「提案する営業社員」で、コンサルティングに目覚めた
――営業の仕事に異動することについてどう思いましたか?
佐々木直彦氏: いつかやる機会があるといいなとは思っていたけども、なんで今なのか。この異動はどうもおかしいなって思いました。で、行って見たら、担当のお客さんを引き継ぐんだけど、その先輩、七期連続目標数字に行っていないんです。どれだけ効率が悪いお客さんを集められたのかなってわかりましたよ。業績が伸びていないところばかりで、お客さんにそもそも予算がない。これじゃ一生浮かばれないなと思ったので、お客さんに対してトップアプローチをやったんです。トップに「経営をよくするためにはこれです」って提案しようと思って、行っているうちにいくつか決まりました。
――まだ入社間もないころですよね。相手のトップは会ってくれるのですか?
佐々木直彦氏: 行く時にリクルートの偉い人を連れていくんですよ。「またお前と一緒かよ」て言われながら。そうしないと会ってくれないですしね。当時僕のお客さんは学校だったんです。だから学長とか理事長とかにプレゼンするわけです。学生部署にからむ仕事なんだけど、新規事業の提案もしたし、組織改革につながるCIみたいな話も、結構好きだったので勉強しました。偉い人ってね、結論が早いんです。よければ「よしやろう」で、出せるお金があるかないか。ダメだったら理由がよくわからなくてもとにかくダメなんです。非常にさわやかだなと思いました。当然すぐに決まるから結果もすぐ出ますよね。いい結果が出たら、ああよかったとみんなで喜び合える。自分で作った企画を売って、社内だけでできなければ社外からブレーンの人を探して組んでやる。やっているうちに結果も出てきて、明らかにコンサルに目覚めてしまいました。気が付いてみたら、リクルートの抱えている商品を全然売っていない営業マンになっちゃった。これは本当に変な1、2年でしたね。
――お客さまへの提案でよい結果が出たのはなぜだったと思いますか?
佐々木直彦氏: 相手の目線に立って、相手にとっていい状況を作るにはどうしたらいいかと、フラットに考えたことですね。会社をよくするために役に立つことならば聞きたいと思うだろうし、経営者はお金を出すだろうという子どもでもわかる単純な考えでやっていました。企業が大きくなると売るものがあって、お客さんから注文があればそれにしっかりと応えるのが基本なんだけど、それだけで足りないところにニーズがあると思ったら言ってみればいい、ダメだったらしょうがない。お客さんが決める話ですからごり押しする話じゃないけど、お客さんがそれに反応してくれたら、もっと考えればいいということでしかないんです。ただ、これは営業だったからこそできたことですよ。たぶんコンサルファームに入っていたら、そんな下っ端にやらせてくれないですよ。
「今がその時」コンサルファームを決断から3週間で退職、独立
――その後リクルートを退職されてコンサルティングファームにお入りになったんですね。
佐々木直彦氏: コンサルファームというか、産業能率大学っていう大学組織なんですけども、一般企業相手にコンサルをやったり、企業研修をやったりしているところで、自分の分野もそこでいくつか試して作りました。35歳のころですが、当時はバブルがはじけたところなんですよね。教育研修コンサルは、軒並み売り上げが減っていたんです。広告費・教育費の予算が削減されていました。それで、僕のいた産業能率大学も苦しかったんですが、僕は企業は守ってもダメだと思うようになっていました。不況の時はとりあえず痛手を少なくするために守りを固めるんだけども、固めるだけだと浮かび上がれない。僕が新しくやろうとしていたことを聞いてくれるお客さんが増えてきたなという実感もあったので、それなら直接やったほうがいい仕事が来ると思って、やめようと決めてから3週間後に辞めたんです。
――3週間!非常に早い判断ですね。
佐々木直彦氏: コンサルってもともと転職する業界ですからね。たぶんいつか自分はそうなると思っていました。いつにするかは明確に決めていなかったけど、一言で言うと、今がその時っていう感じでしたね。先が完全に見えているわけではなかったけど、ハードボイルドに、きれいに辞めたいっていう美学を追究しちゃいましたね。前のお客さんを持っていったとかも一切ないんですよ。別にそういうことはやってもいいんじゃないかとも思うんだけれども、僕の場合やらなかったんですよね。半年ぐらいしているうちになんとかなるんじゃないかという気はありましたし。
女性金メダリストはなぜ人々の記憶から消えてしまったのか
佐々木直彦氏: 少し話が横道にそれるんですが、ちょうどリクルートを辞める前後にノンフィクションの作品を書いたんです。
――それは興味深いですね。どのような内容のものでしょうか?
佐々木直彦氏: スポーツのテーマでした。当時、日本人女性でオリンピックで金メダルを取った人は非常に限られていたんですね。バレーボールで東京とモントリオール。後は、水泳で1936年のベルリンで平泳ぎの前畑秀子さん。「前畑頑張れ」の人ですね。そして、1972年にミュンヘンで青木まゆみさんがバタフライで取って、それ以来、長崎宏子さんが取るまではなかったんですよ。でも青木まゆみさんが、人々の記憶から消えている。なぜ消えているかっていうことを、青木さんが金メダルを取ってから10年目の、新聞の小さなコラムで知ったんですね。そのコラムには青木さんをからかうような表現もあって、それがひっかかっちゃって、調べ出したらはまっちゃったんです。
国会図書館に通って、縮刷版でまず調べていくと、前畑さんとすれ違いがあったことがわかったんですよ。前畑さんは36年間金メダリストであることを一人で背負い続けたんですね。だから青木さんが金メダルを取る時に、岐阜の実家で一人深夜のラジオで聴いて、ゴールした瞬間、両手からものすごい汗が出てきて、「よくやった、これでやっと私はひとりぼっちじゃない!」って叫んだ。で、次の日ミュンヘンに国際電話をかけたりしたんだけど、青木まゆみさんはインタビュアーの新聞記者の人たちに、「前畑さんをどう思いますか?」みたいに聞かれた時に、「私、前畑さんって知りません」って答えちゃった。
――知らないわけはないですよね。なぜそう答えてしまったのでしょうか?
