橋場義之

Profile

1947年生まれ。早稲田大学第一政治経済学部卒業後、毎日新聞に入社。東京本社社会部、地方部、西部本社報道部で記者・デスク業務に携わり、1998年4月より4年間、編集委員として同紙メディア面の編集を担当。2002年より上智大学文学部新聞学科教授。日本マス・コミュニケーション学会、情報ネットワーク法学会会員。主な著作に『新版 現場からみた新聞学』(共著、学文社)、『メディア・イノベーションの衝撃―爆発するパーソナル・コンテンツと溶解する新聞型ビジネス』(編著、日本評論社)など、翻訳に『記者クラブ―情報カルテル』(ローリー・A・フリーマン、緑風出版)がある。

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ニュースとは「変化」、ネット時代のジャーナリズムとコミュニケーション



新聞記者から大学教授に。ジャーナリズムについて考え続けてきた橋場義之さん。現代を「答えを見つけようという行為が軽い」時代だと評する橋場さんに、インターネットというメディアの登場で何が変わったのか、ご自身の経験などを踏まえて語っていただきました。

ニュースとは、社会の1つ1つの限界効用的な「変化」


――上智大学でのゼミをお持ちになっておられる先生に、学生に対する教育面、それと執筆のお仕事の両面から近況をお聞かせいただけますか。


橋場義之氏: 毎日新聞から上智大学に来て今年で10年目なんです。私のキャリアを生かして、基本的にはジャーナリズムについて教えています。授業の名前で言うと、「ジャーナリズム論」と、メディアとしての「新聞論」、もう1つが「時事問題研究」といってニュースを学生たちに理解させるものですね。

今年度の前期は、理工系の学生を対象に「メディア情報論」も単発ですが初めてやりました。これはジャーナリズムからもう少しウイングを広げて、メディアの発達とコミュニケーションの変化とをリンクさせ、人類史の中で人間が開発するメディアと、それに伴って社会のコミュニケーションがどう変化したか、そしてその中におけるジャーナリズムを考える授業でした。

――理工系とメディア、それはどういう結びつきがあるのですか?


橋場義之氏: はやり言葉で言うと「文理融合」ですね。文系と理系の知識を融合させていこうという一環です。理工系でもコンピューターを専門にやっている工学系の学生はコンピューターの中でのコミュニケーションや情報の流通を学んでいますが、それをもう少し人間の活動、人間のコミュニケーションとしてとらえ直す、あるいは位置づけるという、少し幅を広げてモノを見るためのものですね。

――それは大学としての取り組みなのですか。


橋場義之氏: そうですね。特に日本では医学の世界で早くから取り組まれてきたものです。医者が医学の勉強ばかりやっていると、どうしても患者さんとのコミュニケーションもうまくいかない。治療にも影響が出てくるので、20年くらい前から文系の人間をお医者さんとして育成しようという流れがあって、理系の世界ではこの文理融合によって知識や体験を統合する流れがずっと続いてきていますね。

――その中で教鞭を執られる先生の立場として、文系ではない学生に教えるコツのようなものはありますか?


橋場義之氏: 僕自身がどちらかというと文系的というより理系的だと自分では思っているんですよ(笑)。振り返ってみると、ジャーナリズムというまさに文系の世界で人間の心、活動を理解するのも、そして大学という研究教育の世界に入ってきても、意外と数学や理系の概念を使っているんですね。

――それはいわゆる系統立てて、順序立ててということではなく?




橋場義之氏: そういうことではなくて、社会的な現象を理系の概念で捉えてみるということ。その方が案外理解しやすいことがあるんです。例えば数学に微分積分という概念がありますよね。経済学ではもう使われていますが、微分を応用して「モノ」の消費の増加とその一単位ごとの満足度=経済効果=を表す「限界効用」という考え方があります。僕は、社会の変化もそうしたとらえ方で表すことができ、それが「ニュース」だといって理解させるんです。

