五十嵐太郎

Profile

1967年、パリ生まれ。建築史・建築批評家。1990年、東京大学工学部建築学科卒業。1992年、東京大学大学院修士課程修了。博士(工学)。現在、東北大学大学院教授。せんだいスクール・オブ・デザイン教員を兼任。あいちトリエンナーレ2013芸術監督。第11回ベネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館展示コミッショナーを務める。『現代日本建築家列伝』(河出書房新社)、『被災地を歩きながら考えたこと』(みすず書房)、『3.11/After』(監修・LIXIL出版)ほか著書多数。

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日本は『お金』を優先させ、ヨーロッパは『文化』を優先させる



建築業界で大活躍されている五十嵐さんに『あいちトリエンナーレ2013』や『せんだいスクール・オブ・デザイン』での取り組みと今後の本や電子書籍のあり方について、存分に語っていただきました。

『あいちトリエンナーレ』の特徴は『街なか展開』


――現在の取り組みや、お仕事についてお伺いできますか?


五十嵐太郎氏: 大学の業務では、講義とか研究室があるので、学生の論文とか設計の指導のほかにもうひとつ大きなウェイトを占めているのが、名古屋で3年に1度開催される国際芸術祭『あいちトリエンナーレ』の芸術監督です。来年2013年に第2回が開催されます。芸術監督というポジションなので、月に3~4回は、名古屋に通っています。約75組の作家を選定することと、展示会の準備に一番時間をとられていますね。その他に原稿の執筆やシンポジウムなどがいくつかありますね。

――トリエンナーレは3年に一度の芸術祭とのことですが、他の地域のトリエンナーレと関連はあるんですか?


五十嵐太郎氏: 要するに2年に一度の芸術祭であるビエンナーレや、トリエンナーレっていうのは、オリンピック、万博と違って認定機関がないので、どこでも始めることができます。だからいまアジアで数が増えていて、日本では横浜トリエンナーレ、越後妻有トリエンナーレ、瀬戸内国際芸術祭、神戸ビエンナーレっていうのがありますが、国体のように持ちまわりでやるものではなく、特に関連はないです。

――『あいちトリエンナーレ』に参加する作家さんを決める作業は、どのように行うんですか?


五十嵐太郎氏: 作家の選定が10組くらいだったら学芸員やキュレーターが1人でもできると思いますが、75組になると1人では無理なスケールなので、僕も含めた5人のキュレーターチームの作業になります。ですから、そこは合議制で最初に僕が設定したテーマをもとに、作家を決めていくんです。『あいちトリエンナーレ』は、パフォーミングアーツ部門があり、演劇、ダンス、オペラも入っているという規模の大きなイベントです。メインで使う建物にオペラができる大型のホールがあります。オペラも一緒になっているビエンナーレ・トリエンナーレって他にはないんじゃないかと思いますね。

――全体的な準備はいつごろから始めましたか?


五十嵐太郎氏: 1年前に決まりましたので、2011年の夏からですね。

――今やっている中でどのようなことに苦労されていますか?


五十嵐太郎氏: 規模が大きいことと、国際展なので、海外の作家が多いことですね。国内の作家だけだったらもうちょっと簡単になると思いますが(笑)。『あいちトリエンナーレ』は特徴があって、2つの美術館以外に「街なか展開」と言って街の中の空いている建物を展示施設に使うんですよ。対象は、ビルや商店、倉庫や閉鎖したボウリング場などの空いている不動産物件なので、持ち主が直前までほかに借り手がいないかって考えたりするので、期日寸前まで許可が出ない物件もあるんです。「街なか展開」が一番不確定要素が多いので、どの作家を美術館にするか、どの作家を「街中展開」で出すかっていう判断や組み合わせが、複雑なパズルというか方程式になっていて、結構大変ですね。

――街全体が美術館のようになるんですね。なかなか簡単に真似出来ることではないですね。


五十嵐太郎氏: 前回の第1回目のトリエンナーレでも、この「街なか展開」が一番目立ってましたね。普通の人が見に来て「いつもと違う」って気づくのは街の様子の変化なんですよね。美術館の中に作品を展示しているだけだと、普通の美術展が大きくなった程度にしか一般の人は感じないんですけど、街の建物が美術の場になっていたり、街の中がアートになっていたりっていうのは、普段中々ない経験ですよね。やっぱり目立つ場所っていうのが、重要な場所なんですね。前回は空中に浮くオアシス21の水盤に草間彌生さんの作品が設置されていて、大変な人気でした。ボウリング場などは、大きな巨大な空間が空っぽで残っていて、そのままアートで使うんです。こういうことは、やっぱり美術館ではできないことですね。

建築家やアーティストの作品集は、装丁が『デザイン思想』を表している


――今回、電子書籍に限らず、未来の読書の形について広くお伺いさせて頂いております。今、電子書籍はご利用になっていますか?


