「楽しみ」の中からチャンスを見いだそう
優れた作家を発掘し、版権管理を行うエージェントとして小説やビジネス書のヒット作の数々を世に送り出している鬼塚忠さん。ご自身も小説家として活躍しています。作品はテレビドラマや映画化され、幅広いファンを獲得しています。書き手として、読み手として、また作り手として本の世界に深く携わる鬼塚さんに、出版業界・コンテンツビジネスの将来、執筆への思い、また活動の原点となった世界放浪の旅など、たっぷりと伺ってきました。
美女マップで「鬼塚クラス」
――執筆された小説『恋文讃歌』や『鬼塚パンチ!』では故郷の鹿児島について描かれています。
鬼塚忠氏: 『恋文讃歌』では、私の祖母の話を書きました。祖母にインタビューして、それに脚色を加えて小説にしたものです。もともと祖母は読書好きでしたから、完成したら真っ先に送りました。残念ながら高齢のため文字はもう読めないのですが、父母から「読めないけれど、本を出したことはすごく喜んでいる」という話を聞きました。鹿児島に帰った時、私の前でその本を見て泣いてくれました。脚色を加えているので「これは誰ね?」と質問もされましたけど。
私が小さな頃から祖母は戦争の話をずっとしていて、そのころはうるさかったので無視していたのですが、自分自身も40歳を超えて、父母、祖父母のことをできるだけ聞いて記録に残しておかないといけないと思うようになりました。でもノンフィクションだと、直接の体験者が書いた、例えば『戦艦大和ノ最期』なんかには絶対負けるんです。それに対抗(笑)するために、構成を工夫しフィクションを付け加えました。
今回発売になった『鬼塚パンチ!』では、私の高校時代のエピソードを下地にして、物語を描きました。私が生まれ育ったのは鹿児島市内で、父親は理容室を営んでいました。小さな頃は漫画をずっと読んでいて、白土三平と手塚治虫、柳沢きみおが好きでした。白土三平は、エンターテインメントとして読みましたが、知らない間に思想みたいなものが刷り込まれていることを、小説を書くようになって実感するようになりました。『海峡を渡るバイオリン』、『花いくさ』、『恋文讃歌』も、白土三平的な考え方が出てきています。階級闘争や土一揆のような、弱いものに肩入れして、大きな者を倒すところを描く手法ですね。『花いくさ』も、権力的に弱いものが上に向かっていくのですが、剣で倒さないというところがまさしく白土三平的な思想です。また私の書いている『鬼塚パンチ!』の胸キュンのストーリーは柳沢きみおの『翔んだカップル』から受け取ったと思っています。実家のある鹿児島に帰って本棚を見ると、三島由紀夫の『行動学入門』なども並んでいます。たぶん大学時代に読んだのだろうと思いますが、でも結局難しい本は全部頭の中に入っていません。血肉にはなっているのは漫画ですね。
中学ではクラスの人気者になりたくて、クラスメイトに向けて毎日いろいろな話をしていました。その頃、発音が不自由な状態が一時期あって、コンプレックスがあったのですが、なんとかそれをひっくり返したくて、面白いお話をしてウケたいと強く思うようになりました。ウケると、さらにウケるためにホラを吹く(笑)。面白いことを企画するのも好きで、今とやっていることは一緒ですね。例えば学校の「美女マップ」を作って、美女ベスト10の地図を作ってみんなに配る(笑)。そんなことばかりやっていたから、私のクラスは「鬼塚クラス」と言われていました。
女好きで女性と付き合うのがうまい男と、生徒会長タイプの男と、ホラ吹きみたいな私がいて、サッカー部のコアな仲間でした。今、女性と付き合うのがうまい男は芸能プロダクションをやっていて、生徒会長タイプのまじめで説得力のある男はNHKに行って独立して『半落ち』を手がけた映画プロデューサーになりました。そして私は、今のような仕事に……。みんな子どもの頃に持っていた強みを生かして仕事をしています。良くも悪くも、それ以上のものは持てなかったのでしょう。
――大学在学中にイギリスへ留学されます。
鬼塚忠氏: それまで好き勝手していて、あまり勉強してきませんでした。「このままじゃ生きていけない」と思い、サッカー部だったけれど、高校は鹿児島県大会で勝てない。鹿児島県でサッカーが一番強い鹿児島大学に行ったけど、このまま人生をサッカーに費やしてはいけないと思ってきっぱりやめたら、残るものが何にもなくなりました。「一旗揚げる」なんて言っていたけど、やる気だけしかありませんでした。それで「まずは英語だ」と思って、セブンスデー・アドベンチストという教会の経営している英語学校で半年間学んでから、学校を2年間休学してロンドンに行きました。
