保坂和志

Profile

1956年、山梨県生まれ。鎌倉に育つ。早稲田大学政経学部卒業。90年、『プレーンソング』でデビュー。93年、『草の上の朝食』で野間文芸新人賞、95年、『この人の閾(いき)』(新潮文庫)で芥川賞、97年、『季節の記憶』(中公文庫)で谷崎潤一郎賞、平林たい子文学賞を受賞。エッセイに、『猫の散歩道』(中央公論新社)、『途方に暮れて、人生論』『「三十歳までなんか生きるな」と思っていた』(いずれも草思社)など。創作論に、『書きあぐねている人のための小説入門』『小説の自由』『小説の誕生』(いずれも中公文庫)、『小説、世界の奏でる音楽』(新潮社)などがある。

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変化に揺るがない小説家



90年『プレーンソング』(中央公論新社)でデビューし、日常を題材とした丁寧な描写で小説を書き続ける保坂和志さんは、95年に芥川賞を受賞して以降も、多くの文学賞を受賞しています。カフカやトルストイなどの名作を繰り返し解読し、さらに小説家を目指す人のための入門書なども執筆しています。また、ネットを利用したメール小説やエッセイなども公開している、そんな根っからの小説家である保坂さんの、読書スタイルや電子書籍への思い、さらには書店員や古本屋の今について、面白く語っていただきました。

読みたい本は乱暴に、読まない本は丁寧に


――本をスキャンするということに対して、作家である保坂さんは、心理的なことも含めてどのような印象をお持ちですか?


保坂和志氏: 僕は、そういうことには関心がないので、特に賛成も反対もないです。それは、読み方や所有の仕方などの問題であって、僕の思いはいつも「作る」「書く」こと。だから、僕にとって重要なのは、書いている人の気持ちなんです。

――読み方の問題ということですね。


保坂和志氏: 小説というのは、全く違う二つの読み方がある。評論家のように読むのはすごくつまらなくて、小説家のように読むのが面白い。
両方できれば面白い? それは疑問。ていうか、それもまた、評論家的な考え方なんだけど、それはともかく、どういう形でも、とにかく読むことが大事。本がバラバラにされようがどうしようが、一番読みやすいように読めばいいんです。僕自身、ハードカバーの重い本は、本体とカバーを繋いでる紙のところにナイフを入れて、外のカバーを切り捨てちゃう。で、本体だけ持ち歩いているので。

――その方法は初めて聞きました。


保坂和志氏: ハードカバーって、折り曲げられないから開いて持っていなくちゃならない。外のカバーを切り捨てて、本体だけにすると背中で完全に折れるので片手で持てる。だから僕自身は、本の物理的な形というのは、あんまりこだわっていないんです。小説家の丸谷才一さんもね、本棚に並んでいる本全部、バラしてあるっていうんだよね。1冊を持ち歩くのは重いから、いっぺんに読める必要な部分を、何十ページずつにバラしてある。

――保坂さんの、ハードカバーを切るという読書スタイルも、すごく大胆だと思います。


保坂和志氏: 昔、ジル・ドゥルーズっていうフランスの哲学者の『Mille Plateaux』っていう、今、『千のプラトー』(河出書房新社)という題名で日本語に訳されている本があるんです。フランスで60年代後半にベストセラーになったときは、やっぱりみんな好きなページだけ切り取って持ち歩いていたというのね。そうやって好きなページだけ何度も読むということなんです。「あ、このページがいいな」って感じて、そのページだけを、今だったらコピーをとったりスキャンしたり、後はそれを手で書き写したりできますよね。

――購入した本はすべて、古本屋には絶対に売れないような結果になるのでしょうか?


保坂和志氏: いや、月に買う本が何十冊単位になるわけですから、結局読まずに流していくことになっちゃう本もあります。面白そうだと思って買うんだけど、読み出したらどうってことなく、そのまま読まずに古本屋行きになっちゃうわけですよね。だからそういう本は大事にしているんです、売るものだから(笑)。

――思い入れのない本ほど大事にする…という皮肉な結果になっているのですね。


保坂和志氏: そういうことです。でも自分が線を引いたり書き込みをする本というのは、その時点で古本屋には売れないわけだから。本をきれいに保存しておくということは、フェティシズムか、売る価値があるか、そのどっちかなんですよ。

――なるほど。しかし、古本屋にも持っていけない本は、当然自宅で保管すると思いますが、カバーを取り除いてタイトルがわからなくなると、不便ではありませんか?