五十嵐太郎氏: Googleのライブラリとかで昔の文献が読めるようなものはデータをダウンロードしていて、それで見ることはあるけど、そんなには使ってないです。電子書籍っていうのか、アプリと書籍の間みたいなものは買ったことはありますけどね。トークイベントの相手の方で、渡辺実さんの『彼女を守る51の方法』という本を買いました。基本的には書籍コンテンツをそのまま電子媒体に入れたものでしたね。

――五十嵐さんが、電子化されたデータも含めて電子書籍で便利だなと思われるのはどういったところでしょうか?


五十嵐太郎氏: 図書館にある昔の文献、ルネッサンスの時代とかの建築書をGoogleが丸ごとデータとしてタダで配布しているっていうのは、すごいと思いますね。昔だったら、日本国内なら科学書をコレクションしている金沢工業大学に行くか、海外ではイタリアの図書館とか行って、しかるべき手続きをしないと事実上見ることができないような貴重な古書が、今はネット上にあるっていうのは、驚くべきことですよね。「もの」としての重みっていうのはもちろんなくなるから、その触覚的な情報は消えるけど、でも過去のあらゆるアーカイブを可能な限り電子情報化していくことに関しては、非常に面白いと思うし、それまでものすごい障壁があった部分を確かに下げていると思います。と言ってもそんなに簡単にすべてのものが電子書籍化できるとは思ってないです。たぶん古代とか中世とか近世くらいだったら、本の量がそもそも少ないので簡単に電子化できると思うんですが、近代以降は膨大な量があるので、その辺のデータをほんとに全部電子化するには、相当な時間がかかると思いますね。

――建築関連の書籍の場合、電子化が通常書籍と異なりますか?


五十嵐太郎氏: そもそも、本に対するアプローチの違いって、その人の仕事によると思うんですよ。つまりビジネスとか「今現在」をテーマにしていると、やっぱり割と電子化をどんどんできると思うし、本自体に「もの」としての重みがなくてもたぶん成立すると思うんですよ。建築の場合はどちらかというと、歴史寄りであり、ビジュアル系ですよね。特に建築家やアーティストの作品集の本なんかは、装丁自体が1つのデザイン思想を表しているケースが多いので、どうしてもその人がどんな造本をしているかも、重要になってくるんですよね。写真や絵の実際の大きさ、あるいはプロポーションも重要です。ですので、それがすぐ電子化できるかどうかって違うと思うんですよ。経済とかITジャーナリストとか物理学の本は、20年前とか30年前の文献は紙じゃなくても電子書籍でも良いと思うんですよね。だけど歴史系で、今言った視覚芸術に関わっているとやっぱり、そういうコンテンツをすべて電子書籍に置き換え可能かというと難しいと思います。

『電子書籍』のおかげで、『紙』の特性を改めて再考することになる



五十嵐太郎氏: ちょっと実例を見せましょうか。(五十嵐氏が写真集を持ってくる)



僕は『せんだいスクール・オブ・デザイン』という、今東北大学で主に建築デザインのスタジオ制の講座をやっていて、『メディア軸』という雑誌を作るスタジオをやっているんですよ。『ウェブの時代に紙の媒体ができること』というテーマでやっているんですね。これは、国の予算でやっているので、価格をつけて販売できないんですが、ものすごい前衛的な装丁なんです。ちょっと触ってみるとわかるんですけど、特殊装丁でやっています。手品のように、左からめくるのと、右からめくるのとでは、違う内容が出てきます。これは誰もが驚いてくれます。全部PDFにしたら情報としては同じものを読むことできるのですが、紙でしか体験できない仕掛けが施されてるんです。

――これはなんという製本なんですか?


五十嵐太郎氏: シャッフル製本といって、小口のところが一ページおきにズレていて、めくrとスキップするようになっているんです。この本を普通に配本すると乱丁扱いになりかねない(笑)。これは紙でしかできないってことがわかりますよね。レイアウトは全部DTPでやっているんです。手で触る感覚っていうのは、少なくとも紙にしかできないですね。

――こういったアイデアはどこから生まれるんでしょうか?


