宇宙に「夢」を
宇宙航空研究開発機構(JAXA)名誉教授の的川泰宣さん。ミューロケットの改良や、科学衛星の誕生に貢献し、小惑星探査機「はやぶさ」プロジェクトのメンバーとしても知られています。また「宇宙教育の父」として「はまぎん こども宇宙科学館」の館長をはじめ、日本各地の学校教育や社会教育の現場において活動されています。的川さんが幼少期に得た宇宙への夢、 “平和”への想い、宇宙教育が真に目指すべきものを語っていただきました。
宇宙への「夢」をつなげる
――国際宇宙ステーションをはじめ、国際的な議論が高まっています。
的川泰宣氏: 国際宇宙ステーションに関しては、24年までやろうじゃないかと、アメリカが提案しています。火星の有人飛行だけが大きな計画ではありませんが、そういったように今は世界中で、もう少し先を目指した計画を議論しようとしています。でも日本はそういった世界の動きとは逆行していて、日本版のGPSをやろうとか、日本国内のものを充実させようというものが多い気がします。安全保障やそれに伴う産業振興が宇宙基本計画の二つの柱になっていて、科学や探査とか、新しいものに挑戦する計画があまりありません。宇宙というものの魅力は“新しい領域を開拓していく”という部分にあるのです。そういった部分に関しては、日本においては、優先順位が低くなっています。例えばアメリカは、軍とNASAと分かれていて、軍事的なことは軍が、平和的なことはNASAがというように明確な区切りがあるのですが、日本の場合、宇宙に関しては、全部JAXAに関わってくるので、日本の方向が軍事色を帯びてくると、JAXAの仕事も軍事色が強くなっていきます。安全保障や産業振興の分野の仕事と、新しい領域を開拓する仕事とをきちんと峻別して、予算も活動も分けていかないと、子どもたちは、宇宙に夢を持つことができないと私は思います。
今の私にとっては、宇宙活動が盛んになることよりも、子どもが社会の担い手に育っていくことのサポートをすることの方が、中心となっています。私の現場は、もう宇宙ではなく、宇宙教育なのだと感じています。私は、宇宙教育というのはロケットや人工衛星とか、宇宙のことを子どもに教えるということではなく、子どもたちが立派に生きていくために、宇宙が持っている豊富な側面を、いかに生き方の中に反映するかというものなのだと考えています。2003年にJAXAができて、すぐに私も理事会に入り、2004年にドコモから来た立川理事長が私の話を聞いて、「それはいいね。すぐやろう」と。それで、数カ月で「JAXA宇宙教育センター」を立ち上げてくれたのです。立川さんは「思うことはすぐやるべきだ。でも、うまくいかなかったらすぐにやめる」とおっしゃっていて、彼に糸川先生を見るような感じもあり、驚きましたね。立川さんも「宇宙教育センター」を全面的にバックアップしてくれて、今に至ります。
「活字」と「テニス」と「スプートニク」
――的川さんはどのようにして、宇宙に「夢」を持つようになったのでしょう。
的川泰宣氏: 私が生まれた当時は、家で産婆さんに取り上げてもらっていたので、父と兄たちなど男の人は全員家の外に出されていたんです。広島では珍しく、雪の降る2月のことだったので、外でみんなブルブル震えていたそうですよ(笑)。家に入っていくと、新聞紙の上に私が寝転んでいたと。昔の新聞ですから、インクの質があまり良くなくて、私の体中に、活字がこびりついていたそうです。「お前は生まれた時から、活字中毒だったんだ」と、兄貴によく冷やかされましたね(笑)。
親父も本を読むのが好きだったので、文学全集もありましたし、兄貴は理科系なので自然科学の本もありました。眠る時、おふくろは『オズの魔法使い』など、色々な面白い話をしてくれましたが、親父は能の師匠だったので、いつも世阿弥の話になりました。“初心忘るべからず”とか、“男時・女時(おどき・めどき)”とか、『風姿花伝』で書いていることを聞かされましたが、当時は意味がわからず、退屈で仕方ありませんでした。でも高校生になると、親父が語っていたことをよく思い出すようになりました。「読書百遍とは、こういうことを言うのかな」と。日本人の古来のものの考え方とか、感じ方を、その時に刷り込まれたのかもしれませんね。『万葉集』や『古事記』などの本が、若い頃から好きだったのは、親父の影響だったのかなと思います。でも読書をするのは、夜の時間だけでした。
――昼間は何をされていたんですか。
