手塚治虫を追いかけ、マクルーハンに捕まった
――大学は京大の工学部電子工学科に進まれましたが、幼少時の原体験であるラジコンや、あるいは「鉄人28号」などの影響もありましたか?
逢沢明氏: 当時、感銘を受けたのは、鉄人28号じゃなくて、手塚治虫さん。鉄腕アトムの世界ですね。僕らの世代は、鉄腕アトムを見てコンピューターとかロボットに進んだ人がすごく多いですね。手塚さんにあこがれたから、子どものころはお医者さんになりたいと思って、手塚さんは阪大の医学部なので、その方向へ行こうと思っていました。手塚さんは、大阪教育大学の附属池田小学校に通っていました。だから手塚さんの後を追いかけるなら教育大附属だと、中学入試に合格しまして、その路線に乗ったんです。で、手塚さんは橋下徹さんと同じ大阪府立北野高等学校に行かれていた。阪急電車が分かれる十三と呼ばれるところにあって、歓楽街とラブホテルの前を通らないと行き着けない学校(笑)なんですが、僕もそこに合格しました。
――医学ではなく工学に路線変更をしたのはどういったきっかけからでしたか?
逢沢明氏: 医学部を目指していたはずなんですけどね。あのころ、マーシャル・マクルーハンのメディア理論がはやったんです。テレビはクールであるとか、ラジオはホットであるなんて言って、クールなメディアがいいんだとか、不思議なこじつけみたいなお話だったんですけど。つまりコンピューター時代、メディアというものが非常に重要になって、これからは情報の時代なんだという風なことを世界に先駆けて言って、体系づけた。日本では紹介者は主に竹村健一さんだったんですけどね。人によってトンデモ本だという見方もあるでしょうけれども、非常に独創的な見方をしておられたんですよね。
その先進性みたいなものに感銘を受けまして、京大の、当時コンピューター系、情報学科はなかったんですが、電子工学科に入学しまして、こちらに振れてしまったということなんです。マクルーハンがなぜブームになったかというと、要するにマスコミ論みたいなものですよね。だからテレビとか新聞とかが、自分たちを称賛してくれるものですから取り上げるわけですよ。それを見て流れてしまったんですね、僕らは(笑)。高校時代にマクルーハンの理論というのが出てこなかったら、医者になっていたと思いますね。
手塚の死で「何かをクリエイトしなければ」と考えた
――大学を卒業されて、そのまま大学院、そして研究者の道に進むわけですね。
逢沢明氏: 入学して2年後に京大に情報工学科というのができたんですよ。で、4年生で卒業研究する時に、コンピューター系を選びまして、大学院入学の時に、情報工学科の建物ができたんです。初代でそこに入りまして、今までずーっとそこにいることになります。
――約40年間、同じ建物にいらっしゃるわけですね?
逢沢明氏: そうなんです。主みたいな存在ですね。
――そして作家デビューされましたね。逢沢明のペンネームで最初に発表されたのが、『コンピューター社会が崩壊する日』(カッパ・サイエンス)でした。どのようなきっかけがあったのでしょうか?
逢沢明氏: 出版されたのが1990年の3月なんですけれど、なぜ書いたかというと、89年に手塚さんが亡くなられたんです。その時、「自分は何をやっているんだろう」と思いましてね。大学で、象牙の塔と言われるようなところでこもっているだけではいけない。やっぱり何かクリエイトして、社会との接点を持っていくべきだなと急に思い立ったんですね。
――人生の重要な決断にはいつも手塚治虫さんが登場してくるわけですね。
逢沢明氏: そういう人って多いと思いますよ、とくに大阪では。子どもの読むものって漫画が多いですけど、手塚さんはストーリーと絵の水準がまるで違いました。神様みたいな存在。しかも大人になってからいろいろな本を読んだけど、手塚スピリットというのかな、あの人を超える存在には出逢わない。ものすごい巨人だなと思って、強い影響を受けたんです。
――出版にこぎつけるために、例えば「持ち込み」などをされたのですか?
逢沢明氏: 若いころにカッパ・ブックスがブームになっていたので、カッパの編集長の新田雅一さんにお電話してみたんです。「書いてみたんですけれども」って(笑)。なかなかそんなんで通らないと思うんですけれども、原稿をご覧いただいたら、「明晰な文章ですね」みたいに言われて、即決で通りました。
――『コンピューター社会が崩壊する日』のテーマや狙いはどういったことでしたか?
逢沢明氏: この先の文明として、メディアなどソフト産業の到来をにらんでいたんです。ところが当時の日本はハードウエア一辺倒の電子立国。日本人は頭も機械もガチガチ。そこに強い危機を感じて執筆したんです。また『コンピューター社会が崩壊する日』を書き上げたのは89年の末で、バブル経済の頂点の時期だった。あの本はバブルの崩壊についても強い警告を書いてあるんです。日本の大転換点を予測したような本でしたね。
――ハードからソフト・情報へのシフト、日本のものづくりの衰退などは、今日的な問題でもありますね。
逢沢明氏: 四半世紀ぐらい前の本ですが、先見性があったみたいですね。科学技術庁などから委員としてひっぱりだこになりましたよ。今、日本のハードウエア系のデバイスとか、デジタル家電はやっていけなくなっています。日本の電子部品はいいと言っているけれど、僕は近年も、あと数年の寿命ですよと言ってきました。部品もよその国が作るようになっていたから、総崩れになるおそれがあると思っていたからです。一方、情報系、メディアの系統。ゲームとかアニメとか音楽とか、日本的なデザインなんかも含め、情報産業の一つとして、もっと発展させていかなければいけない。つまりクールジャパンですね。
大学もそういうことにもっと積極的にかかわらなければいけないんですけれど、京大の情報学にもそういう人は皆無なんですね。クールジャパンに口出しできるためには、やはりクールジャパン系のクリエイターが必要です。ハードは東アジア諸国などにどんどん追い越されていきますので、情報として残っているのは日本的文化的背景で何かクリエイトすること。機械ではなく、情報、コンテンツでどれだけ日本が世界に貢献できるか、世界から受け入れてもらえるかを真剣に考えていきたいですね。