本物の読書は「批評のテーブル」で鍛え上げられる
哲学者として多数の著書を持ち、現在は自身の「主著」となる本を構想中の竹田青嗣さん。実は、哲学を「とことんやろう」と志したのは45歳の時。そして、哲学に開眼したきっかけは、30歳の時に出会いった1冊の本でした。竹田さんから、新著の構想や、時人生を変えてしまう読書という営みの可能性、また、自分の認識を高める読書の仕方などについてお伺いしました。
フッサールとハイデガーの「次」へ
――新著を執筆されていると伺いました。
竹田青嗣氏: いま主著となる哲学書を書いています。『欲望論』というのですが、はじめに構想したのは、もう40年くらい前ですが(笑)。そろそろ書かないとどうなるかわからないので、いま集中して書いています。
――どのような内容ですか?
竹田青嗣氏: 「欲望」といっても怪しいものではなくて(笑)、哲学の原理論です。哲学というのは、世界認識について、どういう発想を基本原理に据えて世界を説明するかという「言語ゲーム」になっています。中世では「神」の存在ということが中心の原理だったけれど、近代では合理的理性ですべてを考えなおす、という原理になりました。近代哲学は、正しい推論と普遍化という理性の能力だけで、いかに正しく世界を認識できるかとか、人間の倫理の本質は何であるかとか、万人が自由である社会はどういう原理で可能なのかというようなことを考えてきたわけです。私が考えているのは、「実存論哲学」が中心で、「欲望」というキーワードを置いて、人間の実存と人間関係の原理を置き直すという試みです。人間の欲望がどういう本質を持っているのか、そこで人間関係はどういう本質になるのか、ということを、なるべく基礎から考えるということです。実存論哲学は、キルケゴール、ニーチェ、フッサール、ハイデガー、サルトル、レビナスという人が中心の系譜ですが、そのあとを展開したいという構想なんです。とくにフッサール、ハイデガーの先に、という感じです。
――フッサールとハイデガーの次というと、先生の待ちに待ったものという感じですか?
竹田青嗣氏: 現代哲学は、ニーチェを入れて、この三人が哲学の原理という観点から、いちばん先まで進んでいるというのが私の考えです。その後は、ちょっとずれてしまっている。どんな風にかというと、思考が考え方の原理からはずれて、敵とする考えを批判するために、可能などんな論理をも使って進む。一方でどんどん難解になっていくのだけれど、原理的な思考からは離れていく。昔の形而上学なスコラ哲学と似てきたと思います。現代思想、特にポストモダン思想というのは現代社会への批判という点ではたいへん重要な役割を果たしたけれど、実存論のような哲学の原理論では、新しい考えをまったく出せなかった。その進み方が哲学の本質からだいぶずれてしまったので、なんとか元に戻したいというのが、いま考えていることです。
――出版はいつごろのご予定ですか?
竹田青嗣氏: この4月までサバティカルをもらっているので、それまでにはなんとか草稿は仕上げたいと思っていますが、難航してます。そのあと一年くらいには仕上げたいなと思っていますが。
――普段の執筆はどこでされていますか?
竹田青嗣氏: いまのところは大体自宅です。そのうち必要になれば図書館通いをするかもしれません。私の仕事部屋は、いろんなものが山積みになっていてひどい状態ですが、整理整頓はできないタイプですね。ごくたまに、新しい著作をはじめるとき、一日かけて片づけたりすることがあるけれど、数日たつとまたもとの黙阿弥にもどってしまいます。仕事部屋も仕事の状態もいまのところひどい混沌ですね。
――本は何冊くらいお持ちですか?
竹田青嗣氏: 数えたことがないので、なんともいないですね。定期的にもう要らないと思った本はどんどん捨てないといけないので、きちんと数えるのも無理です。昔書評委員をやっていたときには、書庫にすぐ本の高層ビルが建っていく状態でした。いまはそれほどでもないけれどけっこう送られてくる本も多いので。大学の研究室があるのでまだいいけれど、よほど広い家でも持っていないと、物書きの人間はけっこう苦労していると思います。
――本は普段どこで購入されていますか?