保坂和志氏: そういうことする本はたいてい厚いから、背中にマジックで書ける。それから、外のカバーはとっておいてるから、それをかければわかる。本体にじかに外のカバーをボンドで着ける、というやり方が最近は一番気に入ってます(笑)。

辞書には、物体のとしての力が大きいと思う


――いいと思ったところだけを切り取るということは、1冊の本を最後まで読むという一般的な読書の行為とは違った形になりますね。


保坂和志氏: 読書は何かの作業工程ではないし、全体として何を言っているかという趣旨をとろうとすると、書いてある言葉から離れちゃうんですよ。

――全部読むということにとらわれすぎていることはあるかもしれません。最後まで読まないと、「読破」にならないという考え方にあるんだと思います。


保坂和志氏: 読書は労働じゃないんだから。読んでいる間に、すごく興奮する場所とか、だれる場所とかあるでしょ。読んでいる最中の興奮は、読み終わると薄れたり消えたりしちゃうんだよね。だからそっちを大事にするってこと。そのための方法なら、本の形なんかどうでもいいですよ。

――確かにそうですね。


保坂和志氏: その大きな問題としては、だいたいの人は、厚みや物体としての「本」があることによって、全体のどの辺の位置を読んでいるかがわかる。パソコンの前のワープロが出た時から思ったのが、画面スクロールをしていくと、全体の中での占めている位置がわからない。もともとの本というのが、一応1冊のあの形として想定されて書かれている。だから電子辞書で調べるか、辞書や広辞苑で調べるかの違いなのだけど。まあいろいろな派生的な違いはいっぱいあるんだけど。

――本の辞書なら、あいうえおで引きますから、文字を調べるとき、最初にだいたいの位置を想定して本を開きます。電子辞書には、その位置という感覚はありませんね。


保坂和志氏: 本の形の辞書は、「し」で始まる言葉がすごく多いんだよね。だから「し」で始まる言葉を引こうとすると、ちょっと面倒くさいなという感じが必ず出てくる。辞書を引いたことがある人ならわかるんだけどね。電子辞書はそれがなくなっちゃう。「び」で始める言葉でも「し」で始まる言葉でも、時間も感覚は同じでしょう。

――画面には短時間で簡単に出てきますね。


保坂和志氏: 言葉がいっぱいある編み目の中をくぐり抜けて、自分の力でたどり着くという感覚が、本の辞書だとすごく強いんだけれど、電子辞書だとどこも一緒なので、全く真っ平らな感じになる。その違いというのは、1冊の本の中でも出てくるんじゃないかな。あと、Wikipediaなんかで人物を調べていても、ものすごくたくさんの記述があるのと、すごく少ないのがある。やっぱり本の形をしているほうが、人間としてはわかりやすい。中身と関係ないかのように見えるけど、やっぱり大事なものほど量が多くなって厚みもあるわけだから。量が持つ力っていうのは、やっぱり物体としての本のほうがあると思いますね。

――本の電子化に抵抗がある方々には、やはりその「物体の力」が大きいからなのでしょうか?


保坂和志氏: そう。80年代ぐらいから既存の本に対するいろいろな変化が起きてきて、やっぱり現状として、本をバラしてスキャンすることや再販制の問題とかに反対している人たちというのは、本が売れていて、現状で利益を得ている人ですよ。今のCO2削減問題と一緒で、力のある国家が主張して、力の弱い国の主張が通らないというのと同じことが本の世界でも本当は起きている。本の将来とか言いながら、売れている著者が反対しているだけですよ。だから再販制問題でも、「再販制廃止反対」と言っている人は、みんな売れている著者なんです。スキャンにしてもね。僕は大筋としては、どうでもいいですね。

賞が欲しいだの、偉くなりたいだの…戻るところは最初しかない。


――作家の立場からすると、電子化でも紙の本でもどっちでもいいと思われますか?


