「ランニングの伝道師」として多くの人に言葉を伝えたい
金哲彦さんは、駅伝やマラソンの選手として活躍後、指導者として数々の一流ランナーを育成。現在は、著作やテレビ解説で、技術論のみならずランニングの楽しさを一般に紹介しています。また、大学や実業団が中心であった陸上界でクラブチームの設立・運営、スポーツを通じた地域コミュニティーの活性化に取り組むなど、新たな挑戦をし続けています。金さんのアクティブな仕事スタイルや本の執筆にかける想い、電子書籍についてのお考えなどをお聞きしました。
動きながら読み、動きながら書く
――様々に活躍されていますが、金さんの近況をお伺いできますか?
金哲彦氏: 執筆や解説者をはじめ、ランニングのテレビ番組を作ったり、企業と一緒に商品開発をしたり、コンサルティング等もしていて、最近はほとんど年中無休でいろいろな仕事をやっていますね。各地の大会の支援も年がら年中やっているので、常に動いているという感じです。毎週1、2回、多い時には3回は出張に出掛けていて、この日曜日も岡山に日帰りで行ってきました。
――出張への移動中も執筆をされていますか?
金哲彦氏: 移動中は、疲れている時は睡眠、後は読書と執筆ですね。動きながら読んだり、動きながら書いたりといった感じです。僕、子どもの時から歩きながら読む癖があるんですよ(笑)。執筆も飛行機に乗っている時とか、新幹線に乗っている時にすることが非常に多いですね。僕は別に作家ではなくて、ランニングコーチとか体を動かすアクティビティの仕事をしてるので、執筆はそういう形でしかできないです。僕は浅田次郎さんが好きなんですけれど、浅田さんの本を読んでいると、岩にへばりついてるカキみたいに、何時間もデスクに向かって書いているという表現がある。そういうスタイルを取るのは無理なんですよね。
――スケジュール的な都合だけではなく、動きながらのほうが仕事がはかどるということがあるのでしょうか?
金哲彦氏: 書くことは駅伝のことやランニングに関することで、人間の体のことや社会のことを掘り下げていくことが多い。むしろ動きながらいろいろな情報を自分の中にインプットしていないとできないことが多いんですね。いっぱい本を読んで想像力を働かせるのとは違って、現実に起きてることを常に自分の中に取り入れていかないといけないんです。
ランニングチームも会社も、一から作り上げた
――現在の活動の原点について伺っていこうと思いますが、選手として活躍されて、指導者となるまでの経緯をお聞かせください。
金哲彦氏: 僕は北九州出身で、もともとは陸上競技の選手をやっていて、箱根駅伝も出ていました。箱根駅伝は子どもの時からずっと出たかったんです。高校まで北九州にいて、当時の八幡大付属高校、現在の九州国際大学付属高校という付属校を出て、早稲田に入って駅伝選手になったんですね。それで、今ちょうど瀬古さんのエスビー食品陸上部が廃部になって、DeNAに移ると話題になっていますよね。僕は大学を卒業する時にそのエスビーに誘われていたんですが、就職活動を自分でやってリクルートに入ったんです。リクルートには陸上部がなかったので、自分でチームを作って走っていました。
――選手としてはおいくつのころまで活動されていたのでしょうか?
金哲彦氏: 選手時代は28歳までですね。その後は指導者になって、リクルートのチームの監督もやりました。その時にオリンピックの選手とか、女子の松野明美選手も指導させていただきました。それが2001年に、チームが休部になるということが発表された。僕もチームの責任者だったので、どうしようかなと思った時に、僕の一番得意なことって、やっぱりマラソンとか駅伝とか陸上競技の分野なんですよね。その時すでに37歳ですから、まったく新しいことをやるんじゃなくて、得意な分野を生かして、今まで蓄積したものを生かすっていうことを最優先に考えたんです。ただ、今回のエスビーみたいに新しいスポンサーを見つけて移籍をするんじゃなくて、リクルートでチームを作った様に新しいことをやろうとも思って、自分でクラブチームを作っちゃったんです。
――企業の後ろ盾がない状態ですから、かなり苦労があったのではないですか?
金哲彦氏: 選手を入れるのは苦労しましたね。それに、それまでは実業団チームの監督しかやったことないから、完全にスポーツオンリーで、しかも現場ですよね。チームを作ったあとに、NPOや有限会社も作って、少しずつ仕事の幅を広げて行きましたが、ノウハウもなかったので、すべて自分で一から作り上げていくことになった。会社を作ったこともないから、『有限会社の作り方』という本を読んで、公証人役場へ行ったり、法務局で登記したりも勉強だと思って自分でやっていましたね。今思い出すと笑っちゃうんですけど、それまで何かを書いたりとか人前でしゃべったりってすることも、ほとんどなかったのですが、何か事業をやろうとすると、人にプレゼンしないといけない。その時にはやっぱり企画書が必要ですよね。それでパワーポイントを2001年から学んで、『企画書の作り方』っていう本も買って、読んでいましたね。今はパワーポイントも使いこなしてますよ(笑)。
選択肢が2つある時は、常に「つらいほう」を選ぶ
――先例のないことにチャレンジする原動力はなんだったのでしょうか?
金哲彦氏: 新しいものが好きなんですね。人がやっていないことをやりたいっていうのが常にあります。もちろんゼロからチャレンジすることはリスクがあるんです。まずは、一般のサラリーマンが独立することと同じように、収入がなくなるリスクが一番大きいですよね。大企業に残れば、それなりの年収があるわけなんですけど、自分がやりたいことができるとか、自分の能力が生かされるという保証はまったくなくて、企業の中に巻き込まれながらやるしかない。外に出れば自分がやりたいこともできて、自分の能力をもっと生かせるかもしれない。僕はずっと人生の選択の中で、どっちを選ぶかということになったら、常によりつらいほうを選ぶんですね。選手時代からそうです。2つのトレーニングあって、楽な練習、つらい練習があるとしたら、やっぱりつらいほうを選ぶんです。それが、選手としてのひとつのポリシーだったんですよね。
――「つらいこと」をやり遂げるための強い心を持てるのはなぜでしょうか?
金哲彦氏: まずは「楽しい」ことが重要です。厳しいんだけど楽しいというのが基本になりますね。後はスポーツの選手は皆そうですけれど、僕は負けず嫌いなんです。自分がこうやるって宣言してやった以上は絶対に成功したいし、負けたくないというのが、モチベーションっていうか、メンタリティですね。僕のパートナーは歯医者さんなんですけど、彼女が、僕と考え方がまったく違うって言うんです。特にお医者さんなんかはそうなんだけど、どんなに優れたお医者さんであっても、病気が絶対に治るという保証はないじゃないですか。治らなかったら、場合によっちゃ訴えられたり、文句を言われたりするわけです。だから、物事を常に失敗するかもしれないという前提で進めていくそうなんです。医療関係の人は、石橋をたたいて渡って、さらにこの道がだめだったら、この道というエクスキューズも常に考えているというメンタリティらしいんですね。
でも僕はまったく違って、だめだったらだめな時点でどうするかをまた考えれば良いことだと思っているんです。箱根駅伝なんかもそうですけれど、スタートラインで緊張しておどおどしている選手は、もしだめだったらどうしようって考えているんですね。僕はそうじゃなくて、「これだけトレーニングしてきたんだから、絶対大丈夫」だと堂々とするようにしています。スポーツ選手って失敗を最初から予測して考えてやっちゃだめなんです。成功だけを考えるようにしないと、体が緊張してしまって、良いパフォーマンスが出ない。だから、選手の時代からずっとそういう風に生きてきているんですね。