人と自らの「喜び」を掛け合わせる
「人の喜びの延長線上に自らの喜びを」――企業の営業・販売支援チーム「Office Niwa」の代表兼ディレクターを務める丹羽昭尋さん。ホテル、建築、家電……様々な業界で、人の喜びと幸せを追求する「お役立ち活動」を実践してきました。人の役に立ち、何事も諦めない活動はやがて、売り上げ日本一という成果に繋がりました。その想いとノウハウが込められた近著『日本一の売る技術』は、幸せを考える丹羽さんならでは想いがたくさん盛り込まれています。そんな丹羽さんの「幸せへの想い」の原点を伺ってきました。
“お役立ち活動”を実践する営業・販売支援チーム
――販売支援チーム「Office Niwa」について伺います。
丹羽昭尋氏: コンサルティングが主な業務ですが、数字面も大切にしつつ、さらにもっと根本的な現場の“人”の成長に特化した取り組みをおこなっています。一般的に各業界で営業に携わる方、小売りや量販店の販売に携わる方は、プロモーションなどを会社任せにして、自らは反響待ちという方も少なくないでしょう……ただこのような時代は終わりをつげ、これからは、個々で率先してアクションしていくことが、現場の人の成長になり、継続的な自社ファンにもつながり、ひいては売り上げ、社会の利益に繋がっていく「ハッピーサイクル」の時代だと考えています。お客様と最前線で接する営業、販売に携わる方々とチームを組み、実務支援をしていくのが「Office Niwa」の活動です。
また、私の本来の役職は代表です。ただ、チームという意識から、公にはディレクター丹羽昭尋として活動しています。私は、「目線の高さを合わせる」と言っていますが、スキルをトップダウンで教えるではなく、常に対等に向き合い、一緒になって取り組むことで、現場の方が自ら考えて継続できるスキルを身につけていくことを心掛けています。私が実地に入っているのは、そのためです。数の大小ではなく、本当に伝えられるかを考えて、「お役立ち活動」を実践しています。
――「お役立ち活動」とは。
丹羽昭尋氏: 私がキャリアをスタートしたホテル時代から、建設、電機店と様々な業種を経験する中で、常に大切にしてきた活動です。様々な分野で、必ず人の喜びがありましたが、「お役立ち活動」は、売り上げ数字に惑わされないお客様本意のものです。お客様の幸せの延長線上に、私たちの幸せがある……その原点は、小さな頃に感じた喜びからでした。
人の役に立つ喜びを知る
丹羽昭尋氏: 私は山口県周南市(旧、徳山市)という所で、東京都葛飾区出身の父と周南市出身の母のもとに生まれ、6歳までそこで育ちました。父はゼネコンに勤めており、母もパート勤務でいわゆる共働きでしたので、保育園に通う以外の時間は祖父母と一緒に過ごすことが多かったですね。
祖父母はJR徳山駅近くでビジネスホテルを経営しており、幼い頃から遊び場はホテルでした。小学生くらいになると、ホテルのお手伝いをしたりお客さんと会話したりするようになりますが、そこで働くことが楽しく感じていて、「仕事=楽しい」と刷り込まれたように思います。
決して大きなホテルではありませんでしたが、私の「お役立ち活動」の原点は、こだわりを持っている祖父母の接客する姿にあります。祖父母ともに90歳近い年齢ですが、今でも元気にやっていますよ。
――接客を通して、コミュニケーションは自然と……。
丹羽昭尋氏: 実はそうでもなくて……本来は極度の人見知りです。私の性格を心配して、父は野球や剣道に水泳、習字など色々習いごとをさせてくれていました。剣道は父が指導者という事もありまして、またアトピー性皮膚炎を患っていた私の症状改善のために、早朝5、6時からの素振りが日課となっていました(笑)。
そのおかげで、人見知りだった性格は少しずつ改善され、アウトドアや子どもの遊びを教えるレクリエーションリーダーを務めるまでになりました。「相手に喜んでもらえるだけでなく、こちらも自然と笑顔になれる。」自分の場所はここではないか、と感じるようになりました。地域貢献や社会福祉に対する関心が芽生えたのは、その頃ですね。
ところが、そうした幸せな状況は小学校高学年になると一変しました。私の家系は高学歴の人間が多く、私もご多分に漏れず「大きくなったら東大へ」と、祖父から言われ続けていました。父からは、塾やドリルなどのノルマが大量に課されるようになりました。
実は私、LDという学習障害を持っていて、特に「聞く、書く、読む」ことに非常に苦労しました。たとえば国語の時間。起立して、クラスのみんなの前で教科書を読む時など、一字一句全く頭に入ってこない有様で、相当つらいものでした。そうした状況でアトピーも悪化し、さらにクラスの中でいじめの標的にされるのですが、家に帰れば厳格な父と、行き場を無くして宗教にのめり込んでしまった母がいる。登校拒否になり、しまいには他人も自分自身にも嫌気がさしてしまい、中学校1年の夏ごろには家出をして1ヶ月間以上放浪してしまいました。
――1ヶ月間も……。
丹羽昭尋氏: 手持ちのお金と言えばお年玉くらいしかありませんでしたが、東京から祖父母のいる山口、広島方面まで電車や歩き続け、幸いレクリエーションリーダーをやっていたことが野宿やサバイバルの旅を実現できたと思ってます(笑)。
逃げ場所もなく、とにかくどこか別の場所に身を置いて考えてみたかったのだと思います。家出中には色々考えましたが、結局、東京に帰ってきて中学校を変えて、なんとか3年間を過ごしました。その後、入学することが出来た高校も、心を開くことなく学習障害の症状も打ち明けられず、苦しい日々を過ごしました。
転機になったのは、高校卒業時に起きた阪神淡路大震災でした。受験シーズン真っ只中でしたが、登録していた社会福祉協議会から連絡を受け、数日後には神戸の避難所になっていた小学校でボランティア活動に参加していました。このとき、私は支援する立場でしたが、人のつながり、助け合いの素晴らしさを被災者の行動から教えてもらいました。私も、人の幸せのために誠心誠意生きていく道を歩みたいと思うようになりました。