紙と電子の読書は別のもの。『電子書籍』という新しいスポーツをプレーせよ
大手広告会社に勤務しながら、自らのアイデア発想法を『考具』として発表し、ベストセラー作家の仲間入りをされた加藤昌治さん。本業のかたわら、ワークショップや執筆活動を精力的にされている加藤さんに、読書と電子書籍についての考え方や、アイデア発想法の極意などをお伺いしました。
本を読んで欲しくなった『男性用ハイヒール』
――最近読んで面白かった本を教えていただけますか?
加藤昌治氏: 最近だと、個人的には『ハイヒール・マジック』(マダム由美子著/講談社刊)
でしょうか。女性向けの本ですが「ハイヒールを履こう」と提案する本です。ハイヒールって、一般論的には身体的に良くないというイメージで語られている事が多い。「でも実はそんな事ないのよ」という内容になっています。いわゆるありがちな本だと、例えば「ハイヒールを履くとあなたの内面の良さがにじみ出てきますよ」みたいな説得の仕方をしたりする。でもそういう本ではないんです。著者の方は元々クラシックバレエをされていたようで、内容がとてもフィジカルなところにハマりました。
実際に身体を使ったり行動する事に興味があるので、『ハイヒール・マジック』を読んで「なるほど、そうなのか」と読み終わったら男性用ハイヒールが欲しくなりました(笑)。探せばあるんでしょうけれども。ピンヒールみたいなやつ、貸してって何人かの女性に言ってみましたが思い切り断られました。「壊れる」(笑)。
――『ハイヒール・マジック』を手に取られた、きっかけは何ですか?
加藤昌治氏: ここ2・3年ぐらいですかね、雑誌のスタイリストさんたちが執筆しているスタイリングの本というのが増えてきています。なぜかずっと追いかけているのですが、その流れで目に留まった1冊です。書店に入ると、美容やファッションのコーナーに「新着がないかな」と意識的に目を向けていて、一通りくまなくパトロール。もろ女性向けのコーナーに髭をはやしたオヤジがいると、かなりアヤシイです(笑)。
――書店にいらっしゃるのはどれぐらいの時間なのでしょうか?
加藤昌治氏: 15分から30分くらいです。品揃えは気になりますね。書店のカラーが出てきて面白い。これだけ沢山の書籍があるから、全ての書籍を店頭には置ききれない。だからどの書籍を置くかは書店が編集した結果だと思うのですが、選ばれた品揃えが自分に合う合わないは別として、その『編集している意思』が分かりやすい書店は面白いですね。平均したら週に5回ぐらいは行ってるかな? でも1回あたりの時間は、ここのところ短いですね。
――何故スタイリストの本をチェックされているのでしょうか?
加藤昌治氏: ファッションとは、いわゆる感性のものだと捉えている方も多いでしょうし、一般的にもそう言われていますよね。でも僕は「先天的なセンス」ではなくて、「誰にでもある程度学習できるもの」、ルールがあるものではないかと思っているんです。スタイリストはすでに存在するアイテムを組み合わせる事が多い仕事で、いわば編集の仕事に近い。洋服や小物の組み合わせ方や、モデル体型ではない人の身体にどのように合わせるか。「スタイリング」、つまり「身体的な知」を本の中でどうやって説明しているのかに関心があったので、追うようになった経緯です。
読書家だった少年時代。『真田十勇士』に傾倒して大けがもした
――電子書籍と、紙の書籍とで読書の割合はどのくらいでしょうか?
加藤昌治氏: 90%以上は紙でできた本ですね。
――ネット書店でも本は購入されますか?
加藤昌治氏: はい。1冊欲しい本があって、リアル書店に探しに行った時になかなか出会えない事もあるので、そういう時にはネット書店が便利でよくお世話になってます。
自分にとって「おお」と思う本と偶然に出会う確率は、リアル書店の方が高いと思います。単純に時間あたりに目にする冊数が圧倒的に多い。ネット上の電子書店でも、ある程度は並んでいますけれども、画面の中に数冊と視界に数百冊入るのでは違いますから。でもネット書店にあるリコメンドには、しばしば“やられて”ますから・・・本との出会いという意味では、両者のタイプが違うのかなと。
――加藤さんの人生において影響を受けたという本を教えていただけますか?