竹田青嗣氏: たいてい、インターネットの通販です、古本も含めて。昔は、よくカバンをかついで古本屋巡りをやってましたが、時間がかかるので、あれはもうしなくなってしまいました。
希薄化する「全部知りたい」という欲望
――多くのご著書のある竹田先生ですが、昔と今で本に求めるものが変わったと感じられることはありますか?
竹田青嗣氏: 自分も一般向けの入門書を書いてきましたが、ますますやさしくしないと若い人がなかなか読まないという傾向を感じます。私は、哲学の入り口をなるべく広げて、一般の人へとどけたいという気持ちがあって入門書を書いてきましたが、ニーチェブームなどが起こって、とくに出版社から一般人向けにやさしいものを書いてほしいという要請が強くなった気がします。
――読みやすい本しか売れなくなってしまったということでしょうか?
竹田青嗣氏: 自分としては、哲学の間口をなるべく広げたいというのと、読みやすくないと売れないということとは、べつのことだと思います。ただ、はっきりしているのは、われわれが学生のころは難しい本を競って読むという雰囲気がはっきりあった。分からなくても、とにかく読んだらエライ(笑)。誰かが、難しそうな本を抱えていたら、自分もそっと読んで、はじめから読んだような顔をする、みたいなね。学生とは本を読む存在だ、というのはそれなりにあったと思います。それは、いまはあるのかな? 昔は文学が大ジャンルだった。詩もけっこう生きていた。みなその世界に憧れていた。いまは音楽というか、ミュージックが第一ジャンルかな。あとはゲームとか、ダンスとか、熱中したり憧れたりするものが、大分変わってきた。
――学生が難しい本を読まなくなった理由は何でしょうか?
竹田青嗣氏: われわれのころは、大学に入ると、自分の問題も社会の問題も、世界の一番進んだところにどういう理論があるのか、何がいわれているのかというのを全部知りたいというのがあった。とにかく、いちばん抽象的で、いちばん難解なものを読んで、いわばいちばん高いところから世界を見渡したい、という自己意識の感度かな。そういうのがあったと思います。世界思想ですね。それにふれると、それまでもっていた世間のよしあしのルールはいったんすべて白紙撤回される。もし社会や思想の問題に触れたければ、「これが好きだ」ではなくて、「今、第一線ではこういう説がある」というのを全部おさえないといけない。でないと自分の趣味にすぎない。そういう感覚があった。ただ、昔はそれは、マルクス主義がほとんど全部引き受けていたので、ある意味シンプルだったとも言えます。いまはもっと混乱して、何が最先端なのか、何が世界思想なのか、よく分からない感じですね。それでも、全部知りたいというのは、かなり重要な感度だったように思います。
――「全部知りたい」という感覚はどのような過程で生まれてくるのでしょうか?
