ロシア文学に魅せられて翻訳者として活動
――内山さんは今の活動をされるまでどのようなお仕事をされていたのでしょうか?
内山昭一氏: 最初は学校を出てから長野で某パソコンメーカーに入ったんです。でも、どうも向いてないなと思って、4年で退職しました。で、親せきが本屋さんをやっていたんですが、本がいっぱい読めると思って本屋さんに行ったんです。確かに毎日毎日、新刊がバンバン来るじゃないですか。新刊の洪水にどっぷり浸かって、すごく幸せな青春時代を送りました。それで入ったと同時に小説と詩の同人誌を始めたんです。もともと書くことは好きだったので、同人誌を続けて、毎週1回集まって文章実習をやったんですね。あるテーマを決めて、原稿用紙2枚ぐらいに枚数を決めて作品を書いていました。毎週やったのは、勉強になったと思います。あと、それと並行して、ロシア語の翻訳をやっていたんです。
――もともと学校でロシア文学等の研究をされていたのですか?
内山昭一氏: いえ、単独で勉強していました。もともとドストエフスキーが好きで、『カラマーゾフの兄弟』(新潮社)など原書で読みたいというのがあったんです。たまたま30歳ちょっと前に結婚して、30歳過ぎてロシアを旅行したらどうしようもなく勉強したいと思って、専門学校に入ってロシア語を勉強しました。その時に箕浦達二先生というロシア文学者と知り合って、先生もやっぱり長野県の出身で、よく面倒を見ていただいて、翻訳の手伝いをしたりしていました。専門学校は2年制で、親には2年だけだよって言って出てきたんですが、2年たったら研究科でもうちょっとやりたいなと思って。だんだんなし崩しになって今になっちゃったんですけれども。そういう意味では大変、かみさんとか両親には感謝しています。
――翻訳ではどのようなお仕事をされたのでしょうか?
内山昭一氏: あすなろ書房さんの、「世界のわらい話」(全5巻)という企画で、『かじ屋をはじめた地主のだんな』(ロシア民話)と『スモモをごみと取りかえたおじいさん』(ブルガリ民話)の2本を訳しました。それと、テンドリャコフというソビエト時代の作家がいて、もう亡くなっちゃったんですけど、人間の行く末、人類はどこへ行くのかみたいな19世紀ロシア文学の伝統を受け継いだ作家で、箕浦先生もすごく気に入っていて、テンドリャコフの作品を次々と翻訳しようという話になって、先生の下訳をしていました。すごくいい作品を訳したんですけれどもなかなか日の目を見ないので、今「モーアシビ」っていう同人誌に参加しているんですけれども、そこに連載しています。
――テンドリャコフの好きな作品を紹介いただけますでしょうか?
内山昭一氏: 『幻想への挑戦』というすごい長編があるんです。歴史をもう一度考え直そうみたいな長大なテーマで、例えばキリストはイエスになってはりつけになって死にましたけれども、もしもうちょっと早めに死んでいたら世界はどうなるだろうかとか、かなり面白い作品なんです。1987年に発表されたものですが、当時ソビエト連邦というのは「無葛藤理論」っていうのがありました。もうソビエト、共産主義になったんだからいわゆる資本主義にあるような葛藤は存在しないというのが、ソ連作家同盟の大方の考え方だったのですが、そんなことはないよとテンドリャコフは言って、その葛藤をできるだけ打ち出して小説を書きました。優れた作品をたくさん残していますので、これからも「モーアシビ」でできるだけ紹介していけたらと思っています。
自分の食べるものは自分で獲る「自然は巨大なレストラン」
――内山さんの今の活動につながる本としてはほかにどのような本がありますか?
内山昭一氏: 日本の最初のエコロジストといわれる安藤昌益という人がいるんですね。この人は江戸時代の八戸のお医者さんだったんですね。当時は非常に農民が貧しかったのですが、この人の考え方の根本にはいろり、食で、「直耕の思想」というのがあるんですけれども、やっぱり自分の手で自分の食べるものを収穫する、それが一番重要で、そういうことこそ自然の人間のすべきことであって、支配者層が世の中をおかしくしているという『自然真営道』っていう本を書いているんですね。この人の本を読むとたいへん教えられるし、食の問題をすごく感じられるので、僕の中に原点として生きている本だと思います。
――今はどのような本を読まれていますか?
内山昭一氏: マイケル・ポーランの『雑食動物のジレンマ』という本があるんですけれども、本当に今の食生活はこれでいいのかなっていう感じの本で、どこを開いてもすごく興味ある部分があるんです。人間は雑食動物ゆえに、何を食べようかって考えるじゃないですか。決まっていれば楽ですよね。カイコだったら桑を食べてればいいんだから。桑がなくなれば人生終わり。選択の余地がないですよね。雑食動物であるがゆえに人類はこんな長生きしてきたし、どんどん新しい食材に挑戦して、世界中に広まってきているんだと思うんですよね。でも逆に言えば、食べることに対してすごく恐怖があるじゃないですか。毒じゃないかとか。そういう有毒かどうかを判断するのって非常にリスクが高い。
そして、われわれは何か食べる時に考えながら食べてきたのですが、今では与えられたものを食べているというのがすごく多いんです。スーパーに並んでいるもの以外は食材ではないというか。賞味期限などの情報によってわれわれは判断していて、それはそれで全く否定するものではないんですけれども、あまりにも情報に頼りすぎている。そういうことをちょっと見直そうというのがこの本なんです。
――まさに内山さんの活動に通じるところがありますね。
内山昭一氏: この本でも、自分で狩りをして自分で捕ったものを食べてみようとか、そういうことが書かれているんです。一番私が同じ気持ちになるのが、狩猟・採集ができると考えただけで、森を散歩する意味と気分が急に変わって、周りの風景の全てが食材になる可能性があるものとしてとらえられるようになるという、「自然は巨大なレストラン」というユニークな考え方です。自然界を食べられるものと食べられないものとに分けてみることができる、新しい眼鏡をかける。ここの所が一番、読んでいて共感しました。彼はもちろんアメリカ人なので狩猟ということを考えますよね。イノシシを撃ったり。日本でも最近は狩猟がちょっと人気になってきて、罠の免許を取るとか、そういう人も出てきているんですけれども、一番手っ取り早いのは昆虫なんです。
だからこの人がもし日本人だったら多分昆虫採集を始めていたと思うんです。免許もいらないし、身の危険は少ないじゃないですか。で、同じようなことを学習できるわけですよね。自分で動物を捕って自分で食べるという「命を頂く」みたいな学習が、子どもでもできる食育教育にもつながって行くということがあると思うんですよね。そういうことも昆虫食の大きなメリットだと思います。
――今後読みたい本や、研究したい分野はありますか?