加藤昌治氏: その昔、講談社少年文庫に『真田十勇士』と題したシリーズが3冊あって、『真田十勇士・猿飛佐助』『真田十勇士・霧隠才蔵』『真田幸村』(絶版)。これと岩波書店から出ている児童文学の『ゆかいなホーマーくん』。この4作には影響を受けました。100回は読んでます。ありがたいことに父親がとても本好きで、家の中に色々、本が転がっていたんです。本に関しては、欲しいと言った時にそれほどダメ出しをされなかった環境もありまして、比較的読んでいた方じゃないかと。とても両親に感謝しています。
――これらの本はいくつぐらいの時に読まれたんですか?
加藤昌治氏: 『真田十勇士』シリーズは小学1年生くらいですね。『ゆかいなホーマーくん』は3、4年生ぐらいかな。『真田十勇士』は講談を聞いているような面白さ。確か総ルビで、子どもでも読む事ができた。『真田十勇士』って豊臣家に対する忠義云々のお話。徳川家康のことを「徳川の古だぬき』って書いてあったせいか、僕の中にも徳川家康的なものに対する反発心がすごく養われてしまいました(笑)。小学3年から4年に上がる春休み、祖母の家へ遊びに行った際、近くのお城へ行こうとなったのですが、その城がたまたま『真田十勇士』に出てくる敵の武将の城だったんですね。真田かぶれの僕はその城に行くのがおっくうで、「嫌だ嫌だ」って言っていたら坂から落っこちて、足にグサッと木が刺さって大騒ぎになっちゃったことがありました。
紙の本と電子書籍の読書と言うものは、別の『行動』だと思う
――紙の本で沢山読書をされていますが、電子書籍というのは、何か読書家にとっての助けになりそうでしょうか?
加藤昌治氏: 電子書籍の場合は接触環境が大分変わってしまうので、「読書する」の意味自体が大きく変わるんだろうなという気がします。私見ですが、電子書籍上を読むことは今までの読書と違う行動を指すことになるんじゃないでしょうか。僕らはそれに慣れていないだけであって、今の子どもたちにとってそれが普通ならば、別に良い悪いではなく。
――紙の本は、残ってほしいというご希望はありますか?
加藤昌治氏: 無くなりはしないでしょう。本をめくる行動による読書と、デバイス的なもので横にスライドさせたりする読書では、体験の種類が違うので得られるものも変わると思います。それがどう変わっていくのかは自分でも分からないですが。紙と電子書籍は別のものと考えた方がいいんじゃないでしょうか。
――加藤さんご自身は、電子書籍は普段ご利用になっていますか?
加藤昌治氏: いまのところはスマートフォンですね。電子書籍を読むのは、主に移動中。ジャンルはエッセイやビジネス書。実際の書籍に比べると画面が小さいこともあって、内容によって選んでいますね。
――これからの本の未来はどのようになると予想されますか?
加藤昌治氏: (インタビュアーに向かって)例えば今、デバイスを見ていて頭の向き、角度が変わりましたよね。そういう身体的な感覚の違いが結構大きいんじゃないかなと感じています。例えば「小学一年生と同じような背の高さにしゃがんでみる」ように。40歳を過ぎている大人には、どこまでいってもリアルな一年生の気持ちになんてなれない。でもそこになるべく近づくために、頭の中だけで考えるのではなく、物理的な環境を整えてみる。どこまでいっても間接的な体験に変わりありませんが、リアルにできるだけ近づく努力は必要だと思いますね。この「リアルに近づく努力」、昔からさまざまな言い方で勧められています。「現場に行け」とか、「頭だけで考えるな。手で考えろ」とかいろんな言い方がありますが、伝えたいことは同じじゃないでしょうか。
――ご自身の著作物を、ユーザーがデバイスで持ち歩いて読みたいと思われる事に対して、何か心理的抵抗はありますか?