的川泰宣氏: もっぱらテニスですよ(笑)。中学に入ってから始めて、県大会などで優勝し、テニスが強かった山陽高校からスカウトがきました。でも両親は「うちの子は、テニスで食べさせるつもりは、一切ありません」と断ってしまいました。そこで広大附属に進むのですが、実は週5日制だったことが大きな要因でした。「この学校に入ると、土日にテニスができる」と思うくらい、テニス一筋でしたね。競争率は29倍だったので、けっこう大変でした。入学してからわかったのですが、広大附属には軟式テニスしかなく、ダブルスが基本なのですが、ペアを組めるような相手がなかなか見つかりませんでした。それでも、1年生で国体予選に出た時には、広島市の予選で2位になりました。それで『中国新聞』にも載ったのですが、そのペアも、お父さんから「お前を広大附属にやったのは、テニスをやらせるためではない」と反対され、私はペアを失い、県予選に行くことができませんでした。それで、なんとなくテニスに身が入らなくなりました。
――宇宙との出会いは、いつごろだったのでしょうか。
的川泰宣氏: 小学校にあがる前から、私は瀬戸内海の海釣りを楽しんでいました。夜釣りに行っては、よく星を見ていました。その時に、星とは縁ができたのかなと思います。まだ星座を覚えていなかったのですが、カシオペアなどを見て「あそこにきれいなWの形が見えるね」などと、一緒に行っていた兄貴に報告していました。小学校の5年のころに、上の兄貴の口添えもあって、天体望遠鏡を初めて買ってもらいました。実は私は、あまり期待していなかったのです。でも、初めて見た月は、本当にきれいな姿をしていました。満月を少し過ぎたぐらいの、陰影感のある月だったのを今でも覚えています。自分の目に飛び込んできた鮮やかなその姿に、どきっとしました。
中学2年の時には“ペンシルロケット”という言葉を、ニュースで知りました。親父と兄貴たちが茶の間で、「日本もロケットをやるらしい」と、楽しそうに話をしていましたね。日本が新しく大きなものに、挑戦し始めたというイメージがわいてきました。実は、当時の中学生は今とは違って、ロケットを知らなかったのです。「糸川英夫」という名前も、その時に初めて聞きました。
また中学の時の担任の先生だった林静人先生からも、随分と影響を受けたと思います。先生は広島大学を出ていて、小惑星の軌道の研究などをやっていて、“スプートニクを肉眼で見た二番目の日本人”でした。どこからか軌道ルートを手に入れて、何時ごろどこに現れる、という計算をしたそうです。中学卒業後もつながりのあった先生から、高校の寮に電話がかかってきて「明日は土曜日だから、中学校の屋上に遊びに来い。そしたら、夕方、スプートニクを見せてやる」と言われました。それで5、6人の友だちと一緒に行きました。
――肉眼で見るのは、なかなか難しそうですね。
的川泰宣氏: 反射面積が小さくあまり光があたらなかったので、見るのは難しかったですよ。「かすかな光でも見えるように」と、暗くなり始めた頃にテニスのボールを投げて、それを目で捉えるという訓練をしました。いよいよ、算出した場所をずっと見つめていると、点滅しながら動いていくスプートニクの淡い光を見ることができました。人間が作ったものが、地球の周りを回るということの、不思議さもあったし、「こういうものを通じて、平和な世界がくるかもしれない」というような予感で、心が満たされました。宇宙に触れたような感じがしたのは、その時ですね。スプートニクを見たことは、私の心に大きな感動をもたらしました。
戦争で感じた平和への想い
的川泰宣氏: 当時は安保闘争の少し前で、勤評闘争(教員の勤務評定反対闘争)のあおりが、高校生にもきていました。生徒会長だったので、最後は全高連(全国高校生徒会連盟)という高校生の自主的な組織の結成にも参加しました。そういった私を見ていたから、友だちはみんな「政治家になって、国を良くしてくれ」と言っていました。嫌いな科目はありませんでしたが、大好きなのは数学だけで、当時は理工系ブームでもあったので、理系へと進むことにしました。
大学2年生の秋には専攻を決めなくてはいけません。それでまず「どういう基準で考えるべきかを整理しよう。自分が生きてきた時代と、自分自身という人間をきちんとつかもう」と考えました。それから進む道を選ぼうということで、小さいころから順に、記憶をたどっていきました。