保坂和志氏: どちらがいいとか悪いとかは、それは流通にかかわる問題なんでね。やっぱり作り手の問題として、簡単に電子書籍にくら替えする作家がいるんだよね。本当のちゃんとしたものを書こうと思っているわけでなく、売れることしか考えていないということですよ。まあ、商売人ですね。もっと悪く言えば売文業ということだけど(笑)。

―― 一言で作家と言っても、いろいろな立場の人たちがいるんですね。


保坂和志氏: 物書きというのは、一応自分が拠って立つ場所というのがそれぞれあって、賞をいっぱい取っている人は、実は売れていないことが引け目だったり、売れている人は賞を取っていないことが引け目だったりと、くだらないことを言っているんだけど、どっちでもいいんです、そんなこと。だって大事なのは、ちゃんとしたものを書くってことなんだから。だからみんなデビューする前に、まず、小説家になりたいどころか、「小説を書きたい」と言い、書けるなら売れなくても構わないと思っている。それが次に、プロとしてやっていくにはどうしたらいいか、もっと売るにはどうしたらいいかって、だんだん売るほうに向かって行って、賞が欲しいだの、偉くなりたいだのって、そういう風になっていく。でも最初は「書きたい」ということで始まっているんだから、そこに戻るしかない。いつも拠って立つところはそこなんですよ。

――小説を書く上でどういったことが大事なんでしょうか?


保坂和志氏: 小説家で大事なのは、いいマンションに住んで、いい車に乗って見せることじゃなくて、「小説を書きたい」と、最初に思ったその気持ちが、若い人たちの「何かをやりたい」という気持ちを鼓舞させる。小説家はそのための存在なんだから。「自分はそういうことを実現してみせた!」とね。

――若い人たちに影響を与える存在ということですね。


保坂和志氏: その実現した人間が、「次はいいマンションに住めるぜ!」じゃないでしょう。プロ野球選手もそうなんだけど、最初はドラフトにかかりたいとか、レギュラーになりたいと思っていた人間が、年収5億になったらロレックス100個持っているとか、関係ないでしょう、そんなこと。



――本質から外れ、意識がお金にとられてしまうことは、残念ですが珍しくないことなのかもしれません。では、芥川賞という、日本で最も大きな賞を受賞された保坂さんが、なぜ、本質からそれることがなかったのでしょうか。


保坂和志氏: 僕はそんなに売れなかったからね(笑)。でも、言っておくけど、芥川賞は「日本で一番知られている賞」というだけで、全然たいした賞じゃないからね。

尊敬する人の言葉は、そのまま暗記してしまうもの


――ご自著で、「読むだけじゃわからない、書かないと」と言っていますが、わかりやすく説明していただけますでしょうか?


保坂和志氏: 評論家は、「この本は何を言おうとしているのか」とか、「全体として起承転結がどうなっているのか」、などと言いますが、そんなことは関係ないんですよ。1ページ1ページが面白いかどうかなので。だから、読書感想文にしろ、国語の授業にしろ、全部評論家の読み方なんですね。そうじゃない、その1ページ1ページ、1行1行に入っていく、その呼吸の面白さ、転換の面白さを体感するのに、一番の近道は自分で書くことなんですよ。ただ、僕やほかの人が言っていることを読んでいれば、書かなくてもいいんですけど。

――ご著書で、「高校3年生の夏休みに、作家になろうと思った」 と書いていらっしゃいましたね。それはその時期に、何か大きな転機があったのですか?


保坂和志氏: あのね、当時好きになった女の子が、安部公房が面白いって言うので、読んでみたんです、面白いのかなって。まあ、つき合う前にふられたんですけど…。

――それがきっかけだったのですか?


保坂和志氏: 僕が高校のころというのは73年。当時の高校生は、大江健三郎を結構読んでいました。いわゆるエンターテインメント小説というポジションも、今よりも関心が圧倒的に低かったんです。今の純文学というのを普通に高校生が読んでいたから。安部公房、大江健三郎、あと僕は山梨出身なんで、その流れでかなり変わった方向で深沢七郎を好きで読んでいたんですね。主にその3人でしたね。

――その頃から1ページ1ページの読む楽しさを味わいながら読んでいたんでしょうか?


保坂和志氏: 当時は僕も全体を理解しようと思って読んでいた。で、最初にビックリしたのは、大学4年生の時に、田中小実昌さんの『ポロポロ』(河出書房新社)を読んだ時。全体とか全然関係なくて、あれは面白かったですね。

――今でも読み返すことはありますか?