ニュースというのは、社会の1つ1つの限界効用的な変化。誰にとってのニュースかという視点ではいろいろありますが、「過去」と「現在」、「前」と「今」が違ったということ、つまりは時間による変化です。横軸に時間、縦軸に社会の動きをとってグラフを描けば、「昨日」と「今日」との差を微分したもの=限界効用=、まさにこれが「ニュース」。時間軸の目盛が昨日とか今日という「日」だけでなく、「分」でも「年」でもいい。その間の時間の経過と変化の量があるわけだから、それを表し、伝えればニュースになるんです。

以降の人生で読む本を方向付けた『アウトサイダー』との出会い


――そんな考え方を伺ったのは初めてです。ご自著でもフリーペーパーやネットの台頭で新聞がどうなっていくのか、どうあるべきかにも触れられています。先生は今マスメディアの研究者として活躍されていますが、それがどのように形成されていったか、ご自身の読書体験などうかがえますか。印象深い本を一冊挙げるとすれば?


橋場義之氏: 積極的な読書は大学入学後ですね。僕らの年代は団塊の世代で、進学競争が非常に厳しい世代でした。だからそれまでは受験勉強に役に立つから読んでいたものばかりでした。僕は古典とか特に苦手でしたが、どうせ読むなら文法より中身を理解しようと、対訳本を使って読んだりしていましたね。

橋場義之氏: 大学に入ってもう受験勉強しなくていいなと思っていたら(笑)、出会った本があって、それがコリン・ウィルソンの『アウトサイダー』という本です。まったく偶然の出会いでしたが、アウトサイダーという言葉に目を奪われたんだろうと思います。

これは、1950年代の英国に起ったいわゆる「怒れる若者たち」の時代の作品で、ベストセラーになったものです。僕が読んだのはブームの少し後でしたが、自分が読む本が方向付けられてしまった一作です。

第三者的に言うと、受験勉強でずっと走ってきた若者が、大学に入って気が抜けたのと同時に、受験戦争から解放されたら大きな目標を失ってしまった。そんな宙ぶらりんな精神状態で、これからどこへ自分が向かって行ったらいいのかとか、自分って、人生の目的って何だろう、とか考え始め、ある種のむなしさに取り憑かれていた時に出会ったんです。

この本は、基本的に現代文学の作品を分析する中から、自分をアウトサイダーと感じてしまうのは「時代の病、現代の病」であるという底通したテーマを見出しているのです。自分が社会の当事者になっていない、何か外れている意識があって、そういう意味でその当時の自分にフィットしたんだと思います。哲学的なテーマだからこの本では答えなんか出ていないし、そう簡単に答えが出る話でもない。ただ、手がかりみたいなものはあって、その手がかりを支えに僕は今まで生きてきた、みたいなところがありますね。

この本はそういう現代文学のテーマを分析し、いろいろ解釈しているわけですが、取り上げられた世界の現代文学の作品が「本ではこう書いてあるけど、本当はどうなんだろう、自分で読んでみよう」と思って、そうした作品を能動的に読み始めたのが本格的な読書でした。ドストエフスキーやバーナード・ショー、H・G・ウエルズ、ヘミングウェイ……そういった作家の作品を片っ端から読んだのが学生時代でしたね。

答えを探す行為が軽くなった現代


――本の変化についてはどういう変化を感じていますか?


橋場義之氏: ものすごくざっくりとした傾向で言えば、ハウツーものと新書が増えたと思いますね。本を出版するには卸に出しますが、日本の流通ではそこでお金がまずもらえる、売れるか売れないかはその先の話。でもとりあえず、出せば出すほど運転資金だけは入ってくるから、とにかく出版点数を増やして転がしていく、つまり自転車操業的な経営になりがちなのは僕も新聞社にいたのでよく理解できます。売れないけど、とにかく出版点数を増やして、それも期末にバッと出して運転資金を取り込み、単年度でみれば数字はまあまあ良く見える。借金の先送りですよね(笑)。

――新聞の発行部数も日本では、あるいは世界的に見ると欧米諸国では減少傾向にあると思いますが、新聞を読む行為に読者側の訓練というか知識量、読書量は関係あると思われますか?


