佐藤哲也

Profile

1960年生まれ、静岡県出身。 成城大学法学部法律学科卒業。大学生の頃から小説を書き始め、コンピュータ・ソフトウエア会社に勤務の後、1993年に第5回日本ファンタジーノベル大賞受賞作品『イラハイ』(新潮社)でデビュー。 その他の著書に『妻の帝国』『下りの船』(早川書房)など。この2作はそれぞれ日本SF大賞の最終候補となった。 また、『ぬかるんでから』(文藝春秋)、『異国伝』(河出書房新社)など短編集も手掛ける。
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作家として「テキストで何を表現するか」を追求する



1960年生まれ。日本の小説家。成城大学法学部法律学科卒。コンピュータ・ソフトウエア会社に勤務の後、93年に第5回日本ファンタジーノベル大賞受賞作品『イラハイ』でデビュー。奥様は、91年に『バルタザールの遍歴』でデビューした佐藤亜紀さん。長編小説に『沢蟹まけると意志の力』、『妻の帝国』、『熱帯』など、短編集には『ぬかるんでから』、『異国伝』など多数。ユニークなタイトルと一風変わった作風で読者を惹き付ける、佐藤哲也氏の世界観を伺いました。

小説を書く行為を「歯応え」のあるものに


――小説のテーマはどのように決めているのですか?


佐藤哲也氏: プロット(構想)、アイディアがあってストーリーを書き上げるという書き方はほとんどありません。結局波が来ないと書き始めないという感じで、どちらかと言えば「こういう文章を書く」と考えて、表現形式としてテキストをどう扱うかという方向を検討して試行錯誤するケースが多い。テキストの実験台のようなものを山ほど書いては消し、試行錯誤を繰り返し、貫通したから先へ進むといった感じの書き方です。ですから、執筆サイクルも不安定で、自分でもよく制御できていないかもしれません。

――実際に作品を読ませていただいて、いつの間にかぐいぐい引っ張られるような魅力を感じます。どういった仕掛けなのでしょうか?


佐藤哲也氏: 小説とは何かを考えた時、テキストが物語の媒介に終わってはいけないと思ったんです。あくまで「テキストで何を表現するのか」が作家として一番問われているところではないかという思いがありますので、作品毎にスタイル、書き方が変わるので、あまり量産はできません。ある小説で、パロディっぽいテキストをいくつも並べたことがあったのですが、その中のスパイが活動するシーンを、米国作家トム・クランシーの書き方を真似て書いたんです。ただ状況を説明してプロットを展開していくという方法が書きやすくて、「ストーリーを展開するのってこんなに楽だったんだ」と初めて知りました。それだけをやっていれば楽なのですが、多分、それだけだとつまらないと自分でも感じています。「こんな表現があるんだ」と読者を驚かせたい気持ちと、普通に物語を消費するつもりで読み始めた読者が足元をすくわれるような、悪意を込めたものを仕上げたいという気持ちがあります。その辺のところをできるだけ磨いていくのが自分の使命だと考えています。



――佐藤さんは、小さい頃、どのようなお子さんでしたか?


佐藤哲也氏: テレビっ子で、本はあまり読みませんでした。1960年生まれですから、幼稚園、小学校の頃は第一次怪獣ブームで、「ウルトラQ」などを夢中で見ていたので、根っこはB級的でSF的なものにあります。読書で言えば、星新一さんや小松左京さん。小学校高学年から中学校にかけて読みふけって、そのまま行けばSFファンになったと思うのですが、高校時代は脱線してノベルズ系にシフトしたんです。それで、英国海軍を舞台にした冒険小説で有名な、イギリスの小説家セシル・スコット・フォレスターの『ホーンブロワー』シリーズを読み始めたらとにかく面白かった。キャラクターの造形、ディテールの作り込みなど、まさにイギリスの吉川英治といった感じで、小説の密度や面白みが、それまで読んでいたSFとは全く違うし、アイディアも非常に刺激的でした。内容は、19世紀初頭の帆船を扱ったもので、『ホーンブロワー』に続いて『ボライソー』など一連のシリーズが80年代初頭にかけて出ましたので、読み続けました。しかし、高校時代にSFに飽きてきてしまったのと同様に、大学在学中にノベルズにも食指が動かなくなり、大学在学中は小説を読むより、映画作りに熱中していたんです。

――どのような映画を作られていましたか?


