自分の国のノンフィクションを描きながら、常に「パイオニアワーク」を目指す
早坂隆さんは日本の近代史などを主なテーマとするノンフィクション作家であり、ルポライターとしても著名です。ルーマニアに2年間滞在して書き上げた『地下生活者たちの情景 〜ルーマニア・マンホールピープルの記録」で第12回週刊金曜日ルポルタージュ大賞優秀賞を受賞、その後も2006年に刊行した『世界の日本人ジョーク集』はジョーク集としては異例の75万部を超えるベストセラーになりました。『昭和十七年の夏 幻の甲子園』で、2011年第21回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。鋭い視点と独自の切り口のノンフィクションを語る早坂さんに、本とのかかわりについて、電子書籍についてご意見を伺いました。
ジョークウォッチャーという肩書で呼ばれることも
――ノンフィクション作家としてご活躍ですね。
早坂隆氏: 僕はもともと、ルポルタージュやノンフィクションを書いていまして、そちらが本業なのですが、ジョーク集の方が、本人も予想してなかった部数が売れてしまったため、「ジョークウォッチャー」とか「ジョークコレクター」という肩書で呼ばれることもあります。
もともとは海外の紛争地とか貧困地帯についてのノンフィクションを書いていまして、ルーマニアのマンホールに住んでいる子供たちの取材をしたのが実質的なデビュー作になります。
ユースホステル部で旅する楽しみに目覚めた
――今日は早坂さんの幼少期の読書体験などもお伺いしたいと思います。
早坂隆氏: 僕は愛知県の岡崎市という徳川家康が生まれた城下町で育ちました。野球などのスポーツをやっていたこともあり、読書量は人並みだったと思いますが、本を読む時間がぐっと増えたのは大学時代からです。高校の時には硬式野球部に入ったのですが、野球部自体も2年の途中で辞めてしまい、学校は進学校だったのですが、つまらなくて行ったり行かなくなったりして、原付を乗り回すなどして町で遊んでいました。
大学に入って東京へ出てきたけれど、野球も中途半端に終わったし、勉強も中途半端だったので、「なんかこのままじゃいけないな」という思いは強かった。「このまま行くとどうなってしまうんだろう」という漠然とした不安があって、それで大学で「ユースホステル部」に入りました。旅をしたくて、最初にオートバイ中型の免許を取って、国内をツーリングしていたけれど、段々物足りなくなって、自転車の旅に切り替えた。バイクでは満足感が十分に得られなかったんです。
――なぜ自転車の旅を選ばれたのでしょうか?
早坂隆氏: バイクで旅をしている時、ユースホステルの同じ部屋に、自転車で旅している人がいた。彼の方が何か充実感を得ているというか、「良い表情をしているな」と思いました。それで自転車の旅を始めました。大学3年の夏に北海道からスタートして鹿児島まで、40日くらいかけて自転車にテントを積んで、寝袋とコンロとお米を持って、自転車で1日100キロくらい走りました。夕方になると、海岸や河原とか公園にテントを張ってコンロでお米を炊いて、おかずはどこかで買っていました。そんなことをやっていると地元の人が、「何やっているんだ」とくる。本当に優しい人が多いから、食べ物を持ってきたり、「お風呂に入ってけ」とか、それこそ「うち泊まってけ」とか。そういう交流が楽しかったです。
高校時代は社会への不満や、「あまり世の中が面白くないな」という思いも強かったけれど、なんとなくそういった旅の間で気持ちがほぐされていって、「社会もやり様によっては面白い」と思うようになった。「人間もいいとこもあるなぁ」という当たり前のことに、段々気付ける様になっていった。それが大学3年の時でした。
大学に入った時はもの書きになりたいなんて考えは全くなかった。でも自分は将来「何かしたい」という気持ちはあったから、「旅をしながら考えよう」と思っていて、旅の間、毎日日記を付けていたんです。旅日記というか、その1日にあったこと、思ったこと、感じたことを書き留めていた。そのうちに、それが楽しくなってきて、夜何時間も書いていたんです。野宿しながら、そういう旅の面白さに気付いたのですね。
――そこが今の原型なのですね。
六畳一間、仲間3人での夢ある共同生活
早坂隆氏: こういうことを仕事にできたらどんなにいいだろうという甘い考えで、この世界に入ってしまった(笑)。大学卒業間近になってきて、ユースホステル部の親友で、「カメラマンになりたい」っていう奴がいた。彼は、大学1年の時からネパールにはまって、ネパールの写真をずっと撮っていた。卒業したら僕はルポライターになりたかったので、卒業したら2人で頑張ろうと。もう1人仲の良い仲間がいたので、男3人で東京の練馬に木造の6畳間1部屋を借りて、男3人で暮らし始めました。
――六畳一間に男性3人ですか。
早坂隆氏: 3畳くらいの台所はありましたが、木造のきたないところだった。僕らは皆、夢を追うと決めたから、貧乏もするだろうしお金もないし、一緒に刺激を与え合って頑張ろうと。作家の椎名誠さんが、『哀愁の町に霧が降るのだ』という本を書かれていますが、椎名さんも若い時にイラストレーターの沢野ひとしさんや木村弁護士と一緒に共同生活をされていた。それで一緒にそれぞれ成功して世に出ていった。ああいった共同生活のイメージを抱いていました。
それで3人でワーワー言いながら僕とそのカメラマンは一緒に日本エディタースクールのジャーナリストコースに通い始めました。当時は作家志望といっても仕事なんかない。アルバイトで埼玉の製本所に行ってアジア人に紛れながら本を作っていた。カメラマン志望の友人はとび職をやっていました。去年、彼は小学館ノンフィクション大賞の優秀賞を取りまして、現在その受賞作が小学館から出ています。『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』というタイトルです。その授賞式に選考委員で椎名誠さんが来ていた。われわれはかつて椎名さんにあこがれて共同生活をしていたので、彼が椎名さんに褒められて、メジャーデビューしたということで、非常に感慨深いものがありました。
――その当時はまだ先が見えないわけですが、どのような思いで過ごされていましたか?
早坂隆氏: その後に自分たちで同人誌『旅を思想する同人誌dig』を作りました。僕は一応編集長で友人が専属カメラマンです。「Dig」っていうのは英語で「掘る」という意味です。旅を通じて社会を掘っていくというような、今考えると堅苦しい、20代ならではのテーマでした。
その時代はそれぞれ、不安や心配もありました。「自分で本当にできるのか」っていう思いもあった。でも周りに友人というかライバルがいたから、それぞれ励まし合ったりして、作品に関しても「もっとこうしたらいい」とワーワー言いながら、「お前の写真はつまらない」とかやり合いながら頑張ってきた。仲間というのは集まって、お互いをたたき合いながら、磨き合いながら、成長していく。そういう人間の特性があると思うんです。そこからそれぞれなんとなく、段々と食える様になってきました。いまだにちょこちょこ会って、「お前の新刊がああだこうだ」と言います。だから1人だったらできなかったと思います。