保坂和志氏: あのね、読み返すという少ない感じじゃないんです。田中小実昌の場合は一時期しょっちゅう読んでたんです。いまはカフカとベケット。あと小島信夫。これは読み返すんじゃなくて、年中読んでいる。特別読まなきゃいけない本がないときは、だいたいその3人のうちのどれかを読んでいますね。

――一度読んだ本を、再び開くというのはなぜでしょうか?


保坂和志氏: 小説と思うからいけないんですね。例えばね、過去につき合ったり別れたりした女の子とかが言った言葉とかは何度も繰り返して、「あれ?そうだったのか」と、後になって別の意味に気がつくときがあるでしょう。それと同じで、いい小説ほど、フレーズ丸ごと暗記する程読んでいると、その都度意味が変わって聞こえてくる。だから聖書とか仏教の経典というのは、全部お坊さんや神父さんは、丸々暗記しているわけですよ。

――環境や時間の変化によって、同じ言葉でも違った意味に聞こえてくるんですね。


保坂和志氏: そう。お父さんの言葉とか、まあ、若い人は恋人の言葉が一番響くんだろうけど。「そうだったか…、全然ちゃんと聞いてなかったな」とかね。それって言葉を丸々覚えているからそうなるわけで、単なる「意味」として覚えていたらダメですよね。

――つき合った女性からの過去の言葉で、何か具体的なお話を伺えますか?


保坂和志氏: 例えば、「あなたはいつも私の、××××の部分しか関心がないのね」と、単純な意味でとらえたらそれしかない。けれど、もっと、本当は別の言葉があるわけでしょう。それをそのまま覚えておくと、半年後、10年後とかに、「あれ~?」「そうか!」みたいなことになる(笑)。だから尊敬する人の言った言葉とかは、そのまま暗記してしまうものです。小説を丸暗記、なんて考えられないだろうけど、詩なら、ぼくの父親、あなたたちで言えばおじいちゃんの世代までは、丸暗記していたんです。

――それが「普通」であった時代があったんですね。


保坂和志氏: うん、詩って結構ね、僕なんかの世代はしないんだけど、戦争前に生まれている人たちっていうのは、詩は結構みんな丸暗記しているんですよ。『雨ニモマケズ』みたいにね。だからいろいろな意味が何重にも出てくる。小説だって同じことで、きちんと書かれた小説は、丸暗記できないぶん何度も読むわけです。何度も読んで、読むたびに、「ああ、こういうことを言っていたのね」って。ここで場面が切り替わる呼吸ね、というのを毎回感じるんです。

カリスマ書店員の存在


――保坂さんは月にどれぐらい、本を読まれていますか?


保坂和志氏: 今はほとんど読んでいないですね。通して読むのなんて、月に2冊とかそんなものです。だいたい読みかけてやめちゃうので。

――本を買われるときは、普通に書店へ出向くのでしょうか?


保坂和志氏: 今、ほとんどAmazonですよ。配送料もタダだしね。リアルな書店に行くと、くだらない本がいっぱい並んでいるでしょう。頭にきてね(笑)。何を買いに来たか忘れちゃうんですよ。なんでこんなものが置いてあるんだよって。今、書店員が「この本」ってお薦めするでしょう。書店員がそういうことをするようになったのは、ここ10年ちょっとのことです。それまではね、評論家、次に編集者、それで書店員が薦めた。だんだんハードルが低くなっているわけ。なぜ今、書店員のお薦めが中心になったかと言うと、少し前に「カリスマ書店員」がいたからなんですよ。

――カリスマ書店員とはどういう方ですか?


保坂和志氏: 津田沼にあるBOOKS昭和堂 って書店の木下和郎さんという人ね。その人が薦めてポップを建てた『白い犬とワルツを』(新潮社)が、大ベストセラーになって、それで書店員という存在がクローズアップされた。その木下さんが2個目に薦めたのが、僕の『プレーンソング』だった。でも、ブレークしなかった(笑)。

――その木下さんという人が、今は普通に見かける「書店員のお勧め」のポップの先駆けだったんですか?


保坂和志氏: あの人がいなかったら、今のようにはならなかった。本のよしあしがわかる人が、書店員にも編集者にも実際に何人かいたけど、今は、本を知らない書店員であっても薦めている。そんなのに全く価値はないんだよ。書店では、ばかみたいに売れる作家がいると、ほかの作家を追い出すんですよ。いい作品が出たとしてもね。それは新しい小説家が出るためには弊害になると思います。

古本屋がやっていくには、独自性がないとダメ


――本を選ぶときは、どのように選びますか?