五十嵐太郎氏: 仙台印刷団地の若手有志と卸町TRUNKのメンバーからなる『製本部』の人たちが、色んなアイデアを持っていて、彼らとコラボレーションでやっています。この企画の2号でやったのは、一見古典的なんですけど、もうちょっとひねっているものです。
昔の本は、自分でペーパーナイフで切って、本として全体が完成します。2号の場合は、切ると、その内側からまた独立した論考が出てくるのですが、逆に最初に読むことができたメインのテキストがぐちゃぐちゃになって読みづらくなるというものなんです。だから最初の状態で読める論考を先に読んでおかないと、切って開いた後に再度読むということは、面倒くさくなるというつくりです。むしろ読むことの一回性みたいなことをやっているんですね。フォルダを開くと、またその中にフォルダがあるっていうのはむしろコンピューター的な感覚だなと思うんです。

――通常に生活していると浮かばないようなアイデアですね。


五十嵐太郎氏: 電子書籍がない時は紙が当たり前だったから、われわれが呼吸を意識していないように、紙の特性のことを我々はあえてあまり意識しなかったけれど、電子書籍が出ることによって、「そもそも紙ってなんだったんだろう?」という紙の特性をどこまで生かせるかを改めて考えるようになるんですね。電子書籍の面白いところは、情報自体に大きさの規定がないところだけど、今のところ、フレームの大きさによる物理的な制限が、足かせになっていますよね。

――ちなみに写真集がその大きさである意味っていうのはどういったところだと思いますか?


五十嵐太郎氏: 作家が、その写真の大きさで見せたいっていう所から絶対来ていると思います。同じ写真でも、拡大したり、縮小すると、作品としての意味が変わってしまう。それは、解像度との関係もありますが。もちろん実際に展覧会で展示するときは、また違うサイズになっていると思うんですが、それを含めて美意識だと思いますね。

『せんだいスクール・オブ・デザイン』はアナログとデジタルの融合


――今後電子書籍になっていく中で、紙の本においても新しい試みがどんどん登場しそうですね。『せんだいスクール・オブ・デザイン』で出された本は購入することは出来るんですか?


五十嵐太郎氏: 『せんだいスクール・オブ・デザイン』は、さっき言ったように国の予算で作ったので、売ってはいけない本なんですね。通常の本屋に置けないんです。どういう頒布形態をとっているかというと、かなり特殊なんです。「無料で誰にでもあげる」っていうと、特に1号は300部程度しか作ってないので、すぐなくなってしまいそうだったんですね。だけど、本当に欲しい人を選別したいじゃないですか。そこで考えたのが、「自分の住所を書いた封筒に返信用の封筒と切手を貼ったものを送ってくれた人には無料であげます」ってしたんです。こうすることで、少しだけハードルが上がるじゃないですか?その手間を惜しまない人だけがこれを入手しているんです。メール1通で申し込みができたら、誰でも簡単に申込ができてしまって、本当に欲しい人とそうでない人の選別ができないですよね。

――購入出来なかったけれど、読みたい人はどうすれば読めますか?


五十嵐太郎氏: 『せんだいスクール・オブ・デザイン』は、twitterとかで「ここの図書館に置いた」とか所在地の情報を流したり、「これを入手した人は積極的に人に貸していい」と言っているんです。今だったら「S-meme(エスミーム)」ってtweetを探せば誰が持っているってわかるので、その人が友人だったらその人から借りてくださいっていう形にしています。つまりアナログとデジタルの融合なんですよね。人と人との関係で「これを積極的に回し読みしてください」って話すんです。でもその情報をどうやって得られるかっていうと、デジタルツールで得られるっていう不思議さがあるんですね。

――ちなみに2号はどこで見られますか?


五十嵐太郎氏: 図書館にはいろいろ送っています。仙台はもちろん、建築の図書館だとか、国会図書館にも送っています。ただ、これは切ったら本当に戻らないという「一回性」の本なんですよね(笑)。

『ぐちゃぐちゃ』に建っていることが日本の建築の特徴


――本との関わりについてお伺いしようと思います。学生時代などに読まれた本で五十嵐さんに影響を与えた本はありますか?


