自分を鍛える「読書会」のすすめ
――今の若い人たちにどういった読書生活をすすめていますか?
竹田青嗣氏: 大学生なら小説でもなんでもいいから、とにかく本を読んでみんなと批評をするのが大事です。昔は隠れていつの間にか読んで、「そんなものはとっくに読んでるぞ」という感じがあったけど、いまはそういうモチベーションは落ちているのだから、とにかく志があれば、友だちを誘って読書会をやることです。それで相互批評をやる。そんなことは意識的にやらないと、大学生活はいつのまにかあっというまに終わってしまいます。気の合う友だちをみつけたら、すぐ誘って読書会をやるといい。批評しあうことが大事なんです。批評会をやると、はじめは誰も難しそうなこと、カッコいいことを言おうとする。文法とレトリックの練習になるかも知れないけど、無用な衒学趣味を育てるだけです。
大事な心得は、自分がその作品から受けた感じ、その力、おもしろかった、面白くなかった、よかった、よくなかったを、できるだけ相手に伝わる言葉で表現するようにこころがけることです。作品の良し悪しを判定するのが、批評ではない。それぞれの人間が自分の感受性を交換しあうこと、そのことで、自分の感受性の形をはじめて理解できること、それから、またそのことを通して自分の感受性を鍛えることでできるということ。それが批評のテーブルのいちばん大事な点です。
大学生になると、成績競争もいじめもようやく相対化されて、おしゃべりというものにフェアな条件ができてくる。自分はこう思う、という主題化の提示と主張があり、それに対する批判と批評があり、またそれに対する正当化と抗弁がある。それがほぼ対等の条件でできるというのが、大事なところです。そもそもフェアな友人関係というものは、そういうことを含んでいる。そういう機会をもたないで大学を過ごしたら、高校生がそのままでかくなって社会にでるだけで、何も新しい重要な契機をつかめないで終わってしまう。大学に入るころまでにようやく自分の中にいろんな言葉がたまり、難しい言葉を理解する力も作られてくる。はじめて自分というものを了解する能力と機会の条件がそろう。人間というのは誰でもそれまでの成育の中で、半分は親のルールを受け取り、半分は一般社会のルールを受け取ってきた。そのルールというのは、身体化された価値観や感受性になっている。それをもういちど理解しなおすのが、大学生のというか、青年期の大事な課題です。一般教養を身につけるということの大きな意味はそこにある。作品を批評しあうことは、まずみんな感受性も美意識も違うということ、そしてそこには理由がある、ということを理解しあうことです。
作品はわれわれの感受性や美意識を暴露する。それを普通は誰でもいつのまにか絶対化している。そうではなくて、それをしっかり交換しあえる能力がなにより重要なので、だから本を読んだり、批評しあったりすることが必要なんです。
―― 一人だけだと自分の考えに凝り固まってしまうということでしょうか?
竹田青嗣氏: 私はそれを、「直感補強」とか「信念補強」というんですが、たくさん本を読むと、自分のはじめの直感を、あれこれいって傍証することは上手になる。自分の考えが正しいその証拠を沢山だせるからです。しかし、それは結局自分の直感や信念を膨張させて大きく見ているだけで、自分の思考法を鍛えていくことはできない。また自分の感受性を刷新していくこともできません。あることがらを考えるのに、たくさん本を読んで傍証を積み上げているというのは誰もがしてしまう方法です。しかし相手も同じようにやるから、ここにはなんの進歩もない。アメリカ仕込みの弁論術などというのは、まさしくそういう、よい思考法をやめて言い負かしの術だけ身につける方法ですね。哲学の方法はむしろ自分の信念を検証する方法です。自分の主張がいかに正しいかを証明する方法ではなくて、自分はなぜそれを正しいと考えるかを内的に検証していく方法なんです。
―― 一方で、読書は個人的な体験であるという考え方もあります。
竹田青嗣氏: 能力のある人は、本というものは自分一人で読むものだというかも知れない。私も長いこと一人で読んでいたので、その感じは分かる。とくに青年期の孤独な読書体験は、その人間を根本的に変えたりすることもある。でも、私は、読書体験は、人間の関係の中で現われてはじめて意味があるものだといいたい。デカルトとか、カントとか、ニーチェみたいな例もあるければ、そういう人たちを基準にしないほうがいい。本は読むべし、心に感じたことを表現すべしです。よい口とよい耳をもつこと。自分の感覚を率直に表現できる能力、相手のいいたいことを柔軟に受け取る能力が、関係の能力として何より大事だけど、それははじめからあるのではなく、育てないといけない。文学もそうだけど、とくに哲学は一人で読むなかれ、と私はよく言ってます。哲学の難解な言葉は、しばしば深遠性のロマンを作り上げてしまう。うんと難しい哲学の理説を読んで少し理解できた気になると、それが深遠な真理のように感じられるものです。必要なのはむしろそのあと、その理説を自分の生活の経験で試すことのほうだけど、深遠のロマンにはまると、それはもうどこまでも不可能になる。
電子書籍は読書の形を変えるか
――その面では、電子書籍はネットにつながる場合があるので、電子の世界において多数の読書会というのもできてくると思いますか?