竹田青嗣氏: われわれのころには、政治セクト(主張を同じくする集団)というのがあって、朝大学に行くと、いろんなセクトの学生が、色の違ったヘルメットをかぶって、それぞれ自分たちの主張を書いてビラを配っている。感じやすい人は、そのなかのどこかのセクトに入ってしまう。するともうセクトの主張でいっぱいになる。ちょうどマジメな青年がオウム真理教に入ってしまったというのと似ている。そこで、はじめて世界の真理に出合った、と思ってしまう。はじめに、親や学校から受け取って自然な世界像が一枚目だとすると、これは二枚目の世界像ですね。いままで考えはすべて間違っていた、ということになる。それまでの自然な世界像や人間観に対抗するものとして「世界思想」があった。ただし、そこからまたもう一つ課題が出てくる。はじめは新しい「世界思想」に熱中してがんばっている。
だけど、そこでまたいろんな矛盾にぶつかると、ようやく「この考えは絶対だろうか」と感じて、さらに、この世界にどういう考えがあるのかすべて知らなければ、もう一歩も先に進めないという感度がでてくる。そうなるとなかなかたいへんです。学生時代に、文学を読んだり思想を読んだりするのは、結局のところ、自分の生き方のモラルを形成していくことにつながるのだけど、われわれの場合、はじめはマルクス主義が全盛で新しい生き方を支えたんだけど、すぐに問題も見えてきた。すると、ようやくいろんなマルクス主義解釈があり、またマルクス主義に対して批判的な考えもあることが段々見えてくる。そうなると、もう全部知らないとどこにも出て行けないという直観がやってくる。
45歳「哲学でとことんやろう」
――竹田先生の読書体験についてもう少し詳しく伺います。影響を受けた本を1冊挙げるとすると、何でしょうか。
竹田青嗣氏: これは何度か言ってますが、一番影響を受けたのはフッサールの『現象学の理念』(みすず書房)という本です。さっきいいましたが、私の場合はじめマルクス主義から入ったけれど、学生を卒業するころからいろいろ矛盾が出てきた。1つは「社会」とか「革命」に対して自分がどういう態度を取るべきか、もう1つは、私は在日韓国人ですが、当時、在日の世界では、朝鮮民族の一員として生きるべきか、否か、というような問題が大問題としてあった。その二つの問題が自分の中でからみあって、大変悩んだ。典型的なアイデンティティの不定ですね。それで進むべき未知も見えず、ずっとフリーターで暮らしていた。そういうときに、30才くらいですが、フッサールの『現象学の理念』に出合いました。私の場合は、そこに自分が悩んでいた問題の原理的な解決法が書かれていた、という感じです。それが私にとっては哲学の世界の入り口になりました。
――それまでに読んだ哲学書からは得られないものがあったのでしょうか?
竹田青嗣氏: 学生時代から哲学書はすこしずつ読んでいたけれど、正直いって、ほとんど分からなかった。サルトル、カント、キルケゴール、ヘーゲルとかを読んでは見たが、結局ほとんど分からなかった。マルクスは結構わかりやすいんですけども、ほかのものはもうお手上げです。ほかの人も同じ状態だったと思います。みな、解説本を読んで、自分はよく分かっている、みたいな顔をしていただけですね。私もそうで、結局哲学には縁がないように思っていました。それが、「この著者のいおうとしている核心がつかめたぞ」と思った初めての哲学書が『現象学の理念』だったんです。
