ミステリーから児童文学まで、
自らが読者として読みたいものを「書く」。
近藤史恵さんは大阪芸術大学文芸学科卒業後、1993年『凍える島』で第4回鮎川哲也賞を受賞し作家デビュー、2006年より、母校の大阪芸術大学文芸学科客員准教授に就任。2008年、『サクリファイス』で第10回大藪春彦賞を受賞。推理小説から児童文学、ノベライズから時代物まで幅広く手掛けることのできる推理作家として活躍されています。今回は書き手としての近藤さんに、読書とのかかわり、また電子書籍の未来についてのご意見をお伺いしました。
おとなしい1人っ子で、遊び相手は人形だった。
――最近はどんな作品を手掛けられていますか?
近藤史恵氏: 新刊では、猿若町捕物帳の『土蛍』が出ます。最近は、仕事のかたわら観劇をしていて、先週は東京の新しい歌舞伎座へ行ってきました。歌舞伎も大阪に来たものは大体観ていて、2、3ヶ月に1回ぐらいは上京して東京でも観ています。宝塚も毎公演、1、2回ぐらいは観ております。
――本日は、近藤さんがどのようにして作家への道に至ったかを、幼少期までさかのぼってお伺い出来ればと思います。
近藤史恵氏: 小さなころはおとなしく、あまりしゃべらない子で、本とお人形遊びが好きでした。自分の中で物語を作って、お人形にしゃべらせて、1人で遊んでいました。両親たちにはそれぞれに兄弟がいたので、1人っ子がそうやって遊んでいるのが不思議だったそうです。また私は、レコードをかけたらずっと聞いているような子だったので、「手が掛からない子」と言われていました。
――最初の読書体験はいつごろだったのでしょうか?
近藤史恵氏: 幼稚園くらいには、親に読んでもらわずに絵本を自分で読んでいたので、早かったと思います。
――家には本がたくさんあるような環境だったのでしょうか?
近藤史恵氏: 母が保育士をしていたので、勤め先の保育園からいろいろ本を持って帰ってきてくれました。私が読み終わると返して、また新しい本を持って帰ってくれたので、自分の本以外にもいろいろな本を読むことができました。少し大きくなってからは、毎週土曜日に、近くの図書館に、父親と一緒に本を借りに行って読んでいました。あとは、小さくて薄い本だったのですが、毎月小学校からもらう1冊の本を、とても楽しみにしていたのを覚えています。
――書くことに興味を持ったのはいつごろでしたか?
近藤史恵氏: 高校生の時に、友達とリレー小説をしたり短編を書いてみたりと、部活動の一環でやっていましたが、当時はそれほど真剣ではなかったかもしれません。私は大阪芸大の文芸学科出身なので、大学でも創作の授業がありましたが、研究ばかりしていたので、授業の一環として創作の授業を受けたりはしましたが、それほど興味を持ちませんでした。
新本格ミステリー時代。読者として楽しんでいたら、自分も書きたくなった。
――本格的に執筆を始めようと思ったきっかけは、どういったことだったのでしょうか?
近藤史恵氏: 大学を卒業して、私が就職していたのは1年半くらいです。販売の仕事をしていたので、昼に1時間、夕方に40分といったように、休憩がとても長かった。そういう形態で働いていたので、喫茶店や休憩室で本を読む時間がたくさんありました。そのころ、ミステリーが新本格の時代をむかえ、綾辻行人さんなどが出てらした時で、東京創元社さんからも面白い作品がたくさん出ていました。それで、読者として読んでいるうちに自分でも書きたくなったのがきっかけです。
――デビューに至る経緯は、どのような感じだったのでしょうか?
近藤史恵氏: 最初に書いたのが『凍える島』(第4回鮎川哲也賞を受賞)で、書き始めてから、実際に作家デビューするまでの時間がすごく短かったような気がします。自分の中で『凍える島』のプロットが浮かんだので、仕事が終わってから、父親が買ったパソコンでずっと原稿を書いていました。鮎川哲也賞には誰にも言わずに応募したのですが、「最終選考に残りました」といきなり言われて、本当にびっくりしました。東京創元社の編集の方から、「受賞はしなくても本にしましょう」と言っていただいたのでうれしかったです。その時に、自分が小説を書いているということを、初めて人に話しました。
――初めて書いた作品が編集者の目にとまって、作家として「やっていける」という実感がわいてきましたか?
近藤史恵氏: 「デビューする」ということは、これから継続的に書いていかなければいけないということなので、舞い上がるのと同時に、「これはえらいことになったな」という気持ちも少しありました。デビュー作を書いた時は23歳だったのですが、それまで長い読書歴があったわけでもなく、まだ読んでいない本格ミステリーの有名な作品もたくさんあったので、「自分が作家になっていいのかな」という気持ちも正直ありました。
著書一覧『 近藤史恵 』