電子化された生の資源が多様性を生む
東京大学教養学部教養学科卒業、ケンブリッジ大学大学院社会人類学博士課程修了。その後東京大学大学院総合文化研究科教授を務め、現在、東京大学名誉教授。文化人類学者としてフィールドワークをメラネシア、日本、東アジアで行った船曳建夫さんに、読書について、電子書籍の未来についてお話を伺いました。
大学を辞めて『永遠の夏休み』に入ったけれど超多忙な毎日
――早速ですが、船曳さんの近況を教えていただいてよろしいですか?
船曳建夫氏: 3月に東京大学を退職したのですが、去年はそれに向けて、本の執筆に忙しかったですね。退職した後も、30年も務めていましたから積み残しの仕事というのがあるわけで、それをやりながら久しぶりに長い休暇だという感じで、旅行の予定を入れたり、遊びのゼミのようなものをやったりして、仕事以外の事でかなりこの半年くらいは忙しくしていました。大学を辞めて、退職した後、朝起きておもわず会社の方に行っちゃうとかそういう人がいますけど、僕は全く逆だった。本当に思い出さないというか、2ヶ月ぐらいたった時に秘書と、「何だか僕は2年ぐらい経った気がするんだけど」って言ったら、彼女も「私も1年ぐらい経った気がします」と言っていた。感覚的にはもの凄く昔ですね。辞めたら色々な事ができると思って予定を入れすぎて、今むちゃくちゃに忙しい。生産的ではないんだけど、何しろ忙しくて、時間の使い方がまだ良く分からない。自由業の方は自分でペースを作るんでしょうが、偉いなぁと思って。それがまだ身に付いていないので、思いがけず洪水状態なんです。
――忙しい日々を送っていらっしゃるんですね。
船曳建夫氏: 遊びというのは時間がかかりますし、予定を立てたりなんかしてますね。沢山有益な仕事をして忙しいというよりは、ただ何か忙しい。例えば一昨日まで石巻でボランティア活動をしている僕の学生を2泊3日で訪ねていたんです。その前は別の学生の縁で瀬戸内の方に2泊3日でゼミ旅行。小学校に入ってからずっともう60年近く「学校」と縁が切れなかったので、そのペースで動いていたのが、「永遠に夏休み」の状態に入って(笑)。昔、夏休みに全く宿題をやらないで遊んでいた頃と一緒で、好き勝手やっているうちに信じられないほどの忙しさになってしまって、今急ブレーキをかけて、何でもかんでも断るという体制に移っている感覚ですね。
――研究生活、学者生活に入られるきっかけは何だったのですか?
船曳建夫氏: 私が高校生の頃、朝日新聞の夕刊で連載されていた本多勝一さんの『ニューギニア高地人』(朝日文庫)、これは後に本になったんですが、それを読んで自分たちの暮らしとは全く違った社会や文化を見てみたい、体験してみたいと思ったのが、文化人類学に進む重要なきっかけになりました。
シェイクスピアを読もうとして読めなかった子ども時代
――最初の読書体験は、どのようなものだったのでしょう?
