今日のベストを尽くして成長する
上級メンタルトレーナーの田中ウルヴェ京さん。シンクロ選手としてソウルオリンピックで銅メダルを受賞後、米国大学院留学を経て学んだコーピング理論は、今やスポーツ界のみならず、多くのシーンで必要とされています。そんな京さんも、選手としてのセカンドキャリアに悩んだ時期もありました。どのようにして、自分の限界を広げていったのか。「日々のベストを尽くして成長する」という京流コーピング術とは。
自転車“少年”時代
――講演や執筆、コメンテーターなど、様々な場でご活躍中です。
田中ウルヴェ京氏: もうすぐ50歳になりますが、年を重ねれば重ねるほど、どんどんやること、やれることが多くなってきています。20代の時「これ以上、忙しくできない」と思っていたのに、30代になったら、会社を起こしていました。そのときも子どもがまだ小さかったから「これ以上できない」と思っていたのに、40代になるとまた、新たなことをしている……その連続です。今日のベストを尽くせば、明日のベストにはすでに隙間があって、その次の日も余力が生まれるんです。頑張っていれば、ちょっとずつ余裕ができてくるように、膨大な脳の処理能力を少しずつ増やしている感覚があって、それが私にとって一番楽しいことです。
そのときは「ああ~!」って、いっぱいいっぱいになっていても、あとで振り返ったら「なんだ、たいしたことなかった」と思えるんじゃないかと、常に思っています。これは、シンクロナイズドスイミング(以下、「シンクロ」)をやっていた時と同じで「こんな息の苦しい足技はできない」と思っていても、精一杯1年練習を積めば、その息苦しい足技がいつの間にか難なくできるようになるわけです。
――ずっと、伸びしろを広げてこられたんですね。
田中ウルヴェ京氏: 3歳の時にプールに通い始めた頃から、始まっていたのかもしれません。その時はすぐに辞めたのですが、6歳の時に「もう一度水泳教室に通いたい」と自らお願いし再開しました。1ヶ月も経たないうちに400mを泳げるようになって、タイムもどんどん更新されていきました。でもまだまだ子どもだったからでしょうか、ただまっすぐ前に向かって泳ぐだけというのが面白くありませんでした。そんな4年生のある日、水泳教室の横でやっているシンクロ教室の様子を見ることができました。最初の印象は、何かクルクル回っている、綺麗で面白そうだな、というものでした(笑)。
小学校1、2年生のころは、白金を中心に、恵比寿、広尾くらいまで、色々な秘密基地を作って、自転車で走り回っていました。小・中・高と通った聖心女子学院で仲の良かった友だちは長い黒髪にスカートで赤い自転車、私はというと髪はショートカットでいつもジーンズ、青い自転車に乗っていました。親しかった白金台の交差点交番のお巡りさんには、いつもかわいいガールフレンドを連れている男の子、だと思われていたそうですよ(笑)。
男の子に間違われるような外見でしたが、内心は、2月生まれの早生まれだったので、いつも「追いつかなきゃ」と焦っていました。幼稚園の時の10ヵ月の差というのは、子どもにとっては大きいものです。末っ子だったので、家でも「待って~」が口癖でした。学校でも偉そうにしていたけれど、心の中ではいつも慌てていて「頑張んなきゃ」と思っていました。小学4年生まではそういった感じだったような気がします。
高校3年生までは、そのまま聖心女子大学に進んで、学業と選手の二足の草鞋を履きたいと思っていました。当時は美智子皇后陛下も、よく学校にいらしていると聞き、素敵な卒業生のお一人と憧れていましたから。当時はキャリアというよりは、素敵な女性になるための勉強もして、思慮深い女性になりたかったのです。
――どうしてまた、思慮深さを(笑)。
田中ウルヴェ京氏: 「思慮深いスポーツ選手」って何かいいじゃん!と(笑)。でも、高1から日本代表になり、海外遠征で2週間くらい休んだりと欠席も多く、「二足の草鞋はダメ、学業がおろそかになる生徒を推薦できない」ということで、聖心女子大学の推薦を頂けず、日本大学の体育学科に進みました。
メダリストの先にあったもの
田中ウルヴェ京氏: 日本大学の体育学科に進んだ理由が、オリンピックに出るため、メダリストになるため、だったわけですから、その意味では、二足のうちの一つだけにしたということなので、「こりゃあ、死んでもメダリストにならないとシャレにならない。4年間は、全てをこれだけに懸ける!」という感じでした。でも嫌なことはない、ストレスにもならないと自分の中で決めていたので、苦労という感じではありませんでした。ただ、そういう心理状態では、体が疲弊します。鼓膜には穴が開いたし、疲労骨折で両肘は折れたし、体の色々なところにガタがきていましたが、当時は「痛くない」と思う根性というか、考えないことにするというコーピングしか知りませんでした。プロとしてやっていくのであれば、絶対にダメですが、オリンピックは大学4年の時だけだったので、そういう無理がきいたのだと思います。
選手時代は心理的にも、身体的にもプレッシャーを感じていて、息が苦しいスポーツだし、筋肉疲労は毎日のこと。だから無意識のうちに、色々なコーピングをしていたんだと思います。振り返って思うのは、当時は、メンタルのなかでも、とにかく必死になるということだけに集中していたということ。「この先生の声は、神の声だ」と決めると、良いか悪いかは別として効率は良かったように思います。「ここで悩んでも、意味がない」と決めたのは、大学1年の時だったと思います。
――その努力は、銅メダル獲得という形で実を結びます。
田中ウルヴェ京氏: 素直に嬉しかったです。ホッとしたという気持ちも大きかった。これまでの選択や決断がすべて○だと思えることは有難いことです。当時はチヤホヤしてもらえるのも嬉しかったですよね。道を歩いていてサインや握手を求められたりすると「あ、自分ってカッコいい」って思っちゃう人間でした(笑)。だから反面、引退してから数年経って、チヤホヤ度が落ちついてしまった頃からは、「私がメダリストであることは変わらないのに、なんでみんな冷たくなるの?」なんていう気持ちを持っちゃうような人間でした。
今振り返れば、そのころの色々な心理葛藤が、今の自分のキャリアにつながっているわけで。「あの時、色々なコンプレックスを抱えて、モンモンとした時期を過ごしたことは、良かったことだったな」と思えますが。
こういう楽観的というか建設的、客観的な考えに自分を持って行けたのは、引退して10年経ったころでしょうか。21歳で引退した時は、まだ今よりも“井の中の蛙”でした。さらにオリンピックでメダルをとったことで、その業績以上に「自分はすごい、偉いんだ」と勘違いしていました。シンクロでメダリストになったけれど、それ以外では単なる若者だということが、当たり前なのに受け入れられなかったんですね。