日本人よ! もっとたくさん本を読め!
2008年末にGoogle米国副社長兼日本法人社長を退任し、その後名誉会長も務めた村上憲郎さん。日本のIT創生期からずっと業界に関わっており、e-ラーニングの分野の第一人者になるなど、「先見の明がある」トップマネージャーとして、脚光を浴び続けています。現在では、その仕事術や勉強法を活かした「村上式シンプル英語勉強法」や「村上式シンプル仕事術」などの著書も出版。そんな村上さんにご自身の読書術や、「目利き」として生きる秘訣を聞いてみました。
昔から、空想科学小説が大好きでした
――「IT業界の目利き」として知られる村上さんは、かなりの読書家としても有名でいらっしゃいますが、いちばん最初の読書体験というのはいつ頃ですか?
村上憲郎氏: 小学校の頃なんかだと、周囲では貸本屋で漫画を借りている人が多かったんです。でも、僕はそうじゃなくて、『少年少女空想科学小説全集』みたいなのを読んでいましたね。もともとが、理科系というか、未来志向というか、新しいものが好きな気質を持っていたんでしょうね。
その中で本当に印象に残っていて、筋から何から全部覚えている本もありますね。あらすじとしては、第二次世界大戦の時にイギリスの爆撃機がドイツを爆撃して帰る時に、どこかの島に不時着して、夜が来て眠った。それで、目が覚めたら真っ暗な中に月が出ていると。ただ、それは月じゃなくて穴から見える空なんですね。2人は自分たちの体重で砂地でだんだん沈んでしまったんです。そこで、地底の王国みたいな所に行くんですが、そこがなぜか共産主義社会になっているんです。その世界では、地底にも関わらずジェット機が飛んでいて。そして、いざこざがあって、逃げざるを得ないので、ジェット機で脱出する。どうやって地上に出たのかは良く分からないんだけど(笑)。
すごく印象に残ってるんですが、その小説の中では、共産主義社会はモノが溢れていて、デパートみたいな所に行くとみんな勝手に欲しいものをピックアップするだけで、お金がなくても大丈夫な世界だったということ。その辺りが記憶に残るという辺りが、子供ながら左翼的なものに惹かれるという性質があったんですかね。
左翼運動も今とは違って、九州だと向坂逸郎という先生の率いる向坂派という社会党の中でもうほとんど共産党よりも左じゃないかという人たちがやっていたんです。その先生は、九州大学の経済学部のマル系の先生だったんですけど。九州って炭鉱の人が多いし、長崎の造船所のあの辺りとかは、めちゃくちゃ労働運動が強かったわけですよ。
今にして思えば、どこか親の会話とかから左翼の話が入ってきて、でも片一方で「あの人はアカや」という話も入っていたわけだから「アカは怖い」というような話も親たちはしていたわけですよね。子供の頃から染まっていたわけじゃないけれども、そんな話が記憶に残っているということを考えても、自分は生まれついての左翼だったのかもしれませんね。そういう変革のパトスのようなものが血の中にあるんじゃないかな。
生まれ変わりはあまり信じていないんだけれども、生まれ変わりだとすると左翼学生が学徒動員で特攻隊に入って死んで俺に乗り移った、つまり、父が戦争から帰ってきて母親とセックスをして私が受精した時に彷徨っていた魂がピッと入ったとか(笑)。こういうことを今頃は思ったりしますけれどもね。
学生時代から「革命」や「新しいもの」が大好きだった
――すごい環境ですね。では、村上さんの「改革意識」というものは、もう生まれついてのものだったのでしょうか。
村上憲郎氏: 昔から「新しいものがり屋」だったというのがありますね。僕は大学時代、学生運動をやってたんですが、60年代の学生運動は、結局、コテンパンに負けたわけです。手段を含め全体的に、稚拙極まりなく、思想もそれほど熟慮を重ねてそうなったわけではない。手っ取り早く世の中をバーンと簡単にひっくり返したい、全世界にダメ出しをしたかったっていうことなんです(笑)。
当時の新左翼の考え方というのは単純明快なんですよね。僕らのような鬱屈していた団塊の世代は、人数がめちゃくちゃ多くて、受験戦争もとてつもなく大変だった。それに対するストレスや鬱屈した気持ちがバーンと爆発した程度のものなので、思想的にレベルが高いということはないんですよ。志としては、当時おこなわれていたベトナム戦争や、大学の中の仕組みの旧態依然ぶりに、反対したかった。それだけなんです。
