本の装丁は、終着地点を飾るもの
1973年長野県出身。長野県伊那北高等学校卒業、武蔵野美術大学視覚伝達デザイン学科中退。2000年に有限会社文平銀座を設立し、広告やロゴデザイン、アニメーション制作などを手がける。08年、『暮らしの雑記帖』『ナガオカケンメイのやりかた』で第39回講談社出版文化賞ブックデザイン賞受賞。近年は広告アートディレクションとブックデザインを中心に活動。イラストレーターとして挿画の連載や、執筆も行う寄藤文平さんに、父親の影響を受けて育った幼少期、形としての本の意味、興味を持っていることなどをお聞きしました。
一から丸ごと何かを作れる人間になりたい
――日本を代表するデザイナーとしてご活躍ですが、幼少期はどのように過ごされましたか?
寄藤文平氏: 僕は、長野南部の伊那市で生まれました。父親は信州大学で生物学、応用微生物学を教える学者でした。趣味でフルートを吹いたり、ピアノやバイオリンを弾いたり、絵を描いたり、スピーカーを作ったり、写真も好きだったりと多趣味な人でした。僕はそんな父親の影響下で育ちました。ちょうど子どものころはプラモデルの全盛期で、当時のプラモデルは接着剤を使って結構一生懸命作らないと作れない種類が多かったのに、父から既製品を買わずにパーツごと自分で作るべきだと教えられました。
――パーツから作るようにと教えられたのですか?
寄藤文平氏: 「出来合いのパーツを接着剤で付けるのは工作とは言えない」というのが父の考えでした。だから僕は、「プラモデルが欲しい」と思いつつ、よく似たものを木で一生懸命組み立てたり、プラスチックの棒を粘土で固めてパーツに近いものを作ったりしていました。
――そのような幼いころの経験から、物を作る仕事への関心が高まったのでしょうか?
寄藤文平氏: 高校生のころは、父親が学者だったので「僕も学者になりたい」と、考えていました。父の知り合いに新聞記者がいて、その仕事もとても面白そうだったので、新聞記者になることにも興味がありました。
――大学は武蔵野美術大学に進まれましたね。
寄藤文平氏: 学者や新聞記者になりたい気持ちとは裏腹に、そんなに勉強には興味がありませんでした。高校に入ると、「世の中には勉強のできるやつがこんなにいるのか」という感じもありました。そのころ、学園祭のポスターを学内選考で生徒が選ぶという制度がありました。2年連続で僕の作品が選ばれて、1年目はパンフレットの表紙に、2年目はポスターになりました。テストもほったらかして家で延々とポスターを作っている姿を親が見て、「美術系が合っている」と考えたようです。親のすすめで高2から美術予備校に行くようになって、とても良い成績がとれました。それまでは、「美大はとても難しい、自分には無理だ」と思っていたのですが、「これは受かるかもしれない」という手ごたえを感じて、そこから美大受験に本腰を入れました。
銀座の事務所の名前は「文平銀座」
――今の仕事を始められた経緯をお聞かせください。
寄藤文平氏: 大学時代、広告代理店の博報堂で先輩の仕事を手伝うようになったんです。それがとても忙しくなって、結局、大学には行かなくなってしまいました。そして1999年、25歳ぐらいの時、事務所を作りました。
――「文平銀座」という事務所名はどうやって決めたのでしょうか?
寄藤文平氏: 最初に作った事務所は田町にありましたが、人が増えたので引っ越すことになりました。その時一緒に仕事をしていたプロデューサーの方と飲み屋の席で、銀座という地名はどこにでもあるという話になって、その話をきっかけに、事務所の名前も「文平銀座なんていいね」というアイデアが出ました。本当は、渋谷に事務所をかまえるつもりでしたが、友人から「文平に渋谷は似合わない」と言われ、住まいからの通勤にも銀座が便利だったので、文平銀座を銀座に作りました。
――お仕事に関してのこだわりを教えてください。
寄藤文平氏: 自分で作ったものを後から見て「一貫している」と思う点は、「何かが面白くないと嫌だ」というところです。僕の考えでは、おそらく、「人生の9割9分はやりたくないことでできている」、 1割ぐらい自分がやりたいことがあるんだと思うんです。だから自分がやりたいことを思い切りやりたいと思っています。
――2005年に出された『ウンココロ』などは本当に面白いですが、本の執筆も、寄藤さんがやりたいと思うことのひとつだったのでしょうか?