保坂和志氏: ほかのところから話を聞いたり、ちょっと小耳に挟むでしょ。「何々っていう人がいる」って。そこでまず3冊ぐらい買っちゃう。すると関連書籍が出てくる。それも面白そうだってついでに買っちゃうんです。で、やっぱり買いすぎるから読まない(笑)。本が好きだから、どんなところにいっても古本屋などがあると入っちゃう。

――お住まいの近くに古本屋はありますか?


保坂和志氏: ありますよ。豪徳寺の玄華書房という店ね、そこは美術関係の画集が一番得意なのかな。やっぱり普通の小説とか一般書はたぶんあんまり商売にならないんだね。だんだん画集とか美術関係が多くなってきて、ちょっと渋いのに特化している。あと東松原の愛書館・中川書房というのも、70年代ぐらいの海外小説がいっぱいあったんだけど、それも最近もっと渋いほうにいっちゃって。古本屋がちゃんとやっていくには、独自性を出していかないとダメなんだよね、きっと。差別化をはからないとダメなんだよね。



――チェーン店の古本屋では、基本はマニュアルで、価値や希少性もなしで引き取りますね。


保坂和志氏: 本屋だって骨董屋だって、目が利かなくちゃダメだと思うね。

夫婦そろって片づけられない…


――保坂さんがお仕事をされるとき、昔は喫茶店などを利用していたそうですが、現在のスタイルはどのような感じでしょう?


保坂和志氏: 今は自分の家だけですね。原稿は全部手書きです。

――ワープロを使われることはありますか?


保坂和志氏: 僕ね、ワープロで書いたのは、日本中でも有数に早いんです。ある事情があって。86年くらいに、ワープロをリースで引き取ったことがある。毎月1万5千円を、160万円になるまで払い続けたんです。だから芥川賞をもらった時、まだそのリースを払い続けていた。賞金を全部使っても、リース総額1個分にも足りていなかったですね。

――当時としては大金ですね。どんな事情で高額なリースをされたのでしょうか?


保坂和志氏: 友達と編集プロダクションを作ったんです。そいつが当時、「企画書はワープロじゃなくちゃいけないんだ」と言って、総額160万のワープロをリースしちゃって、その後、そいつがトンズラしたから僕が引き受けるしかなかった(笑)。そのころは、お金がかかったけど、自分で書いた文章が活字になるから、珍しくて新しくて面白かったですね。人にも読ませやすかったし、あれはあれで良かったと思うことにしてます。

――新しもの好きで、すぐに試してみようという好奇心をたくさん持っていたんですね。


保坂和志氏: 前はね。今はもう面倒くさいけど(笑)

――現在、手書きということなんですけれど、仕事場はどんな感じなんですか?


保坂和志氏: ごちゃごちゃです。今の家が今年で13年目なんですけど、5、6年目ぐらいまでは、辛うじて撮影可能だった、今は無理。途中で止まった原稿を全部床に捨てちゃうから。だってそれが一番簡単でしょう。うちは夫婦で片付けられないから、本当に家の中がごちゃごちゃです。

――奥様とケンカになることはないですか?


保坂和志氏: だってそこだけは、共通した欠点だから言い合えない。うちは片づけられないことに、すごい自覚を持っているからね。

――奥さまとはどこで知り合われたのですか?


保坂和志氏: 僕がカルチャーセンターを企画していた時代に受講生として来た。85年からだから、もう27年たちますね。昔さ、『アリーmy love』って、弁護士のドラマがあってね。これがBOOKOFFで、ワンシーズンを二つに割って、4つのDVDセットで950円で売っていた。だからシーズン1と2を買ってきたんだけど、そこでリチャードっていう一番現実主義者のやつが「車なんか20代、30代で買って、それを一生乗れと言われたら絶対に買わないでしょ? なぜ結婚だけは20代、30代でするんだ、結婚という制度に無理があるんだ」って言っていましたね。

――ご自身は、どう思われますか?


保坂和志氏: いや、結婚ってね、長く続くと、恋人とかの関係はないよ。親子と一緒で。昔キリスト教が江戸時代に日本に入ってきたときに、愛という概念がわからなかったんで、“ご大切”と訳したという、そういう感じですね。大切に「ご」をつけて。家族だから大切ですというもの。恋愛とは違いますと、それはみんなそうですね。

圧倒的に抽象的が勝つ、それが小説の良さ


――では最後に、保坂さんにとっての小説とは何でしょうか?