佐々木直彦氏: 青木さんてすごく堅い人なんです。「私には答えられません」っていう意味で言ったんだけど、全然伝わらず、場がしらけちゃったんですよ。そして前畑さんもしらけちゃった。前畑さんは国民を背負って、1回0.1秒差で銀メダルに終わったんです。で、引退して結婚しようと思ったけど、みんなが許してくれなかった。ベルリンでは金メダルを取らなかったらプールの中で舌をかみ切って死のうという気持ちで行っているんですね。青木さんは、ほかに金メダル確実と言われた人がいて、全然目立っていなかった。それが泳ぐたびに記録更新、オリンピックでピークになって勝っちゃったみたいな感じなんです。2人が全然違うことで、青木さんはものすごく苦労するんです。コミュニケーションがヘタだから、「天狗になってんじゃないか」とか言われたりとかね。その後表舞台から消えちゃったことも、マスコミの取材一切お断りっていう状態だったからだというのがわかってきた。日本人って金メダルで盛り上がるじゃないですか。でも勝手に盛り上がって終わりなんですよね。海外だと、盛り上がるのは盛り上がるけど、金メダリストってずっと生活保障とかがあるんです。
いわゆる共産圏はそうだけど、自由主義圏でもあるわけですよ。持ち上げるだけ持ち上げられて、違う生き方をしなくちゃいけないのに、ハシゴを外しちゃう。これはまずいんじゃないかという気持ちもありました。ミュンヘンオリンピックは36年ぶりのドイツのオリンピックで、その時にはベルリンの壁があるわけですから、ドイツまで行って壁の取材もしました。オリンピックのプールでも泳ぎました。
「コンサルタント」と「ノンフィクション作家」で葛藤
――リクルートに籍を置きながら執筆されたのですか? 取材の時間を作るのも大変だったのではないですか?
佐々木直彦氏: リクルートの営業マンの時に、前畑さんと会って、青木さんのコーチとも会いました。リクルートから転職した後に、青木さんにもあの手この手で会えたんです。相当苦労しましたよ。だって全部シャットアウトの人ですから。そういえば、前畑さんに電話しなきゃいけない時が、当時僕があこがれていた沢木耕太郎がリクルートに来る日だったんですよ。それで、絶対話を聞きたいと思っていたんだけど、話を聞くと約束の時間に電話ができないんですね。どちらを取るかといったら、電話を取るしかないじゃないですか。それで1階のロビーの公衆電話からかけました。
ところが沢木さんは100人以上の聴衆を待たせて30分ほど遅刻してきたんです。公衆電話で前畑さんと話し終わる頃に、遅れて早足でビルに入ってきた沢木さんを横目で見て、「これはラッキー!」と。そしてギリギリで会場に滑り込み、僕は沢木さんに100人のなかで唯一質問をしたんです。沢木さんって就職をしたんだけれど、1日で辞めているんですよね。その理由が「雨が降っていたから」という風になっているんだけど、絶対ウソだろうなと思って、「本当はどうなんですか」って聞いたんです。みんなの前で。そうしたら、「うん、今ここでは言えないな」と(笑)。まあ、それで十分でしたけどね。その後、飲みに誘われたんですよ。もちろん一人で誘われたわけじゃなくて、何人かと一緒に誘われたんだけど、「書きかけのノンフィクションがあるから」と断りました。書きあがるまでで沢木さんと会えないなと思ったんですね。バカだったよね、今にして思えば。
――そのノンフィクションは本にするおつもりだったのでしょうか?
佐々木直彦氏: 1冊の本にっていう思いがあったのですが、「Number」が、新人賞募集を始めたんです。ちょうどいい機会だと思って、規定が80枚以内だったので無理やり短くして出しました。1次を通らなかったらあきらめて、1次を通ったらもうちょっとやってみようかなと思ったんです。締め切りの日は過ぎちゃったんだけど、郵便局に深夜に行って、「すみませんけど前の日の消印を押してくれませんか?」って頼んで、押してもらって。そうしたら最終選考までいったんです。最終選考日の前の日に電話がかかってきて、「今のところ実は最有力です。明日どこにいるか教えてください」って言われたんです。
――それは相当うれしかったんではないですか?
佐々木直彦氏: ウソだろって思いました。それと正直ものすごい葛藤があったんです。全く想定外なわけです。せいぜい2次通るぐらいで終わりだろうと思っていたので。コンサルが自分のスタイルができてうまくいきそうで、「困った、どうしようどうしよう」って、息ができないぐらいでした。ところが次の日に電話がかかってきたんです。「昨日はああ言いましたけれど、色々あって、結局は該当しませんでした」っていう連絡だったんですね。そう言われちゃうとホッとするものの、やっぱり悔しいなという気持ちにはなりましたね。おかげで今もあるのかもしれないけども。
著書一覧『 佐々木直彦 』