船曳建夫氏: そうですね。ごく普通に手塚治虫の『ぼくの孫悟空』(秋田文庫)という漫画が好きでした。後は、小学校1年の夏に、シェイクスピアの『真夏の夜の夢』を放送劇でやっていたんです。それを母とラジオで聞いていて、次の日に父が持っている坪内逍遥翻訳のシェイクスピアの本があったので、読み始めてみたら、読めないという事が分かった(笑)。小さい頃の読書体験として、最初の頃の記憶で思い出すのはそれですね。本当に本を読んで面白いと思ったのは、古典的ですが、『クオレ』(講談社)という児童文学を小学校の時に読んだときですね。貸本屋さんも好きでしたね。千歳船橋の駅前にあったんですが、そこで講談を借りてくるのが好きだった。小学3年生ぐらいの時でしょうか。難しい文字にはふり仮名がふってありました。水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』もあって、墓場が出てきたりするので、今でこそ国民的漫画家になっちゃっているけど、あの頃小学校では禁書になっていたんですよ(笑)。時代は変わったと思いますね。
小学校2年の時まだ日本が貧しい頃に、クラスで先生が「学級図書を買う」と言って、小田急電鉄の経堂駅に「キリン堂」っていう本屋があったのですが、そこにみんなで本を買いに行った。それで僕は図書委員みたいな役だったので、本を選ぶ事になって、なぜか、村に象がやってきた話を選んだ。タイか何処かの村に象がやってきて、色々森とか切り開くのにすごく役立ちます、みたいな話でしたね。それともう1冊買ったんだけど、そちらのタイトルは覚えてなくて。それを子どもながらに一応選んだ。
――素敵な思い出ですね。
船曳建夫氏: みんなに「5円家からもらって来てください」とか言ったんだと思いますよ。それから余っている本があったら持ってきてくださいと言って、それで教室に並べていたんですね。
執筆は自宅で、ライフワークは教え子OBとのゼミや読書会
――今現在、執筆される場所や仕事場はご自宅が中心でしょうか?
船曳建夫氏: 下に書斎がありまして、そこで書いています。後は色々な雑務みたいな事は事務所を使います。それからゼミを30年近くやっていまして、老若男女あわせて、母集団は300人ぐらいなんですが、その元学生たちと読書会やゼミを行うということもあって、歌舞伎座近くに借りた小さな事務所で集まっています。
――長い間ゼミの教え子の方と、つながりというのはあるんですね。
船曳建夫氏: 僕の場合はちょっと特殊だと思いますけれども、メーリングリストもありますし、連絡も密ですね。昔の大学の同僚に、「船曳さんのゼミはライフワークだね」と、からかわれましたね。内容的にもライフワークだと思っています。
蔵書は11000冊→8000冊。それでもまだまだ少ない方だと思う
――書斎はどのようになっているのでしょうか?
船曳建夫氏: ご覧になりますか?辞めたら片づけようと思っていたんですが、なかなかそうはいかない(笑)
――失礼します。
船曳建夫氏: 家が建って以来、もう十何年も経つのに、この書斎を今だに片づけていない(笑)当初11000冊ぐらいだったんですが、3000冊ぐらい捨てました。英語の本は全部事務所の方に置いてあります。全部あわせて8000冊~9000冊ぐらい。本を沢山持っている人で、もの凄い蔵書家は20000冊ぐらいですね。それ以上だと司馬遼太郎さんや井上ひさしさんとか、本を整理する人も雇えるような人になってくる。そういった方は蔵書が10万冊ぐらいですよね。もうそれは超大人買いするわけですよ。本屋に、例えば黒船関係の本を500冊集めろとか言って、500冊ボーンと買う。別に全部は読まないけど資料として書棚に並べておくんでしょうね。想像でしゃべっているんだけど(笑)。
――(笑)まさしく大人買いですね。
船曳建夫氏: そうですね。僕の先生に民族学者の大林先生という方がいらっしゃるんですが、その方は猛烈に本を読む方で、もの凄い数の蔵書を持っていらっしゃったけど、その方で2万冊だったな。僕は普通の収入で普通に買って、それで自分で書棚に保管して読んだ場合、人間にとって2万冊という数字が限界だなと勝手に思っている。僕自身の本は雑誌を含めて11000冊まで増えていたんですが、雑誌はまとめて学生にあげちゃったんです、それでちょっとスリムにして8000冊。これで何処に何があるかだいたい分かりますね。本を持っている人って、もっともっと持っていますよ。廊下全部が埋まっていたり、奥さんに嫌がられたり(笑)。僕はさほど本に愛着ないし(笑)。でも30年も40年も本を買い続けると、そんな事になりますよね。1年に200冊買っていれば8000冊でしょ、40年間。年間で200冊ぐらいは買ったりしますね。
――本を買われる時は、どういった買い方をされるんですか?