加藤昌治氏: 豪華な装丁や、デザインがカバーと一体となって入っている本など、紙を使って製本されたことにものすごく重心が置かれているような「ブツとしてスゴイ」本もあります。そういう本は、紙で読んだ方がいいと思いますね。作り手としては、同じ原稿なんだけれどもタブレットで読む時は違うデザインにするとか、用途によって編集しなおせばいいのでは。紙をそっくりそのままコピー&ペーストした電子書籍だけがイコール「電子書籍化」でもないよねと思います。
電子書籍という新しいスポーツは、ルールもプレーヤーも未開拓
――そのまま電子書籍化するよりは、特性に合った電子書籍ならではの形にしていった方が面白いという事ですね。
加藤昌治氏: そのままの方が読みやすい本もたくさんあると思います。自分自身を含めて、2012年現在では書き手も編集の方も、電子書籍に対するスキルとマインドが、追い付いていないのが現実だと感じます。新しく勉強しなきゃいけない。いえ、勉強ではなくて練習でしょう。紙の書籍と電子書籍とは違う「スポーツ」だと思います。同じ球技だけれどもルールは違うような。ラグビーがサッカーから生まれたようなもので、根は一緒だけれども違うスポーツ。となったら、ルールは覚えなきゃいけないし、それこそ人数も違うし、身体の使い方が全然違うわけじゃないですか。新しいスポーツに対するルールの理解と、勝つための戦術や作戦はまだまだ未開拓だし、ルールや戦略はある程度あったとしても、それに対してプレイヤーである自分の身体ができあがっていないという感じではないでしょうか。スポーツは、練習しないと上手くならないですから。
――では、電子書籍というまだ新しくできたスポーツに関して、作る側も、プレーをする側も、見る側も練習不足という事でしょうか?
加藤昌治氏: 「出版する」とはイコール「試合に出る」ことだと思います。だから本当は練習をもっとたくさんこなしてから試合に出られればいいんですけれども、現時点ではもろもろの環境が、あまりそれを許してくれない。基礎的な練習だとか、練習試合ができれば大分変わると思います。今はいかんせん、いきなり試合になっているケースも多い。残念ながら負け試合も一杯あると思います。比喩が続きますが、プロスポーツってトーナメント制ってほとんどないんですね。基本的にリーグ戦。つまり勝率の世界なので、全勝するチームはまずいなくて6割程度勝ったら優勝じゃないですか。自分がファンのチームを見に行ったら負け試合だったこともそれなりにあって、『コノヤロー、チケット代返せー』と、みんな野次を言うわけですけれども(笑)。
勝率がどれほどなのか? リアルの本でも同じように勝ち負けはあるでしょうが電子書籍に関して言えば、プレーヤーが新しいスポーツに移ろうとしている感じですよね。だから、先に必要なのは練習ですが、僕も含めてみんな大人になってから練習ばかりするのは嫌で、すぐに試合に行っちゃうわけです。
プレーヤーである作家は、それほど多作でない方ばかりでしょうから、試合数はすぐには増えない。試合に出してもらえないケースもあるでしょうし。とすると、先に出版社、編集の方々が練習を積まれることになるんでしょう。そんなこんなで新しいスポーツに対応した身体作りと作戦を備えつつあるイメージでしょうか。
これからは、「出版社」はプロリーグ、「編集者」は野手、「著者」はピッチャー?
――出版社、編集者というのは競技で言うと、どのようなポジションでしょうか?
加藤昌治氏: もちろんレギュラー選手で、野球で言えば野手。野手は連続試合出場が可能ですから。出版社から本を出す、つまり商業出版をするとはプロリーグにデビューするだと例えてみる。著者さんはプロ契約をした投手。連投してたら肩がすぐ壊れてしまう。中5日、中6日の休息が必要です。ピッチャーがボールを投げないとプレイが始まらないあたりも似ている感じです。
ただ契約したけれども一軍の試合に出られずにそのまま終わっちゃう人もいれば、一度だけ活躍して「どこに行っちゃったっけ?」みたいな人もいる。著者が投手個人だとすれば、編集者が野手、そして出版社は球団。常に成績がよくて、活躍する選手がたくさんいて、かつプロだからビジネスとしても成立するし、ファンを常に楽しませ続けるのがプロスポーツ球団としての仕事ですよね。可能性として多くの報酬を獲得できる可能性はありますが、著者はあくまでも「パーツ」です。
優れたコーチとは理論と練習をセットで生徒に教えられる人
――ファンを楽しませる要素が大事という事なのですけれども、ご自身で、執筆するにあたって心掛けている事、というのは、何かありますか?