橋場義之氏: 関係あると思いますよ。読書量が本当に減っているかどうかは統計によって違うので置いておくとしても、学生たちと接する中で感じるのは、一冊の本として読んでいるのは少ないですね。本を部分的にとらえて、知識のつまみ食いだけしている感じというか。

社会への関心と自分自身との関わり。自分があって、自分がどんな社会に生きているんだろうとか、そういう関心がないと何か本を手にしようとは思わないでしょうし、そういう意味では社会に向けての関心がなくなっているのだろうし、なぜその関心がないのかというと自分への関心、自分を問わないというのか……。

――自分が何者であるか……。


橋場義之氏: 何者であるか良く分からない。もちろんみんな悩んでいる。どうしたら答えが見つけられるのだろうか。僕らの世代は本にその答えを求めたわけです。

今は答えを見つけようという行為が軽くなっている。逆に言うと、何でも手軽に答えが見つかるイメージを持ってしまっている。それはインターネットの登場に依るものが大きい。検索すれば何らかの答えは出てくるけれど、それは手軽な答えではあるけど、本当に自分が求めている答えにはなっていないと思う。答えを探す行為も、それに答えようと発信する側の行為をひっくるめて、知的な作業・行為が軽くなっている。とにかく今目の前にあるものを上手にこなすテクニック、ハウツー物みたいなのが多いのではないかなって。これは自分が歳を取ったからそう言うのかもしれないんだけども(笑)。

ジャーナリズムは「主張」に足る事実を論理的に


――長く新聞に携わってきて、新聞はどう変化したと感じられますか?


橋場義之氏: 読者が簡単に答えを求める傾向があって、何とかそういう答えを見つけて提供しようという風になるのはやむを得ないんだけど、社会そのものが昔と比べて圧倒的に複雑だから、答えなんかなかなか見つからない。世界中の政治家だって悩んじゃっているわけだから、今(笑)。

今、ジャーナリズムで新しく出始めた傾向は「主張」。これまで何十年、あるいは1世紀近く、なるべく客観的に、読者が判断できる材料を提供しようと、「客観」や「中立」を意識して世界中の新聞はやってきました。

しかし物事がこれだけ複雑になると、単に事実を出しただけでは物事の意味が伝わらないし、分からない。だから、十分に証拠を集めなくても安易に断定してしまう傾向になってきた。「こうだ」と。その方が読者に喜ばれる。これは新聞だけじゃなく、政治の世界でもそう。社会が複雑になって解決が難しくなればなるほど「えいやっ」ってやってくれる強いリーダーを求め始めるわけ。世の中の流れとして必然だと思うけど、日本のメディアは過去にそうした経験をし、失敗し、反省をしているのだから、簡単にそういう流れに再び戻ってはいけないとも思う。

だけど社会の流れ、うねりはなかなか抵抗しにくくて、分かりやすく主張してくれるものを読者は求め始めるし、記者自身もそうしたくなってしまう。「これってこうだろ」と短絡的に、あるいは忍耐強さがなくなっているのではないか。そうした気分がだんだん紙面に表れてきているのを少し心配しています。

議論もすごくアバウトになってきている。批判するにしても、論理的に物事を語っていくとか、緻密に証拠を提示していくとか、そういうような議論の前提となるやり方みたいなものがルーズになってきている。バッサバッサとやり始めたというか(笑)。それはすごく嫌な傾向だと最近思っています。

報道はどこへ行く


――そういった混沌とした世の流れの中で、ジャーナリズム、報道に携わるメディアとして新聞の果たすべき役割はどういうところにあると思われますか?


橋場義之氏: きちんと取材をして証拠となる事実を集めること、それから論理的であること。例えば、オスプレイの配置問題。政府がやったことは、安全だから配置してもいいでしょという論理。その安全性を「独自で確かめます」と日本は米国に行って調べてきた。それで「調べてきた結果安全でした、だから沖縄さん受け入れてね」とやっているわけでしょ、こんなのはもともと論理矛盾です。独自に日本が調べると言っているけれど、本当に自分たちが必要とするものを米国が全部提供してくれますかといったら、出してくれるわけないでしょ?