とはいえ、心根の奥では、「やっぱり、世界を少しでもベタープレイスにしよう」という思いは、ありましたよね。誇るわけじゃないけれども。だから、特に私は「この惑星をベタープレイスにしよう」という単純明快な志の根っこみたいな所は持ち続けてきている訳です。だから色々な仕事をしてくる中で、必ずそこに照らし合わせてきたんです。「俺は、恥ずかしい事はしてないよな」「これは世界をベタープレイスにするために一歩前進しているよな」と自分で思える事をやってきたつもりなんです。
まあ、全部が全部じゃないと思うし、思い出したら今でも赤面するような事もありますけれども(笑)。
――その革命気質が、Googleご在籍時はもちろん、いまのお仕事にも生かされているんでしょうか。
村上憲郎氏: 学生運動も「世の中ぶち壊そう!」という風な単純なことでもなかったわけだけど、例えばGoogleやITと相性が合うのは、やっぱり今までの仕組みを壊しながら、新しくて、より効率のいい仕組みを作りたいと思うからでしょうね。Googleぐらいになると、何か世間様の気分を逆なでするようなことを平然とやるわけじゃないですか。だから何かそういう所に通じていたのかもしれませんね。
あとは、昔から理科系の世界に憧れを抱いていたんです。たとえば「日常のスケールで見えている世界と違い、その背後の極微の世界とか宇宙とかいう所では、日常的な言葉で説明し切れない現象がある」という真理ですよね。実際、この世界には言葉では言い難い世界があるという風な事を考えていましたね。だから、その当時は「将来は、そういう事に携われたらいいな」という風におぼろげながら思っていたから。僕自身、高校時代は、数学や物理とか一所懸命勉強しましたしね。その動機はそこから来ていたような。
日本人の若者は、もっと理系の世界を勉強するべき
――では、高校時代はかなり一生懸命理系を勉強なさったんですか。
村上憲郎氏: 僕の高校一年の担任のときに、宮崎大吉という数学の先生がいたんですが、この先生が、高校の教師にしては珍しく現代数学が専門。本当の数学科を出た人だったんですね。みなさんの高校もそうかもしれませんが、僕の出た大分県立佐伯鶴城高校というのは、教師のほぼ全員が佐伯鶴城高校の前身の佐伯中学、旧制の中学から広島高等師範学校を出て、みんなUターンして帰ってきているという。世の中を全く知らないで、英語だったらコンサイス英和辞典を全部食べて覚えたような人とかね(笑)。
そういう類の田舎の秀才の成り上がりみたいな先生ばかりだったんだけれども、その中でこの宮崎大吉という先生は、九大の数学科を出てただけじゃなくて、その後、大分工業高専で教授になられたので、きっと修士号とかを持っていらしたと思うんですよね。そんな人に、本格的な数学の観点で数Ⅲとかを教わったわけです。受験勉強に飽きるとその人が特殊相対性理論の話とかをしてくれて。まぁ、高校生には全く分からなかったんだけれども。
でも、今にして思うと、私はもしかしたら文科系かもしれないんだけれども、結局、理科系ということになってしまいました。もっとも、文科系でも理科が分かった文科系というかね。よく理科が分からん文科系というのがいるじゃないですか? あれは困るね(笑)。
――たしかに、「理系ができないから」という理由で、文系に進む人は多いと思います。ちなみに、今、出版不況とかよばれていると思いますが、出版社のそもそもの役割というか、これからますます重要になってくる役割はどんな所にあると思いますか?
村上憲郎氏: 堅い本が本当に読まれなくなってきましたよね。我々の頃は古色蒼然たる岩波、朝日、共産党という左翼陣営の評論家がドライブした傾向があるから何とも言い難いところはあるにせよ、堅い本というと初版で一億数千万人いる日本で、残念ながらだけど一万部は売れていたんじゃないかと思うんですよ。初版だけで。でも、今はもう聞くと、そりゃもうコストの関係で一万部刷るけれども永遠に初版のままという。売り出した一年で売れるのは1000冊とか。下手をすると公立図書館向けにだけ売れているみたいな。
専門書的な堅い本になると、「先生がまず最初、買ってください」「配って、献本用にどうぞ」みたいなね、そんな状況になりつつあるわけでしょう。だからこれは出版社が悪いというよりも、一番心配をしているのは正直、日本人の知のレベルが急落しているんじゃないかと思います。