五十嵐太郎氏: 僕は大学1、2年の時はあんまり本を読んでなくて、4年から大学院の頃にたくさん読むようになって、読書会を数多くやっていたんですよ。書籍についての本を僕は2冊出していて、1冊目の『READINGS〈1〉建築の書物・都市の書物』は、読書会でセレクトしていった本がベースになっていますね。2冊目が11年後に出した『建築・都市ブックガイド21世紀 (建築文化シナジー)』という本です。自分が読んだ作品では、特にミシェル・フーコーの『言葉と物―人文科学の考古学』が一番印象深いですね。

――どのような内容ですか?


五十嵐太郎氏: ミシェル・フーコーの特徴的なのは、ある時代に共通した思考のパターンがあって、それが違うジャンルに現れることなんです。例えば植物学だとか、絵画だとか、一見バラバラのジャンルの中に共通した思考様式を見て取るような感じですね。今我々がものを考える一つの枠組というのが、コンピューターのシステムとかアーキテクチャと呼ばれるものですね。ああいったものにすごくよりかかっていって、それはジャンルが違ってても、そのシステムを選挙に応用したりだとか建築の設計に応用したりだとかを考える人がいます。わかりやすく言うとそういったものを17世紀や18世紀や19世紀のヨーロッパの様々なジャンルに読み込んでいくっていう世界の見方ですね。

――ヨーロッパ的な考え方と日本的な考え方は違いますか?


五十嵐太郎氏: 例えば建物で見た時に、ヨーロッパの建物は残るので、自分が今住んでいる空間とか、見ている町並みが3世代下でも残っている確信っていうか、安心感はあると思います。日本はね、現代都市でも住宅は平均30年くらいで壊れて、建て替えちゃうし、街の中に建ってる建物ですら50年もすればほとんど入れ替わっちゃいますね。ましてや近代以前の木造家屋の時代だったら、もっと早いサイクルで建物が消えています。やっぱり石やレンガで作っているものは残るということもありますけど、ただ、今は日本もヨーロッパも同じ材料のコンクリートを使って作っていて、ヨーロッパは残してるけど、日本は壊す。なので、材料だけの問題だけではないんだろうなと思います。

――日本は新築がいいと思っている人が多いかもしれないですね。


五十嵐太郎氏: 日本の場合、新築したものが好きだっていう傾向があるし、土地の値段が高すぎるので、建物の資産価値がすぐ0になっちゃう仕組みですよね。あと地震がやっぱり頻発して起きるので、耐震の基準っていうのがどんどん上がるんですよね。だから「既存不的確」っていう言葉があって、建った時にはクリアしてるんだけど、20年ぐらいすると何かの地震が起きて基準が上がって、存在している建物は現行では基準に達していないということになりますね。もちろん劣化もしているだろうけど、そういう耐震の基準が非常に厳しくなっていくことによって、結果的に建物を壊してまた作るっていうサイクルを加速させている側面もあると思います。

――地震があるためなんですね。




五十嵐太郎氏: あと公共施設での国と地方の関係だと思うんですけど、老朽化した30年ぐらいたった建物を補強しながら使うよりも、新築したほうが中央からお金ががっぽりもらえるようなお金の流れの設計をしているんですね。そしたら地方としては、無理して古い建物を補強したり、改修して使うよりは、ガッポリ国からお金もらう方が得なわけだから、新築したほうがいいって判断する。だからこれは、制度設計の問題だと思いますね。あと、日本の場合、戦後に住宅の持ち家制度みたいなのをやったのは、完全に景気高揚策だと思いますね。みんなでどんどん家を作って、どんどん車を買ってということ自体が、実際は戦後の日本の復興に大きく貢献した側面もありますが、一方で長く使うものではないというサイクルを植え付けたとも言えますね。

――少しずつそういった「建物は長く建てておくものではない」という考えが浸透していったんですね。


五十嵐太郎氏: デベロッパーが作るのも儲けるために作るので、社会をよくしようと思って作っているということは、ないんじゃないですかね。ほとんどのものは経済物になっちゃってるので、実際は文化だとかは、ほとんど評価されることはないですね。もっと長期的に考えると、ヨーロッパのようにユニークな建物を残すということは、観光資産にも確実になるはずなんです。でも、日本だと、どこにでもある地方の駅前と同じ風景になるってわかっているのに、短期的に考えて今すぐにお金が入った方がよいと考えて、壊しちゃうんですね。

――海外から見た時に、日本の建築の特徴というのはありますか?