「独自性」と言うのなら、どこが独自かをジャーナリズムは追求し、チェックしなければだめなんです。チェックということは事実を取材する、どんなことがあったかを掘り出してくるということ。

「機体の性能に不備はなかった、だから安全」というのもおかしい。動かすのは人間なんだし、人間はミスを起こす。不可抗力的に起きるミスとか、ある特定の条件ではミスが起きやすいとか、ミスにはいろんなタイプがある。だから機体だけを調べたってだめ、ということは論理的に考えれば分かる話。だからメディアは、政府にそういう論理に応える調査をさせないといけない。じゃないと沖縄が納得するわけがないじゃないですか。

――それができていない?


橋場義之氏: そういう取材をして、それを政府に突きつけるような記事はどこを見てもない。そういうのが、今のジャーナリズムの弱いところ。あまり僕も偉そうなことは言えないけれど、記者としてはそんなに優秀じゃなかったからね(笑)。

TPPもそう。あれも交渉参加に反対か賛成か極端に分かれているでしょ。でもTPPって日本以外で今どういう調整をやっているのか全然分からないでしょ? だから、入るのと入らないのとどう違うのかもよく分からない。関税100%撤廃が原則と言っているけれど例外はないの? とか、日本が入る前に既にもう何年もTPPをやってきた国々の中で原則100%は徹底しているかといえば、そんなことないですよ。原則じゃないものがいっぱいあります。その例外を作らせるのが交渉なんじゃないの?

――そういった現状も見えないし、見せようとしてくれないと。




橋場義之氏: 交渉は妥協を探ることでもあるから、0か100か、あるいはプラスかマイナスかではない。間(あいだ)を探るわけですから。その間を探るには、今までのTPPの歴史ではどういう妥協があり得たのかも参考になる。米国が「そんなものはあり得ない」なんて言っても、交渉だから最初に強く言うのは当たり前。目に見える今の情報だけではなく、例えば過去はどうだったか、そういう歴史的な視点でほかと比較してみるとか、ジャーナリズムはそういう情報をいっぱい提供しなくてはいけない。それができていない。

政府提供の情報におんぶにだっこして、提供されてくるものを右から左へ移す「発表ジャーナリズム」ではだめですよ。これで十分かどうかをまずチェックしてみる。それをトータルで見た上で、自分のスタンスを決めて評価してみんなに伝えることをもっと意識しないとだめだと思う。

アナログ派だ、何派だという言い方で電子書籍を否定したくない


――新聞における現状とあり方をお聞きしましたが、少し話を変えて電子の世界の質問も。いわゆる本屋さんにふらっと出かけることは今でもありますか?


橋場義之氏: 正直言って最近は少ないです。忙しいのと、今はネットで本を探したり注文したりすることが圧倒的に多くなってしまったから。Amazonとかネットで探すのが便利になったから、タイトルが事前に分かっていて買うスタイルが仕事上多くなりました。

大学にも本屋さんは入っているけど、本屋さんに行くのは「何か面白い本はないかな」と、出会いを求めて行くわけで。そういう意味で出会いを求める余裕がなくなってしまいましたね(笑)。

――基本的には紙の本ですか。


橋場義之氏: そうですね。僕はまだ電子書籍を体験していないです。僕も歳だからどちらかといえばアナログ派。やっぱり本は紙で読みたい。書き込んだりもしますしね。電子書籍もそうしたことができないわけじゃないけど、まだまだ使い勝手は悪いと言われているので、もうちょっと使い勝手が良くなってからですかね。

電子書籍は目が疲れるのが問題。歳を取って目が疲れるのが一番大きい。「ペーパーの電子化」という意味では、まだまだ技術的に紙に追いついていない。それはもっと改善されてほしい。

――まさしく過渡期というかまだまだ不十分な部分ですが、伸びしろにもなりそうですよね。紙の本の良さをさらに考えてみるとどうでしょうか。


橋場義之氏: 手触りとか、表紙も。日本は特に装丁にもこだわりますよね。米国の本なんてペーパーバックは安っぽいし、紙も悪い。ハードカバーは分厚すぎて表紙もおざなり。日本の装丁に対するこだわりや作り方、紙。楽しいよね。これは文化だと思う。