それから、現象学の核心が理解できたら、近代哲学がどんどん読めるようになった。それにはちゃんと理由があるんです。現象学のいちばん大きな主題は、「認識問題」の解明ということです。つまり主観‐客観問題の解明です。主観は客観に一致しない。これはデカルト以来、ヨーロッパ哲学の認識問題の最大の謎だったけれど、フッサールの現象学だけがこれを見事に解明していた。すると、近代哲学はどれもこの問題をいちばん中心に抱えて格闘しながら進んできたので、いわば最後の答えからそれまでの問題のプロセスを読むようなもので、いろんな哲学者が、どこで、どの問題にぶつかっているのか、たいへんよく分かるんですね。この認識問題については、現代思想でもやはり格闘中で答えは出ていない。それは主に言語哲学の形をとっているけれど内実は同じです。ただ、驚いたのは現象学の方法の核心は現代思想では完全に誤解されていて、現象学が認識問題を解明しているとは誰も考えていなかった、ということです。そういうことも含めて、現象学との出会いは大きかった。
――哲学を志すきっかけとなった1冊になったんですね。
竹田青嗣氏: 「あなたはどうして哲学者になったんですか」と時々聞かれるんですが、私の場合は、大学院で哲学を勉強して、というふつうのコースとはちがって、はじめはさっきいったように、あれこれ思い悩んで、34、5までフリーターをしながらいろんな考え方を探していたんですが、とにかく哲学は難関で、30頃までは、むしろ文学や批評関係をよく読んでいた。はじめに物書きとして仕事をしはじめたのは文芸評論です。そのあとだんだん哲学が自分の中で大きくなってきたんですね。
いま思うと大きいのは、現象学に出合って、これだ、ということがあったあと、いろいろ読んでみると、現象学はむしろ現代思想では非常に強く批判されているんですね。そのあと日本にポストモダン思想が入ってきますが、ポストモダン思想は、レヴィ=ストロースにせよ、デリダにせよ、フッサールから方法を受け取ったサルトル、メルロー=ポンティというフランス現象学批判によって登場してきたという経緯があります。現象学は、真理を志す形而上学だ、ということになっている。日本の現象学者も、フッサールの方法に対して、意識至上主義なので限界がある、みたいなスタンスになっている。しかし、そういうフッサール批判は、私がうけとった現象学の核心とはまったく違うんですね。そこからまたやっかいな悩みが始まった。これをどう考えればいいのかと。
なにせ、現象学はドカンと当たったんだけど、べつに哲学をとことんやりたかったわけじゃない。むしろそのときは、文学批評のほうにひかれていた。どこまで哲学につっこむべきか、とても迷いました。大きかったのは何人か「君の考えでいいんじゃないか」という人達が現れてきたことですね。このとき、いま東京医科大で哲学を教えている西研に出合いました。そのときは二人ともほぼフリーター状態でしたが。彼との出会いが非常に大きかった。彼は東大の研究生で、ヘーゲルをやっていたんです。私はフッサール。交流するうちに私は彼からヘーゲルの面白さを教えられ、彼はフッサールに強く興味をもった。そのあと彼とは、哲学の僚友になりました。
われわれは30年以上いっしょに哲学の読書会を続けてきましたが、それがわれわれの哲学の勉強の場所で、われわれには師匠がいないんです。だから私の場合はいわゆる哲学徒としての専門的な訓練はうけていない。そんなことで、私が哲学でとことんやろうと思ったのは45歳のころです。そこまでは文芸批評をずっとやっていたのだけれど、明治学院大学で教え出したころから、二足のわらじでやるのはどっちも中途半端になるなかもしれないと思って、考えた挙げ句、どうせやるなら、なんとか現象学の考えをしっかり建て直したいとい思いで哲学のほうに梶を切ったんですね。
――何事も始めるのに遅いということはないんでしょうね。
竹田青嗣氏: 本当にそう思います。私は30歳になって初めて哲学が少し分かったので、それまでは読んでも読んでもわからなかったし、哲学の勉強をはじめたのも30過ぎてからだ、というと、学生たちは少しほっとするみたいですね(笑)。
「みんなと一緒」なら哲学する必要はない
――先ほどほかの人の現象学の理解が竹田先生と全く異なっていたとおっしゃいましたが、どのように違っていたのでしょうか?