その中で一番大きな事件だったと思うのは、3歳の時の呉の空襲。呉は大和を作っていた港だから、空襲はすさまじいものでした。昭和20年には、呉大空襲がありました。ある日、防空壕で隣にいたお母さんに抱っこされていた子が、空気が悪くて窒息したんです。おふくろはそれを見ていきなり立ち上がり、私をおんぶして、隣の防空壕へ逃げようとしました。外は爆弾が降っていたので、兄貴は泣きながら母の後についてきていました。500メートルぐらいの距離だったのですが、その時の母の背中や、近くの図書館が燃えていたこと、そして入り口にあった杭も覚えています。そういう時代に生を受けたというのが、自分の1つのシンボルのように感じました。兄貴が自転車で、原爆が落とされた太田川(現在の本川)まで連れていってくれたことがありました。その積み重なった死体を見て、私は何日もうなされていたそうです。悲壮という複雑な感傷というよりは、「怖い」という感じでしたね。
戦後になると、進駐軍の記憶もあります。呉にはオーストラリア兵がたくさんいました。彼らはジープで走りながら、チューインガムやチョコレートなどを投げていたのですが、呉の子どもたちはそれを腹這いになって拾って、汚れた土を払って食べていました。私の家庭は雰囲気的に「そういうことはしてはいけない」とは感じていましたが、友だちが食べているのを見て、おいしそうだなと(笑)。それで親の目を盗んで、時々拾っていました。ある日、食べきれなくて、帰ってから陰で食べていたら、親父に見つかりました。「お前、何を食っている」と言われて、そっと手を出して「チョコレート」と答えました。すると親父は、チョコレートをバシンと叩き落としました。親父は非常に穏やかな男だったので、本当にびっくりしました。それで「どうして食べちゃいけないのか、この際聞いた方がいい」と思って父に尋ねたら、「それは、日本人の矜持(きょうじ)である」と。でも、当時の私には“矜持”という言葉の意味がわかりませんでした。それでおふくろに聞いたところ、「ひらがなは読めるでしょ?これで調べなさい」と言って、国語辞典を私に手渡しました。
――自分で調べなさい、と。
的川泰宣氏: まだ小学校に上がる前だから、すごく時間がかかりましたよ。いくつかある“きょうじ”の中で、これかなと思えたのは、プライドとか誇りという意味。空襲の時の思い出や、原爆の姿や、チョコレートの味は、自分の心の中に深く刻みつけられているのです。だから自分が生きていくプロセスでも、大きな役割を果たした事件だったなと思います。不思議なことに、私は小学生のころの授業などは、あまり覚えていないのです。でもそれは、幼いころの思い出が衝撃的過ぎたからかもしれませんね。他に思い出すことと言えば、草野球や夜釣り、星座の世界や天体望遠鏡の月、そしてペンシルロケットなど、宇宙に関係することばかり。それで「自分が育ってきた時代は、人間がどんどん宇宙へ進出していくという時代だったのだ。宇宙に関係した仕事が、今の時代にも合っているのではないか」ということで、宇宙に関係した仕事を選ぼうと思ったのです。当時の東大の物理学科の中に、天文と物理と地球物理の3つがありました。でも天文というのは、望遠鏡で星からやってくる光を受けて、それを解析するというイメージで、受け身の感じが強かったのもあって、迷いました。そうしているうちに、「宇宙工学というコースを航空学科の中に作った。定員は3人」という発表がありました。宇宙工学ならば、自分が作ったロケットや人工衛星が飛び立っていく、というポジティブな感じがあって、これこそ男の学問だと。
再び、糸川先生と巡り合う
――大学院では糸川研究室へと進まれます。
的川泰宣氏: 2年間の学部での勉強では物足りず、もう少しやりたかったのです。それで、どの研究室がいいかなということを調べていると、糸川英夫先生の名前を見つけました。糸川先生は学部では教えていなかったのですが、「中学校の時に聞いた名前だな」と。それで、当時、六本木の東京大学生産技術研究所にいた糸川先生を訪ねました。でもマスターコースの2年の間に、糸川先生は東大を辞めることになって、別の研究室に行かざるを得なくなってしまいました。その時糸川先生は、六本木に「組織工学研究所」という社団法人を作って、システム工学の仕事を始めたのです。私にも声をかけていただいたのですが、私はもう少しロケットのことをやりたかったので、研究の合間に先生のお仕事をお手伝いするという形にして、ドクターコースに行くことにしました。糸川先生との付き合いは、終生続きましたが、糸川先生は本当に忙しい人で、研究室も、誰も糸川先生に直接は教わった人がいないという不思議な研究室でした。でも自由な雰囲気で、素晴らしい先輩にも恵まれて、大学院時代は楽しく仕事をしました。当時は「日本で最初の人工衛星を目指す」という時期を迎えていたのです。
――「おおすみ」ですね。
