電子が広げる社会で「知の交差点」になる
小笠原喜康さんは、「『知る』とは何か」との問題意識から、学校教育、博物館、図書館教育について考える教育学者です。また、情報通信技術の発展にも目を向け、技術を教育に生かす方策を提言し続けています。論文・レポートの書き方を指南する著書でも人気の小笠原さんに、人類の知を豊かにしてきた情報のインプット、アウトプットの意義について、電子書籍がもたらす影響を踏まえて伺いました。
すべての活動の根本は共通している
――早速ですが、小笠原さんの研究、また活動の内容をお聞かせください。
小笠原喜康氏: 私は専門を持たないことに決めたんです。それは、専門という程、教育学は成熟していないからです。また、教育はすごく広くて、いろいろなものにかかわってくるので、専門を持てば持つ程、教育は見えなくなる。ここのところ、ずっとやっているのは認識論で、「わかる」とはどういうことか、知識を持つというのはどういうことか、という様なことを考えています。教育認識論と言っていますが、実はそんな分野はなくて、自分で勝手に作りました。
――博物館教育などにも取り組まれていますね。
小笠原喜康氏: そうですね。博物館についてもやっていますし、全国と新宿区の「図書館を使った調べる学習コンクール」の審査員もやっています。かつ、学会でICT等の新しいメディアを使った教育の能力検定を作ろうとしています。そういったことをやりながら、片方で哲学をやっているのは変だと思うかもしれませんが、私にとっては、すべて完全に同じです。認識論は、プラトン以来、わかるって何だろうっていうことを考えてきましたが、ここ20年くらいの間の認識論とか知識論は、どうやったらより良く知識を組み立てられるか、という方向に行っているからです。
――そのほかの活動では、論文の書き方に関する本がロングセラーになっていますね。
小笠原喜康氏: 論文の書き方も同じです。今おそらく日本で論文の書き方の本で売れているのは戸田山和久さんと、河野哲也さんの本だと思うんですけど、私を含め3人とも認識論をやっています。それに気が付いて笑ってしまいました。戸田山さんは、「ネットを使ってどうやって知識を組み立てるかが、これからの認識論の問題」だと言っていますが、私もその通りだと思っています。
本物の論文はコピー&ペーストでは書けない
――教育に関する政策や行政についてはどのようにお感じでしょうか?
小笠原喜康氏: 自然科学に対する考え方が極端に遅れていると思います。自然科学の人がダメなんじゃなくて、政治家や行政の頭が古い。今ごろ、小学校のころからプログラミングを教えるというようなことを言っていて、バカじゃないのっていう気がするんです。最も大切なことは、自分で知識を組み立てる人間を育てることです。プログラミングを教えれば、良いコンピュータ・プログラムを書けるようになるなどということはありません。
私が携わっているICT検定も、学校の先生がメディアを使って知恵をどうやって組み立てるかという問題であって、コンピューターはただの道具です。そこのところは本末転倒にしてはいけない。インド人は数学ができるからプログラムが書けると言う人がいますが、プログラムを書くのに1番重要なのは忍耐力です。数学は全然関係ない。そして、インド人にプログラムを書かせているのはアメリカ人です。日本政府はアメリカ人を作りたいのか、インド人を作りたいのか、どっちなのかということです。文部行政も政治家も前近代的で、これでは日本の将来はアウトです。私が博物館や、調べる学習コンクールをやっているのも、そういう考えからです。
――調べることや書くことも、デジタル技術の発展で方法が変わっているのではないでしょうか。
小笠原喜康氏: よく新聞記者から「コピペで論文を書く人が増えたことをどう思いますか」と聞かれます。そして、最近、コピペを発見するプログラムができたということでそのことについてコメントを求められたりする。私は「コピペで書ける様なレポートをテーマとして出す方がおかしい」と言っています。「コピペはけしからん」って言ったって、学者が書いている論文も外国の論文を横書きから縦書きにしただけのコピペじゃないか、と言いたくなります(笑)
著書一覧『 小笠原喜康 』