竹田青嗣氏: 今は理解を示してくれる人たちが増えてきたけれど、私の現象学理解は、現代思想の一般的な現象学解釈からも、フッサールの直径の弟子筋にあたる、いわゆる正統的現象学派の現象学解釈からも、大きく違っています。そのことはあとで分かったので、それでずいぶん困ったんですが(笑)。まず、正統現象学派の学者たち、フィンク、ラントグレーべ、ヘルトといった人たちがそうですが、フッサールがそれまでの客観主義の考えをひっくり返したのはえらかったけれど、現象学の探求の本義は、自己や存在の根拠の探求にあって、フッサールのどこまでも「意識」に定位する方法ではどうしても限界がある、というのが彼らの共通の主張です。ポストモダン思想ですが、デリダの批判がその代表で、フッサール現象学は、真理を探求する伝統的形而上学の現代版である、というのです。ドイツとアメリカを代表するハーバーマスやローティも同じですね。現象学の方法は、厳密な認識の基礎づけ主義で、これはたいへん危険である、というものです。どこにも、現象学を擁護する考えはなかった。
ところが私の理解だと、全くの逆さまなんです。伝統的な形而上学、真理主義、客観主義への批判ということが、現代思想の基礎を底流する考えです。反マルクス主義、ヘーゲル主義というのがあるからです。ところが私が読むかぎり、現象学は、二十世紀におけるもう一つの本質的な形而上学批判であり、真理主義批判です。それどころか、現代思想の真理主義批判が論理相対主義という古くからある類型の現代版であるのに対して、現象学の考えは、根本的に新しい独創的なもので、哲学の原理としても、論理相対主義を完全に超えています。私からいうと、すべて「さかしま」になっている。現象学が、形而上学とその対抗の古い類型としての論理相対主義に対する本質的批判になっているのに、現代思想の論理相対主義が、現象学を真理主義として批判しているんです。探偵が泥棒を捕まえたのに、脇で見てた人間が、この探偵が泥棒ですと言い張っている(笑)。なんともいえない状態です。それが一世紀つづいてきた。現象学は、哲学原理としてほんとうに深いのでそのうち必ず再評価され、復活してくると思います。いま大きな混乱の時代なので、必ず本質的な考え方が必要になってくるからです。
――現象学に対する批判が、竹田先生を発奮させた面はありますか?
竹田青嗣氏: その通りで、私がなるほどと思ったその現象学理解が、世の中の一般現象学理解と離れていなければ、哲学に深入りする理由はなかった。文芸批評をやっていたと思いますね。それがあまりにも違っていたのが、運の尽き(笑)といいますか、そこにこだわりつづけたいちばんの理由ですね。
――今の若い人たちは先生にとっての『現象学の理念』のような1冊に出会う機会が乏しいと思いますか?
竹田青嗣氏: 哲学では、カントがルソーを読んでけっして欠かさない日課の散歩をとばしてしまったとか、ニーチェがショーペンハウアーを読んでガーンと来たとか、そういうことはときどきありますね。自分の挫折や悩みが深いことがそういうショックの条件になっている気がします。哲学でなくても、そんなショックをうける体験があったら、じっくり考えてみる理由があると思う。とういうときには、二つ謎があって、なぜこれはこれほどまでに自分にショックを与えるのか、と、なぜ自分はこの作品にこれほどショックを受けるのか。作品の謎と自分の謎ですね。私の場合、陽水の音楽が、はじめのショック。つぎが『現象学の理念』でした。40前後になって『陽水の快楽』と『現象学入門』を書きましたが、両方とも出合ってから10年くらいかかっている。
自分を鍛える「読書会」のすすめ
――今の若い人たちにどういった読書生活をすすめていますか?
竹田青嗣氏: 大学生なら小説でもなんでもいいから、とにかく本を読んでみんなと批評をするのが大事です。昔は隠れていつの間にか読んで、「そんなものはとっくに読んでるぞ」という感じがあったけど、いまはそういうモチベーションは落ちているのだから、とにかく志があれば、友だちを誘って読書会をやることです。それで相互批評をやる。そんなことは意識的にやらないと、大学生活はいつのまにかあっというまに終わってしまいます。気の合う友だちをみつけたら、すぐ誘って読書会をやるといい。批評しあうことが大事なんです。批評会をやると、はじめは誰も難しそうなこと、カッコいいことを言おうとする。文法とレトリックの練習になるかも知れないけど、無用な衒学趣味を育てるだけです。