寄藤文平氏: デザインやイラストの仕事も多くあったのですが、それだけやっていても、「どうもダメだ」と思っていました。いつか自分で丸ごと何かを作れる人間になりたいと考えていました。もともと文章を書くのが好きで、自分で内容ごと考えた本を作りたいという希望がありました。『ウンココロ』の次に『死にカタログ』を出しているんですが、実は『死にカタログ』の企画の方が先だった。『死にカタログ』を作っているプロセスで、「ウンコと死はよく似ている、ウンコの話も面白い」と思ったんです。「ウンコの方が健康と結びつきやすいから、健康本として売ったら売れる」と売り込んでいたら、出版社の人が担当に付いてくれました。全部、一から丸ごと作りたいというのは、おそらく父親の遺伝です。
どんなデバイスで読んでも、作者の気持ちが伝わればいい
――電子書籍についても伺いたいと思います。寄藤さんは、電子書籍をどう思われますか?
寄藤文平氏: 本のテキストは、本来はどんなデバイスで読んでもいいものだと思います。例えば、本の活字を電子音声化して、美声で読んでくれる機械があったなら、それで聞いてもいい。本に書かれている内容は、書いた人の伝えたい想いを活字で表現しただけのものです。それを紙の本で読むのと、電子書籍としてデバイスで読むのと、音声で聞くのとでは、質的には少しずつ違うとは思いますが誤差の範囲ではないでしょうか。例えば、川端康成を本で読んでも電子書籍で読んでも、感じ方が全く違うということはない。だから僕は、どんな形でも、作った人の気持ちや、書きたかったことが読者へ伝わっていけばいいと思います。
――読者が選択できる形式が増えただけということでしょうか。
寄藤文平氏: もちろん、個々の感じ方に違いはあると思います。でもそれはデバイスが違うからではなく、読む人の動機そのものが違うからだと思います。まずその本を読むまでのストーリーが違う。本で読む人はやはりきちんと読みたいという気持ちがある人でしょう。電子書籍で読む人は、もう少し軽い気持ちで「まあ、川端康成だし、すぐに読めるなら軽く読んでみるか」と思って読み始めたら結構良くて最後まで読んでしまったりする。そういった違いなのではないかと思います。今後、デジタルデバイスをみんなが持つようになって、紙に近い、目にストレスの少ないデバイスになって普及していった時には、本で読みたいと思う気持ちと同じプロセスで、デジタルデバイスを手に取る人が当然増えてくるでしょう。そうなった時、あるメッセージが伝わっていく時の質的な変化はそれほどない。そのうち、物理メディアではないエレクトリックなメディアとして読むこと自体が特別なことではなくなってくる。電子書籍も日常の中で普通に読まれていくと思います。
――寄藤さんご自身は電子書籍を利用されていますか?
寄藤文平氏: iPadが出た時に「面白そうだ」と思って、すぐに買って読みました。でもあまり楽しくなくて、読まなくなってしまいました。今は、ビジネス書などを、「買うには高いな」と思う時に電子書籍でパッと読みます。研究論文や非常に短くて優れたレビュー、そういうものをサッと読みたい時には、とてもいい。そこが電子書籍の良さだと思います。
本という形の終着地点
――電子書籍が普及していった時、ブックデザインをされる上で何か変化はあるとお考えですか。
寄藤文平氏: 電子書籍のアイコンを作るなら、装丁の仕事はしたくない。表紙の第1ページを作ることに僕は興味がありません。装丁をする人たちの仕事がどんどんなくなって、みんなトップページの一枚絵を作る仕事になってしまったら寂しく感じます。デジタルなものは、年を取らない。古びないし、劣化もない。
実は、そのことをすごく考えさせられた出来事がありました。僕が親しくしていた編集者の方が亡くなられた時、その方はずっとブログを付けていたのですが、奥さんが閉じたくないという希望があり、今でもインターネットのサイトにブログが残っています。それで、サイトを見ると、当たり前ですが亡くなられた日付で更新は終わっている。それを見た時に「デジタルというものは、こういうことなんだ」とすごく感じました。時が止まるというか、年を取らない、古くもならない。いつまでもそこに同じようにある。遺族がブログを残したい気持ちは分かりますが、僕はそこにアクセスしてブログを見るたびに、やはり読むことができなくて閉じてしまいます。デジタルとは、そういうところがあるなと思いますね。
――永遠になくならないということでしょうか?