加藤昌治氏: 非常に登板数の少ないピッチャーなので・・・(笑)。“身体知”のような身体を動かす構造と、実際に身体を動かしてする練習とのバランスは意識してます。書籍は読者を行動させるだけの強制力はないのでそこが難しいところですね。またまたスポーツに例えると、プレーヤーとしては上手いんだけれども、コーチとして人に教えるのが上手な人と下手な人とがいる。スキーなんか典型だと思いますが、子どもの頃から滑っている人って説明下手が多い。言葉で説明できないんですね。教える際に指示代名詞が頻発する。『ここがこうなるからこうなるじゃない、ね?』と非常にハイコンテクストに教えてくれる(笑)。
――音声だけで聞くと全く理解できないと思います。(笑)
加藤昌治氏: 「ほら、ここがクッとなってさ、スーッとなって」みたいな(笑)。ところが、大学生ぐらいからスキーを始めた人は、自分自身が分からなかった経験を覚えているから、構造と練習がセットになって頭に入っている方も多い。構造と練習とがセットになっている方が、大人になってから始める人に教えるには理解が早いのではないか、という仮説は持っています。この仮説、バランスは本を書く上で意識します。だから「アイデア」が天から降ってくるのを待つだけじゃなくて、理屈、構造があった上でたくさん出さないと上手くならないよね? と。「考える」「アイデアを出す」ってスポーツですよと言ってます。
――スポーツと同じですか?
加藤昌治氏: 教え上手なスキーの先生は、5、6人をまとめたチームレッスンでも生徒さんによって指示ポイントを変えるんですね。綺麗に丸くターンする練習をしていたとして、「佐藤さんは目線を上げて」、「田中さんは足首の角度に気を付けて」とか、同じ事をさせるんだけれども意識させるポイントを変えて指示する。人間の身体がスムースに動くためのツボは人によって違うので、先生はその違いを見抜いて、それぞれの入り口、ツボを変えてあげる。その結果、みんなが同じように滑れるようになる仕組みです。生徒が同じように身体を動かせる経験を作れる人が一番優れたコーチだと思っています。
――なるほど、自分をコーチになぞらえるわけですね。
加藤昌治氏: ジャンルがなんであれ、人によってツボは違うので「全ての指導法が自分に合うわけではない」と思います。『考具』の中には21ぐらいのやり方が載っていますが、読者の方それぞれに、合う合わないが分かれるはず。全部ハマる人っていないでしょう。それぞれの発想法を開発された方は、その方法が一番だと信じていらっしゃるかもしれませんが、合う合わないがあることは、本を書く上で前提としています。だからこそ、いろんな方法があるし、それはそれでいいんじゃないかと。どの方法を使おうと、結果いいアイデアが出ればいいんじゃないですかという立場で。
道具と人との間には相性があります。それに上達するにしたがって道具も変わります。いつまでも初心者用の道具では物足りなくなってくるでしょうし、道具の数が増えるかもしれない。それでOKだと思います。自分が使いこなす発想法も、そうやって増えたり変わっていいと思います。また、自分の人生が変わってしまうようなインパクトのある本に出逢うことについても、本自体も人によって違うでしょうし、同じ一冊だとしてもタイミングも含めて相性があるのだろうと。
本を読むことは、情報だけでなく『視点』を沢山獲得するということ
――そのように、多角的に物事を捉えられるようになったきっかけは何でしょうか?
加藤昌治氏: 本をたくさん読むことは、視点をそれだけ多く獲得することにつながると思います。さっきの徳川家康が嫌いで怪我した小学生君も、先に真田側の視点で本を熟読したからであって、山岡荘八先生の『徳川家康』をその前に読んでいたら違っていたかもしれない(笑)。いろんな視点からたくさん本を読んで、いろんな視点を獲得しておけたら、偏り少なく相対的に判断できる。
――学生時代は沢山読書をされたのですか?
加藤昌治氏: 多いといっても学生時代までで漫画を入れて1500冊ぐらい持っていて、あとは学校の図書室で借りてて、とそんなもんですよ。書店1店舗と比べてもそんなに多くないです。読書量が多ければ良いかといったらそんなことはないし、読書する量もその人なりの方法によって違いますよね。だからどれがいいとか悪いとは全然ないんじゃないですか。読んだつもりで内容をもうほとんど忘れちゃっているし(笑)。
今一番読みたいのは『台本』『脚本』作りの本。
――今、これから読みたい本、気になっている本は何かありますか?
