前坂俊之

Profile

1943年、岡山市生。慶應義塾大学経済学部卒、毎日新聞社に入社。京都支局を経て、毎日新聞東京本社調査部、同情報調査部副部長などを歴任。取材テーマは司法犯罪の冤罪から「国家犯罪としての戦争」に移して、「兵は凶器なり」「言論死して国ついに亡ぶ」の2冊を刊行。1993年4月、静岡県立大学国際関係学部教授に就任。ジャーナリズム、メディア、国際コミュニケーション論を担当、2009年3月に退官し名誉教授に。現在は一ジャーナリストにもどり、日本記者クラブを拠点にして、取材と執筆の日々。カヌー、フィッシングや海を年中楽しみながら、「生涯現役」「晩年悠々」「百歳健康学」の創設をめざしてブロガーライフ。

Book Information

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新しい発想で電子書籍の可能性を広げるべき


――そんな中、電子書籍の登場は出版業界のみならず産業界で大きな流れとなっています。電子書籍についてはどのようにご覧になっていますか?


前坂俊之氏: 問題なのは日本の場合、消費者ではなく全部業者サイドの発想で、旧来の大手出版社が自社の持っているものを一時的に電子媒体にしていくというコンセプトでやっていることです。それでは成功するはずがないですよ。そういう物を壊して新しいベンチャーがApple、Google、Facebookのように出てこないといけません。日本の場合、インターネットの世界では新しいものが全然ないでしょう。楽天も古いモデルだし、GREE、モバゲーだって、全く新しいコンセプトで大学ベンチャーなどとして始まったものでもないですしね。

――既存の紙の本をスキャンすることはお考えになったことはありますか?


前坂俊之氏: 私が静岡の大学に行った時、本が10万冊ぐらいあったのですが、静岡の大学側が提供してくれた家の3LDKの6畳間2部屋に本がいっぱいになって、大学の研究室もいっぱいで困って、どうやってスキャンするかという問題を考えたこともあります。しかし、新しい印刷物だとスキャンして読み取ってデジタル化できますが、古い本の場合だと旧漢字やふりがながあったりして、なかなか認識率が悪いんですね。イギリスでは電子出版でシェークスピアの原書をアーカイブ化していて面白いですよ。革表紙の茶色の200年ぐらい前の全集が並んでいて、音声を選択すると、イギリスの老紳士が読み上げて、本をめくっていってくれる。映像的にも白黒の活字ではなくて少し黄ばんだ羊の皮に活字で印刷しているから美術工芸品的に見てもなかなかいい感じです。日本の電子書籍は、美術工芸品的なビジュアルのものはないですね。

――日本で、復刻すると面白い昔の本はありますか?


前坂俊之氏: 日本経済の財産になるような、明治からの経済人の伝記とかはいいですね。いろんな復刻屋さんが出していますが、まだまだ出されていないものがいっぱいあります。私は復刻屋さんと一緒になって、『日本経済人全集』を全100巻でやれといって、30冊を出したのですが、その会社は倒産してしまいました。それから『日本犯罪全集』という古典的な犯罪物もやって、それも20冊ぐらい出したんだけれどその会社も倒産。私の関係した会社は全部倒産しています(笑)。

戦後の「教養主義」の中で知識を追い求めた。


――前坂さんと本との出会いや、本に深くかかわる職業に就いた経緯をお聞きしたいと思います。


前坂俊之氏: 私は1943年、太平洋戦争の2年目に生まれて、2年後に敗戦でした。自宅から100メートルぐらい行った場所に「岡山市公会堂」という鉄筋の素晴らしい建物があって、爆弾で天井にぽっかり穴が空いたのですが、その天井のない公会堂で「青空幼稚園」に行っていました。小学校に行っても、運動場に2メートルぐらいの焼夷弾がまだ刺さっていましたね。子どものころは自宅から200メートルぐらいの旭川というでかい川で魚釣りばかりしていました。子どもはみんな家から帰ったらかばんを投げ出して魚釣りです。トトロの世界と同じで、周りは全部野原だから、カブトムシなんて家にばんばん飛んでくる。川で魚を釣って、しじみをバケツいっぱいに掘って毎日持って帰っていました。そういう中で、小学校3、4年の時に家から50メートルぐらいの場所に貸本屋というものがあって、今の漫画の源流である『少年画報』(少年画報社)とか『冒険王』(秋田書店)という漫画の貸本を毎日通い続けて一生懸命読んでいました。貸本屋兼古本屋でしたから古い本もいっぱいあったし、そこから始まりましたね。

――テレビ放送は、おいくつのころからご覧になっていますか?


前坂俊之氏: テレビは昭和29年くらい、小学校3、4年ごろに広島駅前のバスステーションに白黒の街頭テレビがあって。すごい人だかりで、力道山がシャープ兄弟をぶっ倒すところを見ていました。

――活字の本を読むようになったのはいつごろからでしょうか?