内山昭一氏: 『コーラン』を含め、イスラム関連の図書ですね。今までイスラム系って全然タッチしたことがなくて、不勉強な部分だったので。テンドリャコフはキリスト教について色々書いています。ドストエフスキーはもともとキリスト教なので、僕も色々勉強しました。でも西洋の文学の中にはキリスト教は出ていますけれど、イスラムってなかなかないじゃないですか。実は最近パキスタンとかインド系のダンスの会に昆虫食のブースを出してくれって言われて行ったんです。キリスト教徒でもバッタは食べていますが、イスラムでも昆虫って大丈夫なのかなって思ったりしましたが、禁止はされていないんですね。バッタは食べてもいいですよっていう話になっていたんです。
「五感」を動員して読む紙の本の素晴らしさ
――電子書籍が脚光を浴びていますが、内山さんは電子書籍の可能性についてはどのように思われますか?
内山昭一氏: 「食べられる昆虫図鑑」というのをぜひやりたいなと思っているのですが、本でやったら大変なんですよね。カラーをいっぱい入れたりしてやっぱりお金がかかる。私の電子出版なら比較的安価でそこら辺は何とかクリアできるかもしれません。それに、虫が実際に動いているところや鳴き声を動画で入れたり、場所とか季節とか捕り方とかが、動画があればすごくわかりやすい。同時に、そこで捕ってきたものをどう調理するか。手軽にできる昆虫料理を、3分クッキングみたいな感じで入れたものができるとすごく面白いなと思っていて、それに関しては電子書籍は非常によさそうですね。単に本から丸写しするんじゃなくて新しい形で検索とか全部できるなど、たとえば「バッタ」と打ち込むとバッタ料理が全部出てくるとか。インタラクティブな感じでできればいいんじゃないかなと思います。それは1つの希望というか夢ですよね。
――内山さんは現在七月堂という出版社にお勤めでもありますが、紙の本にしかない良さというものもあると思います。紙の本の魅力についても教えてください。
内山昭一氏: 例えばここに全5巻の「ゴーゴリ全集」があります。これはロシアの原書ですけど、手触りがいいですよね。電子書籍にない、やっぱり重みというか何というか、五感で感じられる。インクのにおいとか、ちょっとカビ臭いにおいがありますよね。で、めくる時の音が聴覚に伝わる。紙の本は、木ですから有機物じゃないですか。人間も有機物ですから、同じ命を感じます。これはごく最近出した詩画集、詩集に絵が入った本ですけれども、ソフトカバーなんですよね。ソフトカバーで糸かがりをしているんです。その長所は全部開くことですよね。ノドまできちんと開いて置いても閉じない。今の本って置くとペタッとなっちゃうので、これは非常に大きい長所ですよね。普通の人はわからないんだけど、背丁っていうのがあって、それが時々見えることがあるんですよ。上製の場合はそこまで開かないから出ないんですけれども、並製の場合は出てしまうものがある。
知らないお客さんからは、ちょっとこれは困るよって言われるけど、むしろこれが出るということは糸かがりだということの証なんです。昔は並製で糸かがりの場合は背丁をもう少しわからないように、狭く作ったようなんですね。でも今はそこまで細かくはできないので、やむを得ないよって話になるんですけれども。
――美しい装丁ですね。
内山昭一氏: これは朝吹亮二さんという詩人の昔作った本なんですけれども、全部、手作りです。外箱の紙もにかわを溶いて自分たちで貼ったんです。よく作ったなっていう感じですよね。最近、「響音遊戯」っていう音楽と詩の朗読を入れたCDシリーズを出しています。一般的な詩の朗読というと普通の詩の朗読にBGMを付けるって感じですよね。でもこのシリーズの場合は音楽と詩というのを対等に考えて、両方が主人公というような感じです。ですから不協和音というものもあるわけですよね。で、なおかつ一体化した感じで全体として1つの作品にしようという試みなんです。カッコよく言えば音と言語の弁証法。そういう新しい試みですね。
――紙の良さと、電子の良さが共存できれば新たな表現が生まれそうですね。
内山昭一氏: 電子を出して、そこからピックアップする形で元の重要なところを紙にするという風にできればいいですよね。あと、紙の本の良さは、手軽に線を引っ張ったり、付せんをはったり色々できることですね。一度、線を引っ張っちゃうと消えないですけどね。
著書一覧『 内山昭一 』