寄藤文平氏: そうです。何かずっとそこにあるという。このブログが、もし本になって書籍化された形で自分の手元にあったなら、全く違うと思います。ですから、文章は本にまとめて、ブログは閉じてあげたい。きちんと終わって、物質化させる。その人の残した文章が本になったことで、それはきちんと年を取れるんです。自分と一緒に死ねる。紙の本の価値というのは、手持ち感とか手触りとか、そういう話だけではなく、「死ねる」ということが、ものすごく大事なことのように思います。燃やしたり、お棺に一緒に入れてくべることができる。そういう生々しい部分がある。モノとして必要であるのはそういうことであると僕は思っています。ですから、デジタルのアイコンを作る、トップページを作るだけの仕事には何の魅力も感じません。
本とは、ある人が生きて色々と考えたことが体系化され、死んでいくことだと思います。「これはこういうことだ」と自分なりに結論がついた時、「本に残したい」という思いが生じる。そういう意味では本という形の終着地なのではないでしょうか。それはデジタルでも同じだと思います。生き生きとした情報は、ウェブやデジタルメディアを中心にこれから発展していくでしょう。そこである結論が出て鮮度を失った情報や、逆に熟成されたものは、本という形できちっと形を与えられていいと思います。形を与えたいと思う心の動きが、人間の中にはある。例えば、お墓参りをなぜするのか。そこには、合理性など全くないと思います。墓石は、終わったものを残された人たちが受け継いでいくためにある。本もそれと同じです。エレクトリカルなものとフィジカルなものに決定的な差があるとしたら、フィジカルなものは死んでいく、消滅できるということですね。
本の装丁というのは、そういう意味で一つの終着地点を飾るものです。その本を大事にしたいと思った人たちにとって、時間が悪いものにならないよう、装丁をきちんとする。それが今の僕のスタンスです。
「分からなくなってきましたね」
――今後のビジョンをお聞かせください。
寄藤文平氏: 物語について考える本を、いつものシリーズで出そうと思っています。物語とは2種類しかないと、何かに書いてありました。欠けているものを補うストーリーか、どこかに帰るストーリー。今言われた「ビジョン」というのは必ず、欠けているものを補う形で描かれる。自分の未来について考えるという時、必ず物語化しなくてはならない。そのような場合に、選択肢が2種類しかないのはおかしいと思いませんか。実際にはもっと大量の未来があるはずなのに、自分がどうなりたいかと考えた瞬間、選択肢が2個になってしまう。
ビジョンを設けてそこに向かって生きていくということは、2つだけの選択肢の中で自分を考えるということになる。僕は、それはおかしい、不自然だと思うんです。70代までもし生きられたら、このテーマを本にまとめたいですね。
――二者択一の人生じゃない人生を、ということですね。
寄藤文平氏: 野球の中継でよく「分からなくなってきましたねー」とコメントしたりします。僕はピンチの時、頭の中であの実況をするんです。締め切りにもう間に合わないとします。これを落とすと本当に危ないという時に、頭の中で「分からなくなってきましたねー」と中継すると、気持ちが楽になります。「分からなくなってきましたー」って言うと、急に「今の状況は面白い」という気持ちになれるんです。
あとは今「データサイエンティスト」という職業に興味があります。データは一個の生態系みたいなものです。ソーシャルと言っているけれど、そこには現実とは別の環境がある。だから、もうひとつ地球があるようなものです。その世界を読み解いて、実際の世界と結びつけていく職業として、「データサイエンティスト」という人たちがいます。僕は、それはすごく大事なことで、ビジネス的にも産業として発達する可能性が高い分野だと思います。今後、もう少し汎用性の高い感じでビッグデータにみんながアクセスする時代になる。そういう時に、大量のデータから、ある「意味」を見つけ出していく作業は、相当クリエイティブな仕事だと思います。それは、森を見つけて木を切って家を建てる人が必要なのと同じように、必要とされる仕事ではないでしょうか。
僕は、そういうビッグデータの中で約束されていることや、向こうの世界で起きていることを現実と結んで話をしていくメディアが必要だと思います。だから今後「データサイエンス」という雑誌を立ち上げたら、読者がつくのではないかと考えています。朝日新聞を読むのではなく、「朝日新聞を取り巻くこの記事はこのデータのここです」というような、こういうメディアは、これから必ず出てくると思いますし、面白そうなので先駆けて研究、開発をしていきたいと思っています。そして、これからは謎が価値だと思います。ビッグデータに皆がアクセスすることで、殆どの謎がなくなっていく社会になりますから。僕は、これからも謎を求めていくと思います。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 寄藤文平 』