるのです。
色々な可能性や豊かさを本で示したい
――どういった想いで執筆をされていますか。
春日武彦氏: 人間の訳の分からなさや気持ち悪さ、まぬけさなどの影に隠れた部分を、色々な形で定着させたいという気持ちで書いています。基本的には、なるべく平易な言葉を使って具体的に書くように気をつけています。読みにくい本になってしまうことだけは絶対に避けたいと思っています。そうでなければ、伝えたいことは伝わりませんから。
本ならば、人の心、内面に対する1つの見方、あるいは「こういうこともありうる」などといった、色々な可能性や豊かさを示すことができる。“豊かさ=役に立つ”ということではなくて、どうでもいいこととか、くだらないこと、そういうものがきちんとここに存在していて、その存在を理解できて初めて、この世界というのが肯定できるのではないかという気がするのです。ハウツー本などはあまり書きたくありません。精神科医である自分が書くことができるものを、あえて小説や評論、エッセイなどの形式にこだわらず伝えていきたいですね。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 春日武彦 』