船曳建夫氏: 今はですね…楽しみの本は旅行に行く前に文庫本を買いますよ。今は大沢在昌の『新宿鮫』シリーズを、マイブームでずっと読んでいたんですが、それは本屋で買う。でも後はやっぱりネットが多いですね。
――だいたい、月に何冊ぐらい購入されますか?
船曳建夫氏: 月に15冊とか20冊とか、それぐらい。だから年間200~300冊かな…。僕の外国の知り合いで、ちいさな体育館ぐらいの家を造って、そこに全部本が並んでいる方もいます。よく体育館の2階の所でぐるりと回れる所があるじゃない?そういう風になっていて、上の方の本も取れるようになっている。この部屋の4倍ぐらいの大きさで上3mぐらいまで全部本棚ね。たぶんあの人で2万冊ぐらいですね。その方は歴史家だからいっぱい本を持っているんです。
電子書籍は、活字の未来をひらく新しい変化である
――今と昔とでは、本はどのような風に変化してきたと感じられますか?
船曳建夫氏: 最近の大きな変化は電子書籍ですね。その前の変化っていうのは、最近本を読んで分かった事なんですけれど、本って和本があって、その後洋本、いまの活版印刷の本になった。その後150年は、そんなに進歩がないままきていたので、やはり電子書籍というのは、ある意味で大きな変化だと思います。内容に関しては19世紀にだって雑誌はあったし、ジャーナリズムがあって、高級な硬い本もあれば軟らかい本もあったし、あまりいまと変わらない。
――実際に先生ご自身が電子化をされたという事なんですが。
船曳建夫氏: そうですね。筑摩書房で『本とコンピュータ』という雑誌がありましたよね。出版が開始されてから結局2、3年経っても、本とコンピュータを対比的に並べているわけで、くだらなさを感じていたんですね。こちらに本があって、こちらにコンピュータ、ディスプレーがあって。こっちかそっちか、という話をしているけど、全然そういう問題じゃないと思うんですね。データが電子化されて、それをディスプレーで読むか本にするかという事であって。それまでは、いわば原稿用紙に書かれていた物や頭の中に入っていた物を活字にするという事だったのを、ひとまずは電子化して、その後の形として、紙媒体になったり今だったらディスプレーで見られるようになったり、将来はもっと変化すると思います。あるひとつながりの文章のようなまとまった物が、電子化された形で生の資源になる。その資源をどういう形にするかという事では、非常に可能性が増えてきたんだと思う。だから僕は電子書籍と紙媒体の本というのが対立的にあるんじゃなくて、電子化される事で、もちろん電子書籍として流通して、世界中に瞬時に伝わるという事もあるけど、あらゆる形の紙媒体の書物になる可能性が増したというのを、自分がこの本を自作した時に思いましたね。
――紙媒体にも電子データが変化する可能性はありますね。
船曳建夫氏: 今、ある料理屋さんの雑誌に書いたばかりの話ですが、こんなことがありました。退職の時の本をデザインする時、デザイナーの人が色々なフォントを持って来てくれて、組版によってどう印象が変わるのかを見せてくれました。僕が驚いたのは、版面の大きさを97.5%にすると、それだけで老眼の僕には凄く辛いという事。こういう所に余白があれば、校正しやすいと思って97.5%縮小してみたんです。そうしたら凄い辛い。今度はそれを102.5%にすると、圧倒的に見やすくなる。だから例えば電子化する事で、そういう変化をどうとでも作れるという事にビックリしたんですよね。今までは、原稿を書いて人に渡して、そこは全部編集者に任せていて、頭の中で思っている事が活字化されるというのが変化だと思ったんですが、その間にもっと様々な世界があるという事を知ったんです。