的川泰宣氏: 当時は、ロケットの軌道から「おおすみ」の軌道まで、軌道計算は全部、大学院生がやっていました。5回目にやっと成功しましたが、「おおすみ」は、私が関係した人工衛星、30個の中でも、最も印象に残っている衛星です。「おおすみ」とそれから「ハレー彗星探査計画」そして、「はやぶさ」は、やっぱり長いことやっていましたし、印象的ですね。
「宇宙」と「平和」をベースに、未来の子どもたちに伝えたい
――『ハレー彗星の科学』を84年に出版されています。
的川泰宣氏: あの頃は、まだワープロが使えなかったので、手書きで書いた、最初で最後の本となりました。その第二作からワープロを使っています。こんなにたくさん本を書くことになるとは、思ってもいませんでしたね(笑)。でもあの本を書いたことで、自分の気持ちに火がついたのかもしれません。その時に、一緒にやってくれた石山昭夫さん。彼は、編集者として本の完成に、尽力してくれました。その時に、本というものが、どのようにしてできあがっていくものなのか、著者の気持ちをどう反映していくものなのか、と教えられました。随分、影響を受けました。社会が良くなるために、頑張るというのが一番大事なこと。自分が訴えたいことが、社会に焦点が合っていないとダメだというような、基本的な姿勢を教わったと思います。素晴らしい人でしたね。私が書いた本は、監修した本を含めると100冊以上あります。ライターに書いてもらうというスタイルもありますが、私は文体なども気になるので、全部自分で書いています。社会に訴えたいことがあるならば、やっぱり自分の言葉で語らなければいけない、と私は考えています。
――どのような思いで、書かれていますか。
的川泰宣氏: 若いころは、宇宙の知識といったものを本に書いていた気もします。でも今は、宇宙というものの存在を通じて、子どもや社会の未来をどう思い描いていくか、ということを考えています。今までたくさんの本を書いてきましたが、今の時点の私の考えに基づいて、全部を書き直したいとも考えています。あと、宇宙の仕事をするようになって、“平和”に関してもよく考えるようになりました。自我の芽生えとともに、小学校5年ぐらいの時に初めて、自分の死後のことを考えるようになったのを覚えています。そういった時期が過ぎたころに、心の中心にあったのは、「みんなが、幸せになるような時代がくるといいな」という思いでした。
――平和がキーワードなのですね。
的川泰宣氏: 広島、呉には、意味もよく知らないまま“平和”という言葉を使う小学生も多くいました。松本零士さんは、私の4つ年上なのですが、呉が空襲に襲われたころは愛媛県の大洲に疎開していて、ちょうど呉へと向かって飛ぶ、空が真っ黒になるぐらいのB29の編隊を見たそうです。疎開先のおばさんから「あれは多分、呉を攻撃しに行くんだ」と言われたそうです。私は「零士さん、その時に止めといてくれりゃ、呉は大丈夫だったのに」って言ったら、「後ろから『バカヤロー』って言ったんだけど、駄目だった」とか言っていましたよ(笑)。
零士さんは北九州出身で、私と同じように苦労していて、私よりも大きかったから、彼は私よりも、はるかに“日本人”ということを、意識した人なのだと思います。そういう同じ時代に生きた人の中には、社会がよくなるといいなという考えがあるのです。90年代半ばからは、おかしな事件がおこるようになり、日本社会全体が不安な雰囲気に包まれるようになりました。その時に、宇宙の世界で飛び込んだ時の、自分の立ち位置というものを忘れてしまっていたなと、気が付いたのです。それで「定年後は、宇宙をベースにして、子どものころに抱いていた“平和”という方向に進もう。次の世代につなげていくような仕事をしよう」と、決めました。
――良い未来、の正念場にきているように思われます。
的川泰宣氏: どんどん進化し続けるので、宇宙教育には完成形はありません。一番大事なことは、立ち位置。宇宙が盛んになって、社会が駄目になるのでは本末転倒。宇宙開発の将来のために人類がどう貢献できるのかではなく、この世界を良くするためにこそ、宇宙活動は貢献すべきなのです。ブラックホールや、ビッグバンのことが全てわかれば、人類が滅びてもいいわけではありません。自分自身の志を実現させていくのが人生だし、自分自身が輝くことも、子どもにとっては大事なこと。小さいころは、それでもかまいません。思いっきりやってくれればいいのです。その根底に、我々の世代が小学校のころに思い描いたような、“みんなの社会だ”という思いがあれば、それで十分だと私は思っています。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 的川泰宣 』