大学時代、インターネットに可能性を見出す
――大学は一橋の経済学部ですね。経済学を選んだ理由はなんでしょうか?
山田祥寛氏: 単純に数学が使えたからです。本当は文学部とかに行きたかったんですけど、理系の親から、つぶしが利かないと反対されて、お互いの妥協点がそこだったという感じです。
――大学ではどんなことを学ばれたんでしょうか?
山田祥寛氏: 経済史の方に進みました。正直なところ、あまり経済をやるつもりがなかったので、結局、文学に近い方面に行ってしまいました。それと、テニスサークルで部長をやっていたのですが、そのころにコンピュータの興味を持って、ちょうど流行になってきたホームページを作りました。
――それまではコンピュータの勉強はされていましたか?
山田祥寛氏: 小学校の4、5年くらいのころ、パソコンでBASICの勉強をしてたんですが、あまり奥深いところまでは行かなかったんです。小学生のレベルでは、実用的なことは結局できなくて、本当に言語として勉強するだけで、あまり面白さは見いだせなかった。大学でコンピュータを再びやり始めたのは、ホームページという実際に使える可能性のある技術に出会ったからです。
――インターネットにはどのような可能性があると感じられましたか?
山田祥寛氏: 自分自身が小説を中学、高校と書いてきたのですが、どうしても限られた友人にしか見てもらえない。ネットであれば自分の書いたものを見せることができますよね。まだあの当時、作品に反応が返ってくることはそれほどなかったのですが、アンケートを設けるとたまにコメントがあったりして、自分自身の発信の場として面白さがあると思いました。社会が変わっていく可能性も感じました。
――大学卒業後はNECに入社されますね。
山田祥寛氏: 大学時代に、コンピュータに興味が出たのでNECに入りました。でもなぜか資材部に入ってしまって、いまいち一貫性がない人生なんです(笑)。資材部の中で何をやりたいかということで、部署のトップの方と面接をしたんですが、新入社員なのに「システム開発がやりたい」って言ってしまったんです。今思うとトップは相当腹が立ったんじゃないかなと思うんですけど、隣にいらっしゃった部長の方が、なんとなくその場をまとめてくださって。蓋を開けてみたら、システム企画をやっていました。
「二足のわらじ」で、睡眠時間は3時間
――初めてのご著書はいつごろ出されましたか?
山田祥寛氏: 書籍執筆は入社1年目です。大学の時にテニスサークルでホームページを作っていたのですが、それだけじゃ面白くないなと、当時最先端のJavaScriptや、VBScriptをホームページの中で仕込んでいったんです。それをどういう風に作ったかというスクリプト紹介のページを別に作って、具体的なサンプルとしてテニスサークルのサイトへリンクさせたりしていたら、それを見た編集者さんから話があったんです。ただ、その当時は物書きで飯を食ってくというのはあんまり考えてなかったんですね。サラリーマンの生活を送りながら趣味の一環として書いていて、もし何かしらきっかけがあったら世の中に出せたら良いなという程度で、二足のわらじとは思ってなかったです。
――その後執筆のお仕事が増えて、スケジュール的に厳しかったのではないでしょうか?
山田祥寛氏: 2002年くらいでは、メインフレームのスパコン系のシステムから、オープン系のJavaを中心としたシステムへの移行が進んでいた時期で、会社から帰るのが毎日終電間際という状態だったんです。家に帰って来たら当然0時を回っていて、そこからパソコンを立ち上げて本を書き始めて、3時、4時まで書き、朝は6時に起きてという感じでした。
――執筆のモチベーションはどういったところにありましたか?
山田祥寛氏: 自分自身の仕事の役に立ったというのはありますが、やはり自分が書いたものが世の中に出ること、自分の力がどんどん充実していくというところに喜びを感じていました。大きな会社にいるとどうしても自分の仕事が、直接の成果として出ることが少ないんです。その対極として、書いたものがそのまま形になるということは、非常に面白いと思いました。
――NECを退職されて専業のライターになる時は、どういったお気持ちでしたか?
山田祥寛氏: 正直に言って、何も考えてなかったです。辞めたのは2003年ですが、その時期には雑誌で記事を書いたり、書籍も何冊か書いて、4時まで起きて6時に起きる生活が1年半近く続いてたんです。会社では、山田は勝手にしてくれていいという感じで、頑張れよとは言ってくれていたのですが、体がもたないだろうというのはありました。会社の仕事も手を抜いてたわけではなかったので、さすがに限界が来て、辞める決心をしました。家内も、こんな生活は止めてくれという感じで、むしろ早く辞めろと言っていたような気がします。
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