――どうしてロンドンを選ばれたのでしょう。
鬼塚忠氏: 「かっこいいものは全部ロンドンから来ている!」と思っていたからです。でも実際に行くと田舎で、寒くて食べ物もまずいし、描いていた「いいもの」はほとんどない(笑)。することがないから、とにかくがむしゃらに勉強しましたね。ロンドンには世界中から英語を学ぶ若者が集まっていましたので、いろんな国の人たちと友達になって、英語の読み書きをできるようになって、帰る時にスペインを旅行しました。そして帰ってきた頃、日本はバブルでした。
バブル絶頂期、型破りの旅行資金集め
――バブル期だと就職も……。
鬼塚忠氏: 実は就職するつもりは全くありませんでした。仮に一流企業といわれているところに入ったとしても、会社の仕事は面白くないんだろうと、漠然と感じていました。その頃に大学四年生になり、入社試験を受けに行くだけで一社につき交通費とかなんとかで10万円貰えたのですが、それを目当てに、東京までヒッチハイクで行って友達の家に泊まって、何十往復して結果200万円ぐらい貯まりました。罪人です(笑)。10万円くれる会社でも、実際入ったら給料は一カ月残業がありありで20万円がやっと。一瞬頭を下げれば10万円なのに、一カ月フルに働いて20万円なんて、何かがおかしいと感じていました。
――おいしい思いも感じつつ、なにか解せない気持ちがあったんですね。
鬼塚忠氏: その代わり犠牲もあって「金を使わせて入らないとは何事だ」と、コーヒーをかけられたこともありました。それで、なぜかやっぱり世界を見なくちゃいけないと思い立って、250万か300万円ぐらいあった貯金を全てトラベラーズチェックに換えて、できるだけ世界をまわることにしました。まず大阪までヒッチハイクで行って、そこからフェリー「鑑真号」で上海まで行って、それで中国をまわって、タイに行って、マレーシア、シンガポール、インドネシア、オーストラリア、ニュージーランド、ニューカレドニア、インド、ネパール、パキスタン、イラン、トルコ、ギリシャ、イスラエル、エジプト、ギリシャ、マケドニア、ユーゴスラビア、クロアチア、ハンガリー、ドイツ、イギリス、フランス、ドイツ、ポーランド、ロシアに行って、シベリア鉄道で帰ってきました。
――イスラエルではユダヤ人の商売の仕方を肌で感じたと。
鬼塚忠氏: ユダヤの人たちはとにかく勉強好きで、日本人よりはるかに頑張ります。日本人の性質として、上から来たもの、振られたものをまじめに万全にこなすというところはすごいのですが、ユダヤ人のすごさはまったく別物です。ユダヤ人は挑戦する。まず何に挑戦するかを考えて、そのためにはどうすればいいかを考えて、その準備を万全にこなして「よし、勝負するぞ!」という具合です。考え方も行動も全く違う。イスラムの国はコーランが、彼らの行動原理であって法律でもある。でも、イスラエルは近代国家で、行動規範はユダヤ教の「タルムード」ですが、行動規範と法律は違う。例えば彼らの行動規範では、エビとかカニとかを食べてはいけないのですが、法律はそういうことを一切否定していない。そのころテルアビブは国際都市になっていたので、チャイニーズレストランがどんどん出来ていました。
世界中で、生きる場所を探していた
――チャイニーズレストランと言えば……。
鬼塚忠氏: エビです。みんながエビを食べ始めて、おいしいということで需要がものすごく増えました。でも彼らは基本的に保護貿易で、輸入されるエビは高い。そこで私のボスが「エビはビジネスになる」と言い出して、エビを勉強するために英語の本をバンバン買ってきて、私も読まされました。そうすると、どうやら日本人が一番エビの養殖がうまいということになって、日本に電話して友達から『エビと日本人』とか、エビの本を何十冊と送ってもらって、それを読んでレポートを書いたんです。で、結論として、エビの養殖はイスラエルでできるということになったので、ボスから「エビの養殖の養殖場長をしろ」と言われました。年収800万円ということでした。
