漫画で「難しいことをわかりやすく」
イラストレーター・キャラクタークリエイターとして活躍する、うだひろえさん。自ら直面した困難を、コミックエッセイで伝えてくれます。編集さんをも泣かす本づくりとは?経験がもととなって芽生えた「漫画で誰かの役に立ちたい」という、うださんの想いを伺ってきました。
“勝手に漫画連載”から始まった描く生活
――このほど故郷であるこちらに活動の拠点を移されました。
うだひろえ氏: 愛知に戻ってきたのは昨年末なので、まだ数ヶ月ちょっとです。それまで二十年近く関東にいました。ネットで原稿を送れるので、こういった生活を実現することができました。2008年に出した『夢追い夫婦』の最後のあたりで家を購入しました。その後、子どもが二人生まれて家が手狭になってしまったので、その失敗をなんとかして克服しようと描いたのが『住まいの不安がなくなる 絶対失敗しない家・マンションの話』でした。そういった感じで、人生と本が共に進んでいく感じでもあります。
――人生と本が共に。
うだひろえ氏: 昔から、家ではずっと漫画を読んで、それを真似して描いていました。小学校中学年のころには、勝手に漫画連載を始めましたが、なんとなく恥ずかしくて他の人には見せませんでした。でも、“乞うご期待”とか“続く”とか、心の中では「今日も〆切りが…」などと考えながら描いていました(笑)。当時、「スケバン刑事」が流行っていて、私も映画を観にいきました。テレビでしか「スケバン刑事」を見ていない友だちに、なんとかしてこの面白さを伝えようと、自分で漫画にして伝えたりしていました。
また『りぼん』で連載されていた『ときめきトゥナイト』などを読んでいました。自分で『なかよし』と『ちゃお』を買って、『りぼん』を持っている友だちと交換したりもしていましたよ(笑)。親戚の家にあった、『少年サンデー』とか『少年マガジン』なども読んでいて、『翔んだカップル』は、ドキドキしながら読んでいました。保険のセールスレディーであった祖母に連れられて近所の喫茶店にいった時に読んだ『コータローまかりとおる!』も好きでしたね。
「看護婦さん」を将来の夢に抱いた時も、看護婦さんの絵をめちゃくちゃ描いていました。本当は絵を描きたかっただけだったのかもしれませんね(笑)。コバルト文庫やティーンズハートを読み始めると「小説家になりたい」と変化していきます。折原みとさんが大好きで、漫画も小説も書いて、挿絵も自分で描くというスタイルが、まさに私の理想でした。中学生の後半には、山田詠美さんにはまってしまいます。思い返すと「かく」道以外は全く考えなかったように思います。
中央線ドリーム時代
うだひろえ氏: 大学では“表現”の勉強をしたかったので「文芸コース」ができたばかりの法政大学へと進みます。ゼミの教授は、芥川賞を受賞された笠原淳先生でした。愛知の片田舎から都会に行ける、ということでウキウキでしたね(笑)。最初は、学校に近いということと、学生の憧れの町ということで、高円寺に住みます。そこからサブカルにもハマっていきました。大学時代は、文科系の広告研究会に入ったり小さな出版社でアルバイトをしたりしていました。そこで次第に、マスコミに進もうと考えるようになりました。描くことが好きなので、エントリーシートも、デザインの凝ったものを提出していました(笑)。それが功を奏した(!?)のか、漫画専門の広告代理店に就職をしました。
10人ぐらいの会社でしたが、そこでは“漫画での商品説明”をしていました。漫画自体は有名な漫画家さんにお願いしていましたが、内容は制作会社が作っていました。大学でもやっていた、話を作るということ、そしてそのネームを作って漫画家さんに提案するというのが私の仕事でした。漫画が好きだった私のネームは良い評判が頂け、漫画家さんにも「これだけやってくれるのなら、楽だわ」と言ってもらえることもありました。今まで出した本は、ムックも合わせると八冊になりますが、実用の話を書く時、その仕事をしていたことが役に立っているなと感じています。また、有名な作家さんの商品の販売サイトを、一から作ったこともありました。色々なことに詳しくなっていって、ホームページを作れるまでになりました。
――今のホームページも、ご自身で。
うだひろえ氏: 全部、自分でやっています。Flashも自分で作るようになりました。一時期、トップのアニメーションをFlashで作ったりもしていました。その会社は10カ月くらいで辞めてしまいました。私の場合は、「そうした方が楽しそうだ」という目標が決まると、そこに突っ込んでいってしまうのです。
――ストリートアーティストもされていたそうですね。
うだひろえ氏: 広告代理店を辞めた後に、ユニットを始めました。フリマで、不用品と一緒に、段ボールに絵を描いたようなポストカードを100円くらいで売ったら、割と売れたので「これはいけるんじゃないか」と、そのうち井の頭公園や表参道で売るようになりました。多い時の売り上げは1日で5万円ぐらい。デザインフェスタや、名古屋のクリエイターズマーケットなどに出ると、もっとたくさん売ることができました。まだネットもそれほど普及していなかったし、時期も良かったのかもしれません。今だとpixiv(ピクシブ)などで、きれいでかわいい絵を描く人を見つけることもできますが、当時はまだ、現地で見る方が多かったんです。そのころは待ち受け画像や、Flashアニメの仕事などをしていました。
路上での活動をしている途中でユニットは解散して、一人でやるようになりました。その時に私に声をかけてくださったのが、「名探偵コナン」や「ルパン三世」を手がける東京ムービーさん(現、株式会社トムス・エンタテインメント)でした。そこで作った色々なキャラクターが、アニマックスで放送されることになりました。それと同時期に、韓国で「梅四」がFlashアニメーションになり、グッズ展開されたりもしました。韓国のアニメやアニマックスの反響もあって、色々なお声がかかるようになりました。
私がイラストを描いたある本の打ち上げに出た時、同じように打ち上げに来ていたメディアファクトリー(現、KADOKAWAメディアファクトリー)の方と帰り道が一緒になったんです。その時に「漫画を描きたい」というような話をして、編集さんを紹介されました。キャラものの企画を三つぐらい持っていきましたが、全部ボツで……(笑)、逆に「エッセイは書けますか?」と。それで「主人がバンドマンなのですが、それをネタにした漫画というのはどうですか?」と提案しました。それが『夢追い夫婦』です。すると今度は、コミックエッセイの携帯配信のお声がかかるようになり『ラス☆チル~昭和さいごのコドモ~』が出来ました。それがメディア芸術祭で入選、そこからさらにサンクチュアリ出版からお声がかかり、お金の話の本へと繋がっていきました。