保坂和志氏: 小説の一番大事なところは、「小説とは」とか、「本とは」と、その一言の質問がウソなんだということを考えさせるものなんです。一言で言えるものっていうのは、ウソなんだよ。でもね、やっぱり小説って、表現媒体としてはすごく変で、小説でしかないような媒体なんですよね。映画とか芝居とかにしても、何時間という枠があるんだけど、小説って本当に枠がなくて、異様に長いものもある。だからね、小説以外のことができる人は、小説ができないんですよね。

――多方面で活躍されているマルチなタイプの人は小説家に向いてないということでしょうか?


保坂和志氏: いろいろな有名な人が一時的に小説を書くんだけど、長続きしない。やることが大変で、そんなにもうかるわけじゃないから。糸井重里さんが「小説ってすごく大変だよね。有名になりたいとか金もうけしたいんだったら、もっと別の近道があるのに、小説家になってそれを実現させたいっていうのは、違うと思うんだよね」って言っていた。本当にそうなんだと思います(笑)。

――書きたいから、もしくは書くことしかできないから小説家になるんでしょうか?




保坂和志氏: そう。小説家は小説しか書けない。ほかの記事とかを書ける人は、別に小説なんか書かなくていいんですよね。本の中で小説って特殊なものなんだと思います。だから本当に残念なのは、世の中でたくさんの名人とか有名な人がいて、それぞれの世界ですごく深いところまで行っている人がいるんだけど、小説がわかる人は皆無と言っていい。みんな小説だけはすごく薄っぺらい表面なところで終わっている。辛うじて、美術家の横尾忠則さんだけが、今そういうところに関心を持ってくれていると思います。

――小説を考えるときに、まずどういう風に読者に伝えるか、ということを一番に考えると、何かの対談でおっしゃっていましたが、それは電子書籍というものが、今までと違う何らかの具体性を持っていても、変わることがないと思われますか?


保坂和志氏: 変わらない。それは、マルセル・プルーストの「失われた時を求めて」の本を例にして答えますが、ゲルマント公爵夫人が、主人公の「私」に向かって、振り返って手を振ってくれる。彼女は社交界の中心にいて圧倒的な美女なんです。それで、その人がオペラ座に入ってきて、主人公はそれを二階席から見ている。ゲルマント公爵夫人がみんなに注目されながら、彼女のために用意された一階の指定席に歩いて行くわけ。で、座る前に彼女が周囲を見渡した時に、ある主人公の「私」に向かって合図を送ってくれる。「あなたがそこにいるのがわかった」って。そのときというのは、本当にうれしい。絶世の美女に「見たわよ」って言われたら、「うぉ~!」って思いますよね。

――はい、もちろん思います。


保坂和志氏: その時、頭の中でハレーションを起こすぐらいに美女の顔がうつる。だけど美女の顔の具体性がない。振り返ったゲルマント公爵夫人の顔が具体的に誰だったの?って言われたら誰でもない。圧倒的に抽象的なんですよ。それが小説の良さですよね。だから、その電子書籍という新しい形を、すぐに具体性に置き換えるのは違うでしょ。あるいは音楽でも、「自然が至上のメロディーを奏でた」と書くとするよね。そのときに、今までに自分が経験したようなメロディーのそれよりも、何段階か上のものが聞こえたような気がするんだよ、言葉では。それが電子書籍で音とか映像が出てくると、それを具体性にしちゃうからそこで止まる。それがゲルマント公爵夫人の、そのシーンが圧倒的に語っているんですよね。だから絶対に勝てない。人間の心の中にある永遠の理想に訴えかけるのは、言葉でできているんだよね。映像とか音とか具体性じゃないんですよね、実はね。

――具体的な説明よりも、心に思い描いた想像や自分が感じたものに勝るものはないということでしょうか?


保坂和志氏: うん。例えば、沢尻エリカは僕も好きだけど、映画のタイトルの「ヘルタースケルター」とかは、その言葉を聞いた瞬間のほうがうれしい。映画そのものを見ちゃうと具体的になりすぎてしまって、何かがっかりしちゃうところがある。聞いた瞬間のうれしいというのが「言葉の小説」なんですね。

(聞き手:沖中幸太郎)

著書一覧『 保坂和志

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