ボスは好きで尊敬できたんですけど、その奥さんとうまくいかなかったので、その仕事はお断りしました。彼らは基本的に日本人のことを尊敬しているんですが、私が住み込みをしていた高級住宅街には多くのフィリピン人のメイドがいて、ものすごく低く扱われているんです。私は色が真っ黒だったので、一度、街でしつこく挑発されて、つかみ合いのけんかになったこともあります。アジア人に対する仕打ちが許せなかったのかもしれません。イスラエル人はもっとも人種差別をしてはいけない国民なんですけどね。
――世界への旅は鬼塚さんにとってどのような日々でしたか。
鬼塚忠氏: 実は、私は旅行とは思っておらず、どこかに生きる場所を見つけて、そこで暮らすのではないかと半分思っていました。インドで悟りを開こうと思ったこともあります。結局3年で日本に帰ってきたあとは、お金もなく着るものもありませんでした。仕方がないから、以前就職活動で私と会っただけで10万くれた人たちに電話してみました。1万ぐらいくれるだろうと(笑)。そうしたらみんな、「バカ野郎!」と言って相手にしてくれません。そんな状況で、かつバブルも崩壊して日本に職がなかったので、仕方なく放浪中に新聞記者のバイトをしたことがあるオーストラリアの日本人向けの新聞社に電話したら、一言「オッケー!」と言われました。でもビザが2、3カ月でおりると言われていたのに、1年ぐらいたってもおりない。その間は、簿記会計の専門学校に通っていました。仕訳をやれば貸借対照表と損益計算書ができていく、複式簿記の原理がすごく面白いと感じて、一生懸命やっていました。ところが、待てども待てどもビザが降りず、そのうちオーストラリアの新聞社とはご破算になってしまいました。
――その後、仕事探しはうまくいったのでしょうか。
鬼塚忠氏: 簿記を勉強したけれど、税理士と米国公認会計士の試験には通らなくて……、仕事を見つけようと50社ぐらいに応募してもやっぱり受からない。行って落ちる、会って落ちる、送って落ちる……。そこで、外資系のイングリッシュ・エージェンシーの社長と会いました。作家のエージェントという素晴らしい仕事なのだけど、どうせ落ちると思ってあんまりいい服装もしていませんでした。そこのイギリス人の社長と副社長と会ったんですが、社長は日本語が全くしゃべれないので、英語で今まで読んだ本について「あれは良かった」とか、飲み屋の延長みたいな感じでしゃべりまくったら、英語と簿記ができるということで、経理で入れてもらいました。
せっかく入った会社も、自分には経理に面白さを見いだせなくて、PC関連の勉強をして、会社のシステムを作り始めました。それも終わったらつまらなくなって。エージェント業を始めてからは、ほかの人がやっていない映画やスポーツの分野を自分で切り開いていきました。そうすると、会社がどんどん私に金をつぎ込んでくる。もっと英語ができるように、週に2日英語の家庭教師と、アシスタントに人も付けてもらいました。
自分が面白いと思うものを売りたい
鬼塚忠氏: 海外の全く知らない文化を日本で誰よりも早く触れられるということで、はじめは楽しかったのですが、だんだんとつまらなくなっていきました。ハリウッド映画の原作のエージェントをやって『アルマゲドン』という映画の原作の権利が高い金額で売れた。でも私は、字幕もない来たばっかりの映画を見て、「暴走族のあんちゃんと土木作業員のあんちゃんが組んで、隕石をぶち壊して地球を救うって、荒唐無稽も度が過ぎるんじゃないか」と思いました(笑)。その頃からだんだん自分でいいと思わないものを売ることに対して嫌気がさしてきたんです。
そこで、コンテンツを自分で作ろうと思って社長に言ったのですが、社長は、日本で海外作家のエージェントをするのがミッションだと考えていて、その姿勢を崩さなかった。だったら独立するしかない。はじめから独立したかったわけではなく、自分のしたいことをするために必然的にそうなりました。会社の規模を大きくすると、自分の知らないものが出版されて、自分の手の届く範囲ではないところで、社員が勝手に売っていくことになる。それは不本意なので、規模の追求をしないと決めました。
――その後は作家のエージェントとしてヒット作を連発することになります。