ただこういうのには慣れもあるから、もし紙の本がまったくない世代が生まれ始めたら分からないよね。例えば、どれだけ彼らがこういう物を見たときにこだわれるか。電子書籍だって表紙にこだわろうと思えばこだわれるじゃないですか。 そういうデザインの専門家が出てくればもっと楽しいものが生まれくるかもしれないですね。読んでいて言葉が分からないときに、Wikipediaにすぐ飛べるとか、あるいは国語辞典を表示するとか、そういうハーパーリンクはネットの優れているところですから。

――では、可能性としての電子書籍は――。


橋場義之氏: すごくあると思う。1冊の本を読んでいたって、例えば引用があったらその原典に飛んで、それを読み始めたりとかできるじゃないですか。バッグに本を2冊も3冊も入れて持って歩くのは大変だけど、電子書籍ならリーダー1つで済む。ネットってやっぱりメディアとしてはすごいんですよ。だから僕はアナログ派だ、何派だという言い方で否定はしたくないですね。もっと積極的に使っていった方がいいと思う。

だけど、ただ礼賛するだけでも困る。いまは進化の途中なのだから。誰もが使える使い勝手のよさとか、経済的にも安いとかいった「条件」がどこまで整うのか、今どの辺にいるのか、そんなことを常に見ている必要があると思います。

メディアの変化はコミュニケーションの仕方も変える


――電子の世界を書籍の領域からお聞きしましたが、新聞における電子媒体の役割、可能性もお聞きできればと。例えば日経の電子版などもありますよね。


橋場義之氏: 米国では、もうネットにシフトせざるを得ない状況になっています。紙の売れ行きが日本と比べて急激に減って営業収入的には頼りにならなくなってきている。だからネットに切り替えているんですが、ネットの方も大した収入源にはなってない。だけどとにかくシフトするしかないので米国ではいろいろな挑戦をしています。

米国の場合は新聞社が株式を公開しているから、非公開の日本の新聞社と比べれば株主の影響、プレッシャーがとても強い。経営者はとにかく自分の経営している期の中でプラスを出さなければならないから、いろんな挑戦、トライアルアンドエラーをしているんです、だから変化が激しい。

しかし日本はそういう環境にない。新聞の販売部数の減り方も、個別配達制度があるし、高齢者の固定読者層が厚いから急激には減っていない。経営的には、単に比較の問題だけども、米国よりは逼迫感がないということで、ネットの技術を新聞社が取り入れるのはまだ補足的な意識が強いんです。

――メインストリームではない。


橋場義之氏: まだメインストリームにはしていない。だけどこれはもっとして行かざるを得ないし、していくべきだと思う。絶対に紙の新聞の購読数は減る。これは不可避だし、今の学生を見ていても、彼らの生活の中に紙の新聞という存在感はどんどん薄くなっている。存在感そのものです。スマホでニュースが読めるんだもん、わざわざ紙を持たないし買わない。紙は別の存在として残すことは必要だけれども、メインはネットです。ネットでニュースを流すしかないと思っています。

ただ難しいのは、ネットによって情報の流れがどのように変化するか、まだはっきりとは見えていないことです。ネットの登場は人間の社会にとって革命的な出来事。人間にとってのメディアの発明という意味で言えば、これまで7、8回革命的な出来事があって、「印刷」という紙媒体で情報を伝えることが直近の革命的な変化でした。ネットの発明はそれを上回る大きな出来事です。今までの歴史もそうですが、メディアが変化することは単に何かが新しくできるようになるだけではなくて、情報の流れを変え、流通の構造を変え、それを使う人間のコミュニケーションの仕方が変わるんです。

今は紙と文字、あるいいは電波と映像や音による旧マスメディアに、新たにネットが加わっていて、そこに生きている人々も、僕らみたいにアナログ派もまだまだいるし、「デジタルネイティブ」と言われる子供たちも混在して育っている。ネットを中心としたコミュニケーションの姿がどうなるかは、まだ全体としては見えてこなくて、情報の流れがどうなるかの基本的なパターンも見えていない。だから、ニュースの伝え方もどう合わせていいのかが分からない。