大事な心得は、自分がその作品から受けた感じ、その力、おもしろかった、面白くなかった、よかった、よくなかったを、できるだけ相手に伝わる言葉で表現するようにこころがけることです。作品の良し悪しを判定するのが、批評ではない。それぞれの人間が自分の感受性を交換しあうこと、そのことで、自分の感受性の形をはじめて理解できること、それから、またそのことを通して自分の感受性を鍛えることでできるということ。それが批評のテーブルのいちばん大事な点です。
大学生になると、成績競争もいじめもようやく相対化されて、おしゃべりというものにフェアな条件ができてくる。自分はこう思う、という主題化の提示と主張があり、それに対する批判と批評があり、またそれに対する正当化と抗弁がある。それがほぼ対等の条件でできるというのが、大事なところです。そもそもフェアな友人関係というものは、そういうことを含んでいる。そういう機会をもたないで大学を過ごしたら、高校生がそのままでかくなって社会にでるだけで、何も新しい重要な契機をつかめないで終わってしまう。大学に入るころまでにようやく自分の中にいろんな言葉がたまり、難しい言葉を理解する力も作られてくる。はじめて自分というものを了解する能力と機会の条件がそろう。人間というのは誰でもそれまでの成育の中で、半分は親のルールを受け取り、半分は一般社会のルールを受け取ってきた。そのルールというのは、身体化された価値観や感受性になっている。それをもういちど理解しなおすのが、大学生のというか、青年期の大事な課題です。一般教養を身につけるということの大きな意味はそこにある。作品を批評しあうことは、まずみんな感受性も美意識も違うということ、そしてそこには理由がある、ということを理解しあうことです。
作品はわれわれの感受性や美意識を暴露する。それを普通は誰でもいつのまにか絶対化している。そうではなくて、それをしっかり交換しあえる能力がなにより重要なので、だから本を読んだり、批評しあったりすることが必要なんです。
―― 一人だけだと自分の考えに凝り固まってしまうということでしょうか?
竹田青嗣氏: 私はそれを、「直感補強」とか「信念補強」というんですが、たくさん本を読むと、自分のはじめの直感を、あれこれいって傍証することは上手になる。自分の考えが正しいその証拠を沢山だせるからです。しかし、それは結局自分の直感や信念を膨張させて大きく見ているだけで、自分の思考法を鍛えていくことはできない。また自分の感受性を刷新していくこともできません。あることがらを考えるのに、たくさん本を読んで傍証を積み上げているというのは誰もがしてしまう方法です。しかし相手も同じようにやるから、ここにはなんの進歩もない。アメリカ仕込みの弁論術などというのは、まさしくそういう、よい思考法をやめて言い負かしの術だけ身につける方法ですね。哲学の方法はむしろ自分の信念を検証する方法です。自分の主張がいかに正しいかを証明する方法ではなくて、自分はなぜそれを正しいと考えるかを内的に検証していく方法なんです。
―― 一方で、読書は個人的な体験であるという考え方もあります。
竹田青嗣氏: 能力のある人は、本というものは自分一人で読むものだというかも知れない。私も長いこと一人で読んでいたので、その感じは分かる。とくに青年期の孤独な読書体験は、その人間を根本的に変えたりすることもある。でも、私は、読書体験は、人間の関係の中で現われてはじめて意味があるものだといいたい。デカルトとか、カントとか、ニーチェみたいな例もあるければ、そういう人たちを基準にしないほうがいい。本は読むべし、心に感じたことを表現すべしです。よい口とよい耳をもつこと。自分の感覚を率直に表現できる能力、相手のいいたいことを柔軟に受け取る能力が、関係の能力として何より大事だけど、それははじめからあるのではなく、育てないといけない。文学もそうだけど、とくに哲学は一人で読むなかれ、と私はよく言ってます。哲学の難解な言葉は、しばしば深遠性のロマンを作り上げてしまう。うんと難しい哲学の理説を読んで少し理解できた気になると、それが深遠な真理のように感じられるものです。必要なのはむしろそのあと、その理説を自分の生活の経験で試すことのほうだけど、深遠のロマンにはまると、それはもうどこまでも不可能になる。
電子書籍は読書の形を変えるか
――その面では、電子書籍はネットにつながる場合があるので、電子の世界において多数の読書会というのもできてくると思いますか?