鬼塚忠氏: 昔、出版の業界は「偉い人が偉そうに時代を見て仕事をする」と言われていて、それは違うと思っていました。自分の好きなものをやってウケるのが一番ですからね。でも、今はやっぱり時代を見るというのも重要だと思います。電子書籍も現れるし、出版不況で、どんどん出版の市場が小さくなっています。作りたいものが年を経るごとに作れなくなってくる。15年間とか20年間かけてやりたいと考えていたものを、5年間ぐらいに凝縮して捨てていかないと、その後どうなるかわからない。個人的にも自分のやりたいことを、この3、4年間ぐらいに凝縮しています。出版業界にいる人の99%は危機を感じていると思うのですが、その中の半分ぐらいの人はもうだめだと思っていて、半分ぐらいの人はそれをどう打開していこうかを考えている。5、6年前ぐらいまでは、紙に印刷をしてISBNを付けて流通を通して流すということが絶対条件だった。今それにこだわると落ち込むばかりです。違うことを考えていかないと、収益の上がらない仕事になっていくので、出版を中心に映画や舞台など、幅広いコンテンツを扱っていかないとと思っています。
――鬼塚さんご自身も書き手として活躍されています。
鬼塚忠氏: メインの仕事はあくまでエージェントで、余った時間を自分のために本を書くことに充てている感じです。先日、ある人の出版記念パーティーに行ったら、ある新聞の拡張員が「人が知らないことを書かないと価値がない」って言っているのを聞いて、なるほどと思いました。次にお会いしたテレビショッピングの構成作家が「30分で1億5000万売れたよ。私の文章力はすごい」って言う。そしてバラエティー番組の構成作家に会うと「私の文章で何万人の人がテレビの前でゲラゲラ笑っている」と言っていました。そこで、文章の価値を考えました。私の『海峡を渡るバイオリン』はドラマになりましたが、テレビで1400万人、DVDや再放送で600万人、合計2000万人の人が見て、600万人が泣いたとプロデューサーが言っていました。それを聞くとものすごいエクスタシーを感じます。本は10万部でも「バンザイ」って言える。でもドラマ化されたことで600万人を泣かせた。これがもしリアルだと、目の前の一人に伝えることがやっとです(笑)。そう考えると、執筆欲がすごくわきます。「社会のためになることを」とは考えていません。結果的にはそういう風になるのかもしれないのですが、世間を騒がせたいとか楽しませたいということが第一です。
世界に羽ばたこう
鬼塚忠氏: 特に女性と子ども向けの感動させるものを書きたいですね。以前『Little DJ~小さな恋の物語』を読んだ女子高生からファンレターを頂いたのですが、その手紙の私からの返事に、高校生だけでなく理事長までもが感動してくれて、卒業式で全校生徒の前で読んでくれたらしいのです。
――どのような内容だったのでしょう。
鬼塚忠氏: 高校生は「医療関係のなんとかに絶対なる」と、強気なことを言います(笑)。目標を持つのは大いに素晴らしいことですが、私は「けれどあなたは人生の何も知らない。今から目標を作ることもいいのだけど、目標だけを定めるとそれ一つしかない狭い考えになってしまう。だから、もっともっと世界を見なさい」と伝えました。「人生で大きなチャンスは必ず巡ってくるから、その時にチャンスをチャンスであると見極める力と、そのチャンスを見極めた時にそれをものにする力や教養を付けるために、日ごろから勉強してください」と書きました。
――目標に向かって「頑張れ」ではないのですね。
鬼塚忠氏: 「楽しく生きよう」ということしかないですね。人生はあまりにも短い。私は私で楽しく生きるので、あなたはあなたで楽しく生きてくださいということです。ビジネスパーソンは、もちろん仕事ができること、お金を持っていることは重要ですけれども、いくら仕事ができてお金があっても、文化について何にも知らないといい人生とは言い難い。どんなに忙しくても、ちょっとぐらい本を読んでくださいと言いたいです。お話しして面白い人になってほしい。金稼ぎも重要ですが、バランス感覚を持って、つまらない人間だけにはなってほしくないですね。
私自身の楽しみの先にある挑戦は世界です。コンテンツで世界を目指したい。うちの会社は社員が私を含めて四人いて、つまり四つの頭脳と八本の手を持っている。この頭脳と手で、できるだけ多くのことを深く、その中で芽があるものを少しずつ伸ばして世界に持っていきます。黙っていけば保守的になっていきますから、できるかできないかは別として「挑戦する」ことが重要なのです。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 鬼塚忠 』