前坂俊之氏: 昭和30年くらい、中学生のころに、おやじが新潮社の『日本文学全集』を全部買って本箱に入れて、「読んでみろ」というから、夏目漱石をはじめ、森鴎外、幸田露伴なんかを読んでいました。おやじに「読んだか」と聞かれるから(笑)。高校では、河出書房版の『世界文学全集』を一通り読めと先生からがんがん言われて、ドストエフスキーなんかを1日30ページから50ページ一生懸命読みましたよ。でも、自分自身の理念は「文武両道」だから、子どものころはチャンバラごっこを隣町のガキ大将としょっちゅうやっていました。けんかに強くなることと本を一生懸命読むことが2大方針でした。野球部にも入ったけど、野球が終わった後は本を一生懸命読んでいましたね。

――本を読む土壌というか、世の中に活字を求める雰囲気があったのでしょうか?


前坂俊之氏: 当時は「教養主義」というのがあって、先生は、とにかく本を読みなさいと言っていました。知識欲というか、色々なことを勉強して知りたいという欲求が世の中に満ちていました。本も少ない時代だから活字に対する飢えがめちゃくちゃあるわけです。そのうえ、戦争があって、どうしてこんなに戦争でみんながいっぱい死んだのかということを知りたいと思っていました。戦時中の新聞は、戦争に関してほとんど報道を禁止されていたので、戦後には「どうしてこうなったのか」を知りたいという知識欲が非常にあったわけです。私の知識欲は、われわれの時代では平均値です。

――慶応大学に進学してからはどのような生活でしたか?


前坂俊之氏: 東京にやってきてからは、新宿の紀伊國屋書店に行って1日1冊岩波新書を立ち読みして速読術をマスターしました。立ち読みなら一銭もいらないから(笑)。それで「読書ノート」というのを毎日書いていました。それから、当時は名画座という100円で2、3本、世界の名画を上映しているところがいっぱいあったんです。今の新宿伊勢丹の前に、日活名画座があって、世界中の名画を全部見てやるぞと思って見ていました。新宿の牛込柳町に住んでいて、当時の慶応は日吉ですから、日吉に行く前に新宿に脱線して「大学なんか行かん」と言っていたら2回落第しましたか(笑)。大学には6年行きましたけれども、その間に本は最低1日1冊、名画は1本と、文武両道だから野球部にも入っていましたが、野球がだめで、「よし今度は1人で勝負してやる」というのでボクシング部へ入って、ボディビルもやって、でもこれも全部だめでした(笑)。

新聞社に所属しながら作家への下地を作った。


――新聞社に入社するきっかけはどのようなことでしたか?


前坂俊之氏: 落第も2回しているし成績も悪くて、作家になりたいという希望もあったので、ちょっと新聞社を受験しようということです。当時の新聞社は、成績は一切関係なくて試験で1発勝負でしたから。あとは、映画の助監督の募集にも応募しました。でも当時、国際放映は不倫ドラマ、いわゆる「よろめきドラマ」ばかりやっている。私は高校生のころから黒澤明や石原裕次郎の活劇が好きで、そういうのばかり見ている人間ですから、「こんなの男のやることじゃねえ」って嫌になって入社して1ヶ月で辞めまして、新聞社しかないというので毎日新聞社に入ったんです。

――毎日新聞社ではどのような仕事をされていましたか?


前坂俊之氏: 調査部というところにいたんです。調査部というのは切り抜き、スクラップをやっているところで、政治家、有名人に関する記事を人物別、項目別に図書館の十進分類法によって切り抜いて、紙にはりつける仕事です。そこを志望して行ったんです。というのは、そこに行けば8時間勤務で朝の10時から6時までの勤務ですから。社会部とか政治部だと、毎日午前1時半が締め切りだから2時に交換室へ行ってほかの新聞に抜かれているかチェックして、抜かれていなければ「じゃあ休もう」、抜かれていると、寝ずにまた取材に駆け回っていました。新聞社に入った目的は「作家にでもなって将来本の100冊でも出したろか」と思ったからなので、20代、30代でそんなことをやっていてもしょうがないと思っていました。

――大阪から東京勤務となり、逗子にお住みになったそうですが、なぜだったのでしょうか?


前坂俊之氏: ガキの時分に魚釣りばっかりやっていましたから、大阪支局で10年ぐらいやって、35歳で東京の調査部に変わった段階で、逗子の海岸まで歩いて10分ぐらいのところに住みました。砂浜は早朝が勝負ですから夏はだいたい4時に行って、2時間で魚の朝食に合わせて7時ごろまで釣って、それから家に帰って魚をさばいて料理して、それからメシを食って、鎌倉で8時半の電車に乗って、東京駅までの1時間で本を1冊読んで会社には10時に着いて原稿を書く、というようにタイムスケジュールを全部決めていました。それから、このころ出版社とパイプを付けたんです。東京には出版社の9割があって、神田の周辺にいっぱい集まっていますから、8時間は会社の仕事をやって、あとはしっかり自分自身の原稿を書いていたんです。

――組織に所属しているときでも、個人としての表現を続けていたのですね。


前坂俊之氏: 人のやらないことをやろうというのがコンセプトでした。人が「右に行け」と言ったら左に行く。左に行ったら何かあるんです。今は外部原稿も上司の了解がないといけないとか言うから、一般社員の場合なかなか難しいんでしょうね。そこまでがんじがらめにするのはおかしいですよね。だから黙ってやったらいいんです(笑)。会社の飼い犬になることはないんだから、うまく利用してやればいい。

著書一覧『 前坂俊之

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