五十嵐太郎氏: 街並みの特徴はそんなに無いですね。あえて言うなら、ぐちゃぐちゃに建っているっていうぐらいですね。それはアジアでもありますが、違いは清潔っていうかクリーンではあるってことですね。美しくはないけど、とてもこぎれいではありますね。一般的に日本の街とか都市とか、すごくよく掃除しているというか、そういうのは日本らしいと思いますけどね。アジアでも中国でもアメリカでもどこでもいいんですけど、もっと小汚くてもいいんだっていう感じでみんな暮らしていますけど、日本はすごく清潔好きっていうか、きれいになんでも掃除していて、汚れていることはすごく「悪」とされているように感じますね。

電子書籍が出版の仕組みを変える


――本の話に戻らせていただきます。五十嵐さんのご自宅に本はたくさんありますか?


五十嵐太郎氏: 数えきれないほどありますね。ここ大学の研究室、東京と仙台の家の3か所に分散しています。本は大まかには分類されているけど、そんなにきちんと分類する暇はないので、大体何か必要な関連性のありそうな本は、少しずつ近い場所に集めたりしてますね。

――普段、本はどうやって買われますか?


五十嵐太郎氏: 最近は買うのは圧倒的にAmazonが多いですね。昔、暇だったときは、よく神田とか早稲田とかにある古本屋街とか回って、欲しい本が安く見つかると「いいなぁ」って買ってたんですけど、やはり時間がないとそれはできないですね。

――五十嵐さんは、同じ本を繰り返し読まれますか?


五十嵐太郎氏: 必要な個所だったら何回も見たりすることはあるけど、通して読むってことはあんまりないですね。繰り返し読む個所は、僕は結構書き込みとかする方なのでそれで見つけてますね。

――本について、以前と今とで何か違いを感じますか?


五十嵐太郎氏: 昔に比べて圧倒的に新書のタイトルが増えましたよね。あとは学生が本を買わなくなりましたね。たぶん、昔から言われているのかもしれないけど、今は本当にそれを感じますね。

――どうして本が買われなくなっていったんでしょうか?


五十嵐太郎氏: 本があまり買われないのに、新書や刊行タイトルが増えたことについては、永江朗さんがレクチャーしてくれているのがすごく腑に落ちるんですけど、出版業界って売れても売れなくても、本を作ると一時的にいっぱいお金が入るんですよ。永江さんはそれを刺激的な言葉で「偽金づくり」って言ってます。つまり常に本を作り続けることによって支えてあっているっていう悪しき循環に今入っているということですね。新書とかも含めてどんどん回転させて、でもそれを止めちゃうと「偽金」がなくなって反転しちゃうから、とにかくひたすらタイトルだけを量産するっていう、いわゆるそれが日本の出版の仕組みですね。そういう仕組みを聞くとやっぱりひどい話だなぁと思いますよね。出版社もわかっていても抜け出せないっていう状況なんでしょうけどね。

――電子書籍の登場で、そういった仕組みを変えることはできるでしょうか?


五十嵐太郎氏: そうですね。そういう意味で電子書籍が、「偽金づくり」と言われるような無駄なことをしないように律するんであれば、いいことはあるんだと思います。



根拠なく決まった『形式』でも、長く『継続』していくことに意味がある


――五十嵐さんが本を執筆するときは、ページ数が先に決まっていて、書かれるんですか?


五十嵐太郎氏: 新書は大体何ページくらいで原稿用紙何枚って、まず形式があります。まれにそういうの超越したりする本はありますけどね。僕の場合は、図版が大体必ず入るので、文字だけで書くものとはちょっと違う計算にはなりますけど、やっぱりあるパッケージとして本は作られるので、それは善し悪しは抜きにして、形式性がありますね。だから電子書籍で最初から作れば、そういうものは一旦解除されるんだと思いますね。

――電子書籍の場合、著者が書きたい文字数で自由に書けるようになるんですね。


五十嵐太郎氏: でも、形式は自由でもなかなか書けないっていうこともあると思います。例えば俳句とか和歌だって、「なんで17文字なの?」とか「なんで31文字なの?」っていったって、別にそんなに根拠はあんまりないような気がするんですけど、でもその「形式性」が生み出す世界っていうのがありますね。あんまり根拠なく決まったパッケージであっても、それはそれでずっとやっていくと意味があると思いますね。かつてのレコードのアルバムとか、シングルも、物理的、技術的な限界が、ある音楽の形式をつくったように思います。

――最後の質問です。今後、どういったことに取り組んでいきたいですか?


五十嵐太郎氏: 『あいちトリエンナーレ』の第2回を1年後にちゃんと成功させて、第3回へちゃんと続くようにすることが、今最大の目標ですね。

(聞き手:沖中幸太郎)

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