その頃、橋口侯之介さんの『和本入門』(平凡社)という本をたまたま読んだんですね、それを読んでみたら、知らない事が色々あった。つまり17世紀、江戸時代の最初は木による活字本というのがいっとき隆盛になりますが、そのうち木だから、活字にすき間ができちゃったりする。それから江戸時代の人は、毎日毎日読む物に手紙なんかが多い。手紙は続き字で書いているけれど、江戸時代の本を読むと、続き字ではない。あの続き字を活版でやるのは凄く難しいんですね。
――確かに、彫るのが難しいですね。
船曳建夫氏: 例えば『さ』という字と、『う』という字を、書くのはこんな風に続けて書くけど、これとこれを活字でつなげるのは恐ろしく難しいわけですよね。彫る技術が高ければ、活字のすき間ががたつく問題なんかよりも、一つの木に1ページ分彫っちゃえばいいわけです。桜の堅い木材を用いると1000冊以上刷れるのかな。その頃、何千も出たら、大ベストセラーなんですよ。その版木というのはその本屋がつぶれた後でも、そのまま売れるわけですよね。買った人はそのまま刷るという事ができる。それで木の活字が生まれたのに、再び木版に戻るわけ。それは考えてみたら、進歩じゃなくて退歩のように見えるけど、いや、そうじゃないんだなと。木に彫るんだったら、どういう風にでも、書体も変えられるし、大きさも変えられる。言ってみれば電子化されたデータで、様々なフォントの大きさも自由に作るというのは、木の活字から木版に、彫師に移った時のような、両方ともある意味で進歩なんだと思いました。今回起きているのもそういう事だなと。
――なるほど、違う意味での進歩なのですね。
船曳建夫氏: 電子化というと、紙媒体がますます少なくなって、電子書籍へ移行するというように思っているけど、そうではなくて、データというのが電子化される事で、それをどのように表現するかは、もの凄く可能性があると思います。例えば、音のライブラリーという、作者が朗読するものなどがありますが、それは電子化された媒体があれば、そこから直接それを音源にする事だって可能ですよね。もっと面白いのは、自分で本が作れることですね。さっき言った本作りをやっているうちに、「ああ、そうか」と。考えたらどんな本でも作れるんだなと気づいたんです。例えば永井荷風の『濹東綺譚』とか、僕の好きな古い小説があるんですが、それをデータとして買ってきて、それを行書か何かにして、自分で好きな和紙か何かで装丁する事もいくらでもできるんだなと。デザイナーの方が教えてくれたんですが、昔の木の活字みたいなのがフォントとして出てくるアプリや機能があって、それで打ち出して本を作るというような事を既にしているんだと聞いて、ああ、そうかと思いましたね。やっぱり本はiPadもいいんだけれど、物の感じというのか、本の感触というのは大事だと思いますね。100年経っても飛び出す絵本とかはきっと残っているんだと思う。そういうリアルな感触が大事な絵本には、もっと色々な冒険が出てくるだろうなと思いましたね。親が自分の子どもに1冊だけの本を作る事ができますし。そえwは電子化で変わる事だと思いますね。僕は電子化は書籍の可能性をもの凄く広げると思います。今まで我々は編集者が勝手に作った、装丁家という人が勝手に作った本を書店で買うだけだったけど、データを買ってきてどんな本でも作れるんだと、理屈としてはそういう事だなと思いましたね。
電子化されたデータは色々な所で活用できる
――電子化というのは、紙を駆逐する物ではなくて、多様化する事だと思われますか?
