世界に通用する「人」こそが作品である
漫画家のすがやみつるさんは、『ゲームセンターあらし』や『こんにちはマイコン』等で、ホビー漫画のジャンルを確立。絶大な人気を得ました。パソコンが普及するずっと以前から、子どもたちに電子技術の楽しみを提供してきた作品は、現在IT業界、ゲーム業界の第一線で活躍する多くの人へ影響を与えました。京都精華大学マンガ学部教授として後進の指導にも力を入れるすがやさんにお話を伺いました。
漫画を理論的に教えるために自ら学んだ
――早速ですが、お仕事の近況をお聞かせください。
すがやみつる氏: 京都精華大学のマンガ学部というところに、今年から新しくキャラクターデザインコースとギャグマンガコースというのができまして、4月からそのキャラクターデザインコースで専任の教員を始めています。去年も別のコースで非常勤をやっていたんですが、専任ということで9コマぐらい授業を持って、非常に忙しい。新しく学生が入ってくるので、「科目履修の方法は?」みたいにいろいろ聞かれるのですが、こちらも新米なのでよくわからなくて(笑)。同時に来年の入試の準備も始まって、オープンキャンパスの企画も含めてやっています。
――一流の漫画家の先生から教えてもらえるので学生さんも得るものが多いですね。
すがやみつる氏: 学生自体は僕の漫画を全く知らない。基本的に僕の漫画を読んだ世代は40歳を超えています。特にキャラクターデザインコースは、漫画家志望者があまりいないので、よけいに僕のことを知っていた学生は少ないですね。
――漫画やアニメについて教える大学は最近増えましたね。
すがやみつる氏: 京都精華大学は、1973年ぐらいから日本で最初に美術学部(当時)で漫画を教え始めた大学です。2000年にストーリー漫画のコースもできて、竹宮恵子先生が入って人気が高まって、一時は倍率20倍ぐらいになり、さらにコースが増えました。その成功事例を見て、日本中で漫画を教える大学がたくさんできて、今は50校近くあると思います。
――すがやさんが大学で教えられるようになったきっかけはどういったことでしたか?
すがやみつる氏: 2000年ぐらいから、いくつかの大学から先生をやらないかというお話を頂きました。でも、僕自身は高卒で漫画家になっているし、大学で学んだことがない。大学でゲストの講師をやったことがあったんですが、自分の体験を話すだけで学生の役に立っているのかもわからなかった。300人ぐらいの学生のうち後ろの方は寝ているし、女の子は化粧しているみたいな感じだったので、自信もありませんでした。どうせやるのなら、理論からきちんとやりたいと思って、僕自身が早稲田大学のeスクールという通信制の大学に入りました。
――大学ではどのような勉強をされたのでしょうか?
すがやみつる氏: 漫画の教え方を考えたいと思って、教育工学という分野を選びました。専攻したのがインストラクショナルデザインという、アメリカから入ってきた教え方の設計法で、研究には非常にはまりました。修士課程に入ったところで、ゼミの先生からは、博士になることも考えろと言われましたが、修士に入ったのが58歳で、出たときは60歳、それから博士課程に行くと、大学の定年が65歳になり始めていましたので、実践の場で教えられなくなってしまう。それで博士課程には行かずに修士でやめることにしました。声をかけてくれた京都精華大学は、漫画を教えている大学の中で、理論と実技の両方を持っている唯一の大学です。大学院もあって、去年から博士課程もできたので、修士まで取ってくれるなら歓迎だと言われました。僕自身は専任教員になるつもりはなくて、非常勤か特任で充分と思っていましたが、採用通知に教授と書いてあった(笑)。でも、この分野では一番いいところに入れたと思っています。
食費で切り詰め、漫画を買った少年時代
――すがやさんは小さな頃から漫画が好きだったのですか?
すがやみつる氏: 幼稚園の頃から絵がうまいと言われて得意になっていました。僕の故郷は静岡県の富士市という、製紙工場の町です。いつも紙のにおいがしていて、工場の音がうなっているところでした。隣のおばさんも製紙工場に勤めていて、僕が絵が好きだから、規格が合わなくて商品にならなかった紙を山ほど持ってきてくれたので、紙には不自由しなかった。漫画を読むのもやはり好きでした。母親が漫画に抵抗がなくて、幼稚園の頃から雑誌を買ってくれたから字を覚えるのは早くて、うちの母親は、「うちの息子は漫画で字を覚えた」って、よくよそで言いふらしていました(笑)。
小学生のときは漫画は月刊が中心で、それからだんだん週刊になってくるんですけど、小遣いがないから毎週買えない。うちは父親が倒れて、母親が一人で働いていたので、弁当を作る時間がないからと毎日弁当代をもらっていましたが、それを節約して漫画を買っていた。中学になってからは、サンデーとマガジンを毎週買っていました。学校から帰ってくると晩飯代のお金が置いてあって、それをまた節約して漫画代に回す。貸本屋にも通って、高校の頃になると貸本屋の仕入れの相談に乗って「今はこういうやつが売れ線ですよ」とか、偉そうにレクチャーしていました(笑)。
――活字の本はいかがでしたか?
すがやみつる氏: 小学校3年生のとき、母親がそろそろ字の本も読めと言って、誕生日に大岡越前と伊能忠敬と、西郷隆盛だったかを集めた伝記を買ってくれたのを覚えています。それは非常に面白く読みましたが、母親に「こういう本なら学校の図書館に行けば読めるから、その分現金でくれ。それで漫画を買うから」と言いました(笑)。図書館ではバリバリ読んで、岩波少年文庫をほとんど読破しました。『ツバメ号の伝書バト』を書いたアーサー・ランサムとか、『ドリトル先生』のシリーズが好きで、その後児童漫画を描くときの肥やしになったと思っています。
中学生になると、漫画を描きながらラジオいじりもやっていて、電気回路の本とかも読んでいました。中学2年になったときに、図書委員を選ぶことになって、誰も手を挙げない。それで先生が図書室のカードを見て「菅谷、お前が一番貸出数が多いから、お前がやれ」と言われた。借りている本が岩波少年文庫から、科学系からなんでもかんでも、ジャンルが雑多で先生から驚かれましたね。
――興味の広さは、その後のお仕事に通じていますね。
すがやみつる氏: そうかもしれない。やじ馬根性と言うか、ある意味気分屋なので、面白いと思ったらすぐに突っ走る。僕は漫画を書いているときも、論文書いているときも、頭や手じゃなく、脚で書いている。まず出掛けていって、なるべく実物を見たり触ったりするのが一番大事だと思っています。家族なんかは非常に迷惑しているようです。うちの母親も、10年前ぐらいに亡くなりましたが、「本当にお前がやっていることは子どもの頃から変わらない」と言っていました。
著書一覧『 すがやみつる 』