情報の流れを一日とか半日のサイクルで切って朝刊や夕刊で伝えているのが新聞だけど、それがネットという場での伝え方にフィットしているかどうか。ネットから流れてくる情報に慣れている若い人たちは、もっと早くニュースを、つまり社会の変化を知りたいわけです。そうすると、朝版昼版夕版と一日3回に区切って流す現在の日経のニュースメールのような伝え方は若者にとっては多分かったるい(笑)。

――これまでの新聞の概念が色濃く残っているネットメディアもありますよね。


橋場義之氏: じゃあ、若い人たちはどの程度の時間のサイクルでニュースを知ることができれば十分と感じるのか、つまりニュース需要の側面はまだよく分からないんですよね。いまはたぶん、フェイスブックやツイッターなどのSNSを通じて、フォローしている人たちが随時教えてくれる情報を頼りにしている若い人は多いんじゃないかな。でも、若い世代がニュースに対してどんな需要を持っているのか、情報にアクセスするサイクルがどんなパターンを見せるのか、もう少し様子を見ていないと分からないかなという感じはします。だからこそ、日本の新聞社はもっと試行錯誤してほしいんです。

コミュニケーションの変化に応じたジャーナリズムの伝え方を探求したい


――先生は今年の3月末で上智大学を定年退職されるそうですが、今後ジャーナリズムについてどのように取り組まれていきたいか、また、若い人たちにどんなことを望まれるかをお伺いできればと思いますが。


橋場義之氏: 時間の余裕もできるし、大学人としての枠もはずれるので、これからはもっと自由に、積極的に発信していきたいと思っています。とくにネット上でね。僕は、ネット時代のジャーナリズムについて古い世代の中では比較的関心を持ってやってきた人間の一人だと思うんです。これから何ができるかなと考えると、ネットの世界でもたらされるコミュニケーションの変化に応じて、どういうニュースの伝え方がいいのかを探求したいですね。それと、「マスゴミ」と批判されているいまのジャーナリズムの質をどうしたらアップして、もっと信頼されるようにできるかも具体的に考えないといけないと思っています。

これからネット利用のメディアツールは次々に新しいものが出てくると思うんです。若い人たちはそれらにあっという間に適応していくでしょうが、情報があふれる中でコミュニケーションの形が劇的に変わりつつある時代に自分たちが生きているということをしっかりと自覚してほしいですね。技術の目先の変化に惑わされず、何が大事なことなのか、本質は何かを忘れないようにしてほしいと思いますね。

――最後の質問ですが、今後の執筆のご予定とか今何か進んでいるものとかは。


橋場義之氏: 今は別の大学の先生と二人で翻訳を進めているものがあります。ネット時代になったときにジャーナリズムはどう変わっていくか、ジャーナリストだけではなく読者、視聴者もどういうことをがめられるのかを米国の研究者が書いたものです。

これは二人著者がいるのですが、ジャーナリズムの経験者でなおかつ研究していて非常に信頼の置ける著者です。彼らが前に書いた『ジャーナリズムの原則』は、教科書としても非常にいい本です。今度の本は、ネットのことをもっと意識して書かれた本なので、少なくともジャーナリズムに関しては、ネット時代に入ってしまった僕らが何を考えなければいけないのかが良く分かる本だと思って翻訳しているんです。



英語のタイトルは『Blur』、Blurは『ぼんやり』という意味。ネット時代になって情報があふれ、何が真実かぼんやり、あいまいになっちゃった。そういう時に真実を探すにはどんなことを考えなくてはいけないのか、特にニュース、つまり社会変化を通して、社会の何が本当の姿なのかを探るにはどうしたらいいか。それも、ネット時代では特にニュースを受け取る側の人たちも一緒に考えないといけない、ということ。これはいい本だと思うので、ぜひ早く出したいと思っています。

(聞き手:沖中幸太郎)

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この著者のタグ: 『大学教授』 『コミュニケーション』 『インターネット』 『新聞』 『メディア』 『ジャーナリズム』 『ニュース』 『独自』

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