竹田青嗣氏: そういう場が新しい形でできると面白いでしょうね。いま時代は新しい時代への過渡期です。近代社会の進み行きが資本主義の矛盾をうみ、その大きな批判としてマルクス主義があらわれ、そのまた批判としてポストモダン思想が登場し、紆余曲折をへて、いまもういちど世界の進み行きについて根本的に新しく考えなおさないといけない時代だからです。そういうことの主役になるのはいつでも若者です。フランス革命の前夜に、フランスやドイツで読書サロンが大いに流行したといわれていますが、ネット環境が、若者が時代について語りあう場所になる可能性はあるかも知れないですね。最近のイスラム革命は、ヨーロッパの市民革命で一世紀くらいかけて進んだことが、数年の単位で進んだといえるかもしれない。電子書籍がどういう形でそういうことにつながるかはまだよく分かりませんが、新しいネット環境の可能性と表裏一体であることは動かせないでしょうね。
さっき「批評のテーブル」の話をしましたが、これはヘーゲルの「事そのもの」という概念がもとになっています。ヘーゲルは、恐らく大学で、そういう生き生きした作品と批評の表現を経験したにちがいない。さまざまな異なった出自、来歴、感受性、美意識をもった人間が、できるだけフェアな条件で、表現しあい批評しあう。近代は人間の「自由」という理念を育んだ時代ですが、自由とは、何でもできるとか、単に拘束から解放されるということではなく、そういう文化のテーブルがあるところではじめて人間的な自由の本質ということが現われ出る。芸術の秩序とは、そういう表現と批評のゲームの秩序を土台にしている。近代社会は、一面で恣意的な欲望の自由競争というマイナス面をもつけれど、その自由競争は、しかしフェアで自由な文化の表現ゲームが成熟する条件でもある。近代社会はそういう方向へ進んでいく可能性をもっているというのがヘーゲルの考えです。
――「批評のテーブル」を作るために必要なことは何でしょうか?
竹田青嗣氏: 例えば、読書会を組織するには、世話人というか、それを上手に運営する人が必要ですね。私はカルチャーセンターで長く教えていますが、受講生の間で読書会ができて、そうすると何人か世話人ができるわけです。世話人がお互いの相互批評を調停したり、つい主張を言い合うだけということにならないようにする能力をもっていると、そういう会は楽しいし、長続きしますね。
――ところで、ご自身の著書が電子書籍になることについてどう思われますか?紙の本を電子化するには、技術的に本を切ってスキャニングする必要があるのですが、ご自著を裁断されることに対して、特別な感情はありますか?
竹田青嗣氏: 裁断されることがどうというような感情はまったくありません。電子書籍については、私の付き合いのあるいくつかの出版社から、だいぶ前に「電子書籍にしたいけれど」というオファーがこのところよくあります。ただそれがもの書きにとって良いことなのか悪いことなのか、正直言ってまだはっきり分からないところもあって、まあもう少し流れが進んでからという感じです。それでももう何冊か電子化されていますし、全体としてどんどんそういう方向に進んでいくのはもう避けられないことだと思います。
――今後、紙の本は電子書籍に移行していくのでしょうか?また、電子書籍に望むものがあれば教えてください。
竹田青嗣氏: 私は、言語と同じで、変化は避けられないので昔のほうが良かったとかいう考えは持っていませんが、読む人間としては、まだ本のほうが便利だというのはありますね。例えば私のように必ず本にメモをすることが必要で、書いたメモの箇所を探したりするような時には、電子書籍にもチェック機能はありますが、まだそれほど便利ではなくて、紙の書籍がずっと便利ですね。ほかにも紙の書籍の利点はかなりあると思います。改善されるべきは、メモの機能、いまどこを読んでいるのかの感覚、自分のあるメモがどの辺りにあるのか、そういう直観的把握の部分ですね。ただ、そういうことが少しずつクリアされていくとメリットも多くあるので、いずれ電子書籍が一般的になっていくんだと思います。ともあれ、現代の若者が、本を読まなくなっている傾向があるとすれば、電子書籍はいろいろ工夫をこらして、そこを補っていく役割をもっているのではないでしょうか。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 竹田青嗣 』