竹田青嗣氏: そういう場が新しい形でできると面白いでしょうね。いま時代は新しい時代への過渡期です。近代社会の進み行きが資本主義の矛盾をうみ、その大きな批判としてマルクス主義があらわれ、そのまた批判としてポストモダン思想が登場し、紆余曲折をへて、いまもういちど世界の進み行きについて根本的に新しく考えなおさないといけない時代だからです。そういうことの主役になるのはいつでも若者です。フランス革命の前夜に、フランスやドイツで読書サロンが大いに流行したといわれていますが、ネット環境が、若者が時代について語りあう場所になる可能性はあるかも知れないですね。最近のイスラム革命は、ヨーロッパの市民革命で一世紀くらいかけて進んだことが、数年の単位で進んだといえるかもしれない。電子書籍がどういう形でそういうことにつながるかはまだよく分かりませんが、新しいネット環境の可能性と表裏一体であることは動かせないでしょうね。
さっき「批評のテーブル」の話をしましたが、これはヘーゲルの「事そのもの」という概念がもとになっています。ヘーゲルは、恐らく大学で、そういう生き生きした作品と批評の表現を経験したにちがいない。さまざまな異なった出自、来歴、感受性、美意識をもった人間が、できるだけフェアな条件で、表現しあい批評しあう。近代は人間の「自由」という理念を育んだ時代ですが、自由とは、何でもできるとか、単に拘束から解放されるということではなく、そういう文化のテーブルがあるところではじめて人間的な自由の本質ということが現われ出る。芸術の秩序とは、そういう表現と批評のゲームの秩序を土台にしている。近代社会は、一面で恣意的な欲望の自由競争というマイナス面をもつけれど、その自由競争は、しかしフェアで自由な文化の表現ゲームが成熟する条件でもある。近代社会はそういう方向へ進んでいく可能性をもっているというのがヘーゲルの考えです。
――「批評のテーブル」を作るために必要なことは何でしょうか?
竹田青嗣氏: 例えば、読書会を組織するには、世話人というか、それを上手に運営する人が必要ですね。私はカルチャーセンターで長く教えていますが、受講生の間で読書会ができて、そうすると何人か世話人ができるわけです。世話人がお互いの相互批評を調停したり、つい主張を言い合うだけということにならないようにする能力をもっていると、そういう会は楽しいし、長続きしますね。
――ところで、ご自身の著書が電子書籍になることについてどう思われますか?紙の本を電子化するには、技術的に本を切ってスキャニングする必要があるのですが、ご自著を裁断されることに対して、特別な感情はありますか?
竹田青嗣氏: 裁断されることがどうというような感情はまったくありません。電子書籍については、私の付き合いのあるいくつかの出版社から、だいぶ前に「電子書籍にしたいけれど」というオファーがこのところよくあります。ただそれがもの書きにとって良いことなのか悪いことなのか、正直言ってまだはっきり分からないところもあって、まあもう少し流れが進んでからという感じです。それでももう何冊か電子化されていますし、全体としてどんどんそういう方向に進んでいくのはもう避けられないことだと思います。
――今後、紙の本は電子書籍に移行していくのでしょうか?また、電子書籍に望むものがあれば教えてください。
竹田青嗣氏: 私は、言語と同じで、変化は避けられないので昔のほうが良かったとかいう考えは持っていませんが、読む人間としては、まだ本のほうが便利だというのはありますね。例えば私のように必ず本にメモをすることが必要で、書いたメモの箇所を探したりするような時には、電子書籍にもチェック機能はありますが、まだそれほど便利ではなくて、紙の書籍がずっと便利ですね。ほかにも紙の書籍の利点はかなりあると思います。改善されるべきは、メモの機能、いまどこを読んでいるのかの感覚、自分のあるメモがどの辺りにあるのか、そういう直観的把握の部分ですね。ただ、そういうことが少しずつクリアされていくとメリットも多くあるので、いずれ電子書籍が一般的になっていくんだと思います。ともあれ、現代の若者が、本を読まなくなっている傾向があるとすれば、電子書籍はいろいろ工夫をこらして、そこを補っていく役割をもっているのではないでしょうか。
(聞き手:沖中幸太郎)
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