問題は回避せず解決せよ
ソーシャルネットワークプラットフォーム「Revolver」を運営する株式会社リボルバーCEOの小川浩さん。ネットとリアルのメリットをつなぎ合わせたSNSは多くの人々が参加し賑わう「場」となっています。行動の早さからいつも「十年早い」と言われる小川さんの原動力とは?挑戦の軌跡を辿りながら、社名の由来とそこに込められた想いまで伺ってきました。
弾丸乱れ撃ち リボルバーの力
――社名でもあるSNS「Revolver」は、運営から3年を迎えます。
小川浩氏: 「Revolver」の特徴は、内輪のコミュニティを作るタイプと、僕たちが“ウェブマガジン”と言っている、雑誌のように情報を更新して、広くみんなに見てもらう二つのタイプを持ち合わせている事です。前者のコミュニティは2012年の9月倖田來未さんのコミュニティ、“peeproom”からスタートしました。
今は、企業個人問わず多くの方にコミュニティを作成、利用してもらっています。共通の趣味が盛り上がる場だけではなく、けっして母数が多くはないけれど確実に存在する、なかなか他人には打ち明けにくい相談を持ち寄る場にもなっているようです。他のSNSとは異なる、好きなルールで運営できるコミュニティを作る事が出来るというのが一番の特徴ですね。実名は出したくないけれども、匿名では、また問題が生じます。「Revolver」では、会員登録の際に、実名情報を入れますが、いったん中に入れば匿名で活動できます。
――匿名の気軽さと、実名登録による確実性を確保されたのですね。
小川浩氏: オープンなメディアとして使う場合、広く情報を出したい方を対象にしています。発信できるコンテンツを持っているのに、それを形にできない会社や個人は少なくありません。コンテンツを出すための器を、僕たちが提供します。最も安く、しかも常にアップデートされた最先端の仕組みを提供しています。
社名の由来は、僕たちの想いからでした。Webサイトを構築するサービス(CMS)の世界最大手のWordpressの提供会社は、Automattic社というのですが、彼らがオートマチック(自動拳銃)なら、我々はリボルバーで行こうと(笑)
ちなみに、自動拳銃は弾が詰まったら、一度チャンバーを外して不発弾を外さなければ撃てません。でもリボルバー(回転式)の場合、引き金を引けば次を撃つことができます。リボルバーは古臭いテクノロジーですが、今も現役です。今までの経験を今の時代に合わせた形で、何をするにも十年早いと言われた僕らがやることの意味を考えながら、社名のように挑戦し続けたいと思っています。
ピンチをチャンスに 問題は回避せず解決せよ
――「Revolver」以前も、数々の挑戦をされています。
小川浩氏: 僕の最初のキャリアは鉄鋼の商社からスタートしました。商社での仕事も、やりがいがなかったわけではありませんが、アレンジの先はゼネコンの仕事です。一貫した達成感や目の前に成果物が上がってくる重量感を感じたくて、自分がメーカーになりたいと思うようになりました。
――自ら作りたい、という気持ちがあったのですね。
小川浩氏: 昔からクリエイティブな作業が好きで、一人になる時間は、よく本を読んでいました。本が好きで、いつかは書きたいという思いがありました。中学・高校の時の趣味は小説を書くことで、大学ノートに毎日書いていました。20冊ほどありますよ(笑)。大学では、映画研究会を作って、数本、8ミリを使って映画を撮っては三日三晩、編集作業に没頭する生活を送っていましたね。小さい頃、親の仕事の都合で、二年に一度は転校を余儀なくされていました。小学校は4校、中学校は3校に通いました。転校すると、せっかく築きあげたコミュニティは、またゼロからのスタートになってしまいます。僕がリセットしてイチから始めることが得意なのは、そこに理由があるのかもしれません。
起業を決意した年は、世界中でインターネットが盛り上がってきていた時期でした。「これからはインターネットで何か作れる。知識もみんな殆ど変わらないから、ここからだったらゼロスタートができる」ということで始めました。96年でした。出資者を探し始め、二ヶ月後には会社を作っていました。「狙ってから撃つ」だと、遅いんです。まず動くことが大事。そこから帳尻を合わせればいいかなという部分はありますね。それが良いか悪いかは別にして、僕の場合は、常にそういった感じです。
――海外で起業されて、いかがでしたか。
小川浩氏: 当時、海外で会社を興すという場合、目線は地元志向でした。僕らは、そこからアジア全体へ広げたいというベンチャー思考を持っていました。今でいうところの、スタートアップだったのですが、当時はベンチャーや青年実業家というキーワードの中にいました。とはいえ、イケイケの状態だけではなく、不安もありました。マレーシアで当時勤めていた会社を辞めて、ワークパーミット(労働許可)ビザを取って、自分で色々なつてを辿って会社を立ち上げました。
Windows95が出たばかりだったので、日本語のPCをアセンブルして、それを通販でマレーシアの日本法人に販売するビジネスモデルでやっていました。ところが自分が持っていたPCが、あろうことか壊れてしまって「自分たちが持っているものを壊すようではダメだ。ちゃんとしたものを輸入した方が良い」と思い、PCメーカーのアキアさんに「マレーシアで、あなたのブランドを売らせてほしい」とダメもとで電話したのです。なんとか時間を作ってもらい、日本でアキアの社長と会うことができ、深夜まで開いている中華屋さんへ行って餃子をつまみながら話をしました。僕は32歳、社長は48歳くらいだったと思います。野球の話ばかりで、仕事の話し合いは10分ぐらいでしたが、そこで「いいよ、やろうか」というお返事をいただけたのです。きちんと整備をし、東京のFedExで倉庫を借りて、そこに入れてもらいました。FedExさんは当時、マイクロソフトオフィスなどをインストールしてくれる代行サービスまでやっていたので、それを使い、完成品となったものを、FedExからお客さんに直に送るというものを考えました。2年間ぐらい、そのビジネスをやっていました。
――ピンチをチャンスに変えたのですね。
小川浩氏: 問題が起こったとき、それを解決すれば、それがビジネスになります。大抵の場合、問題は回避すべきものとして捉えられてしまいますが、解決できると思って何かをやる。障害に出会った時は、回避するのではなく、試す方がいいです。時間を惜しんで動いてみるということが大事かなと思います。
著書一覧『 小川浩 』