船曳建夫氏: 僕が驚いたのは、本って、あまり丈夫ではないですね。やはり昔の和本は凄く強いし、それから17世紀ぐらいの立派な革に包まれた本は、今でも立派なんだけれど、僕の直接の先生が1960年ぐらいに出した本があり、本を作るので先生の書籍を参考にしようと見てみたら、紙全体がくすんでいて、それから活字自体もあまり鮮明じゃない。やけに字が詰まっていたりして、本として決して出来はよくない。みんな本が無くなるとかいって嘆いているけど、かなりの本は元々出来が悪いよなという事に気が付いた。僕の『LIVING FIELD』という本は驚くほど写真が鮮明で、とてもきれいなんです。
みんなが見本を送られたとき画集かと思ったって言っているんだけど(笑)。一方僕は死ぬ前に、PDFなどのデータで、アカデミックな本を保管、管理してくれる所があると思うので自分の著作はそこに預けたいですね。本はまだ紙媒体が多いけど、雑誌は電子ジャーナル化されていますし。電子化されたデータは色々応用できると思います。くだらない事を考えたんだけど、トイレで本を読むけれども、トイレの水の上に文字が出てくるとか、風呂の表面とかの水の上に文字が出てくるとかあり得るなと。読みづらいけど、ディスプレーとしては面白い。レストランか何かの池だって、池の表面だけにバーと広がる油みたいなのがあって、そこに電気が通じていて、水の上に文字が出るとかね。だから液体でも固体でも何でもいいわけですよね。いたる所に、ある意味で文字は現れるわけで。本当にSFみたいだけど、体に電極を差し込むと本を読んだ事になるまでは、つまり眼球を介して本を読むという行為を行うまでは電子化されたデータは様々な媒体に印字されるという事ですよね。だからそれは僕にとってもの凄く興味深いことですね。
――今やっと始まったばかりですか?
船曳建夫氏: 可能性は広がりますよね。紙という物は、かなり物として良く出来ています。この薄さ。我々の読む能力というのは、それこそ電極プラグを頭に差し込んで読むという事が可能になるまでは、我々の読むスピードというのは伸びないんですよ、いくら速読とか言ったって。そうすると、本というのは、我々の読む能力に案外あっていてね。3,4日の旅行にiPadを持っていくのと本を持っていくのは、重さでいうとどっちかと言うと、いい勝負だったりして。いずれ1枚のペラに、電子媒体として電子化されたデータが乗っかるとしても、本というのは十分に軽いと思うので、本にして持っていくという事は、いつになっても案外あり得る方法だろうなと。紙っていうのは、物としてはかなり完成に近い物質だなと思います。
――色々な物に印字されるという未来は、実現する物になってくると思われますか?
船曳建夫氏: そうですね、必要の範囲内で。不必要な事はコストがあわないから実現しないけど、そこに必要があれば、きっとコストの問題を克服して、材料の進歩によって電子化されたデータはいかような形でもとるという事ですよね。本を読むって、もともとは楽しさであるわけなので、楽しいならば、単に内容だけじゃなくて、見ている活字と媒体自体が楽しいという、僕らが感じていない色々な読書の楽しさというかな。勉強の方にどうしても話の焦点が絞られてしまいがちだけれど、そういう活用法もあると思いますね。
これからの課題は『旅行記』を書く事
――執筆に関しては今後どんな事をされていかれますか?
船曳建夫氏: これから海外の旅行記を書く事になっているんですね。21歳の時に、最初に海外旅行に出て、それ以来専攻が人類学なので旅行する事も多いんです。それこそベルリンの壁崩壊以前、若い頃旅行した所を、年をとってまた最近旅行した時の違いとか、違わなさとか、実はその場所は同じなんだけど僕の方が変わっていたということなどを書こうかと思っています。旅行記を書こうとして、何十年ぶりかで訪れてみると、そこが変わっていたり変わっていなかったりする。でもそれだけじゃなくて、自分が昔はある枠組みでとらえていたということにあらためて気づきますね。大きく言うと、東西冷戦、昔ソ連に行った時なんか見ていますし。インドに行った時は南北の格差というのを見ていたけど、言ってみればポストモダンとグローバリゼーションと東西冷戦の崩壊によって、世界はもう少し複雑になだらかに違う風に見えてくると。昔はああやって見ていたんだなぁという自分自身の内側の変化を感じますね。
――色々な国の事を沢山書かれているんですか?
船曳建夫氏: そうですね、まずは8カ所ぐらいの事を書こうかなと思っていて。しかしまず最初のソ連とロシアでまだとどまっていて(笑)ソ連を書くのは難しいです。ソ連って何だったんでしょうね。この前、3週間ぐらいサンクトペテルブルグに行ってきたんですが、変わったような変わらないような、何とも。一番最初から難しいのを書き始めちゃったなと。その次はハワイにしようと思って(笑)。ハワイなら書きやすいから。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 船曳建夫 』