――美しいですね。
中園直樹氏: うん。それでオルゴールは美しいプラス切ない、儚い。とにかく青春に必要な要素全てオルゴールという物に入っているじゃないかと思ったんです。というわけでこの本が書けたんですね。で、次が3番目のハードル、子どものハートに届くか?ですね。
大学2年の時、1994年ですね。小説研究会の同人誌に『オルゴールの習作』という形で発表します。確か原稿用紙30枚ぐらい。これを読んだ小説研究会の先輩・後輩達は、みんな感動してくれたわけです。でも、それはちっちゃい世界で、全然足りない。なおかつみんな大学生なわけですよ。大学生の知り合いにはみんな読ませて、みんな感動はするんですけど、『こいつらみんな大学生だ!違う!読んでもらいたいのはもうちょっと年齢が下の子たちだ』と。
僕は宮崎出身で、自分の高校に帰るってなると、東京の大学にいたのでそうそう簡単に出来ない。で、どうしようかと考えて気付いたわけです。『そうだ教育実習だ!』って。その時には原稿用紙100枚ちょっとになったのかな。紙代を節約するためにワープロの一番小さいフォントで三段組みにして、一番小さいフォントだと読む側も嫌がるかもしれないんで、A3に拡大コピーするわけですね。それをホチキスで止めて、2セットを教育実習の時に持っていったわけです。2クラスを担当する事になったんですが、マンモス学校だったので1クラス50人ちょっとぐらい。で、1クラス1人ずつ仲良くなった子に渡して、『お前が感動したら他の奴に渡してくれ』とお願いしたんです。
――それがわずかな期間で正味されたわけですよね。
中園直樹氏: そうそう、教育実習の期間で。
――教育実習期間に学校中に広まったというのは自信になりますね。
中園直樹氏: でも今までの経験上、それぐらい出来なきゃダメだと思っていました。それが出来ないような作品であれば出版する意味は無いと思っていたんで。それだったら今までの僕が絶望してきた本と大して変わらないと思っちゃう。中には役に立つ本もあったかもしれない。でも、小学校の図書室の本を全部読破して、中学になって『あなた、本ばっかり読んでいないで勉強しなさい』って怒られるような読書量の僕の目に届かない程度の売れなさでは意味がないんですよ。売れなければならないという気持ちがもの凄くあった。だからどんないい本でも、売れなければ存在しないのと一緒だと僕は思っていました。学校中のみんなが読んでくれて嬉しかったんですけど、それぐらいは出来なければダメだと思ってたんです。で、感動してくれたお陰で、『よっしゃ、これはいけるぞ!』と思った(笑)。これで1・2・3を無事クリア出来たわけです。
次の段階、出版したいなと思った時、違う問題がありました。困ったことに、僕の父親は『お前はどこどこに就職して、最終的に俺の跡を継げばいい』という星一徹さんな親だったんです。なので、僕は大学を卒業して親から逃げました。
――ご両親から。
中園直樹氏: 簡単に言うと、父ちゃんの家庭はもの凄く貧乏で。父ちゃんが学校から帰ってきます、周りからは美味しい夕食のにおいがぷんぷんしてきます、父ちゃんはひもじい思いをしながら生の野菜をボリボリかじって飢えをしのぎます、母ちゃん帰ってきません…というような、超貧乏な生活をしていた親父が、兄弟で力を合わせて、宮崎に九州で一番鉄鋼を扱う会社を建ててしまったんですよ。普通、九州で鋼業が盛んな都市って北九州市なんです。でも、うちは宮崎。日本で一番土地が安く、日本で一番平均年収が少ない宮崎なんです。そんな宮崎に存在する、九州で一番鉄鋼を使う会社、それがうちの親父の会社だったんですよ。だからもう、親父は正しいんです(笑)。反論できないんですよ。
――なるほど。
中園直樹氏: 有無を言わさず、『はい、その通りです』と言うしかない完璧な親父だったわけです。僕は子どもの頃は別におかしいと思わず育ったんだけど、『あれ、ちょっと待て、九州で鋼業が盛んな都市ってどこだっけ?北九州だよな。何で宮崎が一番鉄鋼を使っているんだ』ということを、大学生ぐらいの時にはわかってくるわけですよ。まあ、不況とかもあって、今は親父もその会社を辞めて、ただの金のないバイトの警備員のおっちゃんになり果ててしまったんですが、当時はイケイケドンドンの、毎年のように新聞の長者番付に父ちゃんの名前がバーンと載り、しかも僕が学校に行く前から出社し、僕が受験勉強を終わった後ぐらいに帰ってくるという、たまのお休みは家族サービス、土日なし、基本仕事(笑)。そんな父ちゃんに対して、いったい僕は何を言えましょうか?(笑)。何も反論できないわけですよ。だから何も言わずに姿をくらましました。
――何も言わずにですか。
中園直樹氏: 父ちゃんの立場も分かるんだけど、僕もそれ以上にやらなきゃいけない事があるわけですよ。それを言語化して、父ちゃんに理解してもらえるように説明する程の能力がその時の僕には無かった。だから何も言わずに姿をくらまして、くらました先から『ごめん、父ちゃん、俺は作家になる』ってはがきを一枚パーンと出して。
――かっこいいですね。
中園直樹氏: (笑)そこから非常にしんどい生活が始まる、と。先ほどの1、2、3の問題をクリアしたのはいいんですけど、親の他に、また1つ大きな問題があって。それは僕の小説が大人に非常に評判は悪かったってことなんですよ。文学賞って、審査するのは大人ですよね。インターネットにアップしたりしている間に色々な事を考えながら、投稿して落とされ、持ち込みして落とされ、『このままじゃ俺の小説は絶対世に出ねぇぞ』って思ったんです。だって審査するのが僕の天敵(大人)なんだもん。
それで、自費出版しかないじゃんという事に気付いたわけですよ。その時はネットでもそこそこ評判がよくなっており、取り敢えず反響は良かった。若い子に限ってですけど、読む人読む人、みんな感動する。2000年ぐらいにネットで発表した時には、出版されているものと原稿用紙一枚分ぐらいしか違わないものを書いてたんで、ほぼ完成していた状態だったんですよね。それを自費出版で文芸社から出しました。