加藤昌治氏: 台本、脚本を書くための本をジャンルとして読み始めたところです。まだ数冊しか読めていないんですけれども、台本作り、脚本作りに興味があります。結構多くあるのでちょっと時間かかりそうですが、ある程度読むつもりです。
――それも視点の一つとして色々応用がききそうですね。
加藤昌治氏: 以前、周防正行さんのインタビューを聞く機会があったんですが、周防さん「僕は映画監督と呼ばれるのは嫌です」とおっしゃる。「脚本と監督と両方やらないと嫌なんです。両方やって映画制作者と呼ばれたい」との説を伺って「なるほど!」と思いました。その翌月、偶然にも井筒和幸監督のお話を伺うことがありました。井筒さんも「脚本には必ず携わるようにしている」と同じことをおっしゃった。井筒さんは当初、演出家として映画監督をされていて、『岸和田少年愚連隊』の時に初めて脚本に関わったそうです。そこからは脚本と演出両方をするようにしていると。ここからは勝手な仮説ですが、コンテンツって、分数みたいに線を引いたら下に台本、上に演出。「脚本」分の「演出」だと思っているんです。数学的には間違いでしょうけど、見た目でいうと分母が台本・脚本で、分子が演出ってことですね。要は、脚本がしっかりしているコンテンツはリメイクがしやすい。半面、演出だけが優れている名作はリメイクしにくい。コンテンツとして価値が長く続くのは脚本、台本の領域であると思っています。現世としては演出系の方が華やかですけど。
――だから脚本と演出、両方関わりたいとおっしゃるわけですね。
加藤昌治氏: シェイクスピアのハムレット、演出違いでコンテンツがたくさんあります。国によって言語も違うし演出家も違う。演出次第でかなり違うコンテンツに感じるけれども、ハムレットはハムレットだって分かる。黒澤明監督も脚本にはこだわりを持たれていたとのことですが、『七人の侍』が『荒野の七人』になったり、スター・ウォーズの下敷きになっていると言われたりしていますが、これも広い意味でのリメイクかと。
――台本の作り方の本というと、どのようなことが書いてあるのですか?
加藤昌治氏: 台本にはルールがある、型もある。実はスポーツに近い感じです。完成した映画を見ているだけでは気がつきにくいですが、かなり構造的に作られていることが分かる。そもそも映画の企画とはイコール脚本だと言う方もいる。コンテンツの起点を担っているわけですね。でも、それをどう演出するかということで、アウトプットが全然違う。そこがまた面白いところで。脚本だけではコンテンツにならない。脚本と演出、どちらが偉いんだ議論はナンセンスだと思いますが、僕自身は脚本家でありたいと思う派ですね。本を書く作業は台本を書く作業に近いと思っています。アメリカでは脚本家になる学校があったり、脚本を書くワークショップがいっぱい開催されているようです。構造を学ぶ、作ることをみんなができるようにするための地ならしというか、教え方がある程度できあがっていることに関しては進んでるなあと思います。
「ワークショップの落語化」を実現したい
――最後に、今後、挑戦したいことなどについてお聞かせください。
加藤昌治氏: 「ワークショップの落語化」をカタチにしたいと思っています。まだ妄想段階なんですが・・・言い続けていて実現できていないんですが、ぜひやってみたい。
――ワークショップの落語化とは、具体的にどういう事をするのですか?
加藤昌治氏: 本を書くと、講演を頼まれたりします。僕の場合は本に書いてあることを実際にやってみましょうということで、「ワークショップ・考具」と題して機会があれば方々にお邪魔することがあります。通算で100回ぐらい実施してきましたが、自分一人だけだと、展開するにも限界がある。毎回の参加者が変わるのであれば、ワークショップの脚本は同じでいいわけです。脚本がよくできているならば。きちんとした脚本があって、演出を練習することができたら自分自身じゃなくてもワークショップを演じられるようになる。「ワークショップ考具」を同じ日に2つの違う場所でできたり、自分がいなくてもできるようになる。ワークショップ自体を脚本にしておいて、もう一方で演者を作る。この両方がセットになって落語化の構想になります。
落語って、つかみを除けば、お話は同じです。つまり脚本が非常にしっかりしている。でも演者である落語家さんによって面白さが全然違う。ワークショップの落語化妄想も、演者は誰でもいいってわけでもなく、そこはそれなりのプロがやる構想です。創作落語を作っている人たちが、他人の噺もやる集団。ま、落語家さんとしては普通かもしれませんが、それを書籍の領域に持ち込んでみたい。
自分が読んで、これいいなあと思うメソッドやら方法を、自分もお手伝いして広げられたらいいなと。書籍の限界である、「読んだ人が自ら行動しないと始まらない」をリアルなカタチで、ある程度の広さとスピードを持ってサポートする構想、現時点では妄想ですね。書籍というコンテンツをベースにして脚本が生まれ、すぐれた演者によって、もっとスピードを持って展開されることになるわけです。上手く行ったら、置屋の女将になってハイヒール履きます(笑)。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 加藤昌治 』