起業家は社会のセンターピン「日本の開業率を10%に引き上げる」
「日本の開業率を10%に引き上げる!」をミッションに、あらゆる側面から起業家支援サービスを提供する、株式会社ビジネスバンクグループ代表取締役の浜口隆則さん。どのようにして起業家支援の道に進み、そのミッションを着実に実行してきたのか。「一所懸命の喜びが、スタートラインだった」と振り返る浜口さんの歩みを辿りながら、起業家支援にかける20年間の変わらぬ想いを伺ってきました。
起業と経営を支援するビジネスバンクグループの挑戦
――ビジネスバンクグループでは、様々な「起業家支援」事業に取り組まれています。
浜口隆則氏: 私たちビジネスバンクグループは、たくさんの人が起業に挑戦できる社会、挑戦した起業家が尊敬される社会の実現を目指して、1997年に創業しました。
グループで取り組んでいる事業は広範囲にわたり、それぞれ会社やプロジェクト単位で動いています。「スタートップ会計株式会社」では、起業家を育てる会計サービス。「有限会社ビー・ビー・キャピタル」では起業の初期段階での投資をおこなうベンチャーキャピタル。「スターブランド株式会社」では、小さな会社のブランド戦略を支援と、あらゆる側面からの起業支援を展開しています。
その他にも、プロジェクト単位で動いているものなど、多数が同時進行している形で、グループは今、挑戦の段階にあります。その中で、それぞれの会社・事業に、責任者となる人材がリーダーシップを発揮してくれています。私の役割は、オーナー、株主、経営者、雑用係(笑)。頭の切り替えがそんなに簡単にはいかないので、案件は曜日ごとに振り分けながら指揮をとっています。
――「起業」をキーワードに、フル回転の毎日を。
浜口隆則氏: 今でこそこうしてミッションを掲げ、起業家支援という形で社会と関わらせていただいていますが、昔は、まったく頑張ることができず、そのことにコンプレックスを抱いていました。頑張れなかった自分が、一所懸命の喜びを覚え、それを起業支援に捧げるまでには、いくつもの偶然の出会いがありました。
「このままでは大変だ!」頑張れないことへのコンプレックス
浜口隆則氏: 私は、タクシー会社を経営する父と、美容室を経営する母のもと、大阪で生まれ、兵庫県宝塚市で育ちました。将来は、どちらかの会社を継ぐのだろうと漠然と考えており、小さい頃は、将来の夢に「株式会社の社長になる」と書いていました。
私が小学校6年生の時、父も母も事業を売却してセミリタイアしました。父は、家の石垣の手入れや、庭づくり、茶室を建てたりと悠々自適に過ごしており、その様子から「他の家庭とどこか違うな」とは思っていました。その頃は、父親の職業欄に「無職」と書くのが恥ずかしかったですね。
両親からして自由な空気を醸し出していたので、私自身、普段の生活で何かを強制されることはほとんどなく、わりとのびのびと過ごしていました。そんなだからか、頑張りが利かないというか……勉強、運動、色々なことに一所懸命になれませんでした。器用に7~8割はこなすのですが、そこで「もういいや」と満足してやめてしまう。突き詰めることができないし、その覚悟もなかったんでしょうね。
一方で変なこだわりを持っていて、小学生のときは「日本語にはひらがながあるのに、なぜ漢字を覚え、使わなければいけないのか」といったような屁理屈を、先生に言って反発したりしていました。その傾向は、その後もずっと続いていて、何かの事象に対してものすごく考えてしまうので、答えが複数解釈できるような国語のような科目は苦手でした。そういう意味で単純明快な、数学や物理が好きでしたね。
――あやふやにしておくことが出来ない性格だったんですね。
浜口隆則氏: 白黒はっきりしたい性格は、自分の内面にも向けられました。高校生の時には「自分は頑張れない人間だ」と自己分析していたので、このままでは立派な大人になれないという危機感を抱いていました。次の大学入学を節目に、何かひとつに一生懸命取り組もうと決めました。
体育の成績がよく、運動に関する努力なら継続しやすいと考え、大学ではその方面で頑張ることにしました。ちょうどその頃、NHKで横浜国立大学教育学部の先生が出演されている番組を見ました。
その先生は身体の動きを解析する学問、バイオメカニクスという身体力学を専門とされていて、テニスプレイヤーやゴルファーの身体の動きを力学的に解析していた番組の内容に惹かれました。この先生の下で勉強したいという想いから、横浜国立大学の教育学部へと進みました。