佐藤哲也氏: 私はもともと映画好きで、大学在学中は監督・脚本で8ミリ映画ばかり作っていました。60年代から70年代初頭にかけての一番過激なパロディであるモンティ・パイソンの洗礼を受け、それを消化しながら80年代初頭に、自分が出来上がってきたというところがあります。ですから、どちらかと言うとストーリーを正面から捉えるというより、斜めに傾けて表現するという傾向が強くなっていったんです。

表現の形式で素材も変わる


――映画・映像として表現できるものと、テキストで表現できるもの。表現という意味で同じところにありますが、全く別のものなのでしょうか?


佐藤哲也氏: 表現の形式が違うので、素材も変わります。映画を作る以上はテキスト化できない映画を作る、小説を書く以上は映画にできないテキストを書く。テキストにこだわるという点では影響を受けたのはプラトンです。24、5歳の時にたまたま『国家』を読んで、その内容というよりテキストが面白いと感じたんです。プラトン自身が詩人崩れですから、当然何かしら凝った技法を使っていても不思議ではない。その時期からギリシャ中心ですが古典古代の方向に興味の幅が広がって、決定打になったのが古代ギリシャの歴史書『ヘロドトス』でした。洗練されたテキストではありませんが、表現の「自由」を確認させてくれたところがありました。そうしたものを読みながら、20代後半から短編の習作をし始めて、実は短編集『ぬかるんでから』は、デビュー前に書いたものばかりなのです。

――デビュー作でもある、1993年の第5回日本ファンタジーノベル大賞受賞作品『イラハイ』を書かれたきっかけは?


佐藤哲也氏: 家内に、「長編を書いて出したら?」と言われて出したら、日本ファンタジーノベル大賞を取ったんです。ですから、長編を書いたのも、構えがあったわけではなく、なんとなく書いた感じでした。ファンタジーの冠を被っていますが、発表当時はファンタジーファンからは総スカンを食らいました。

――佐藤さんの作品は、何かのジャンルに固定できないと言うか、色々な要素が組み合わさっているから、そう感じるのでしょうか?


佐藤哲也氏: SFからの引用もするし、歴史的な部分も知っている範囲があれば引用する。例えば『夏の軍隊』なども、日中戦争という背景を一応おさえている。それらのイメージを日常性の中に置き換えたらどうなるかという感じで書いたものですが、できるだけ構造的に厚みを持たせ、色彩も多くして、単層のテキストにはしないというのを心がけました。

面白くするためにハードルを高くして「表現すること」を意識する


――初めて作品を書かれたのは、いつ頃ですか?


佐藤哲也氏: 小学校4年生の時にクラブで書いたのですが、本当に、ただストーリーが書いてある、あらすじを書いているだけといったもので、とても読めたものではありませんでした。中学校の時にも、星新一さんの真似をしてショートショートを書いていましたが、何かはっきりした自覚があって書いていたわけではありませんでした。何かを表現しなければという意識が出てきたのは、かなり後になってからだと思います。

――どのぐらいの時期に「表現すること」を意識するようになりましたか?


佐藤哲也氏: 20代で短編を書いていた頃もあまり考えていませんでした。結局、デビュー作の『イラハイ』が、いわゆるヒロイック・ファンタジーの形式をなぞって、脱線して全部裏返った感じになってしまい、その後、企業小説をやってみようというもくろみで書いた『沢蟹まけると意志の力』も、結局モンティ・パイソンのようになってしまった。どうやら、自分が書くと、普通の物語を用意しても全部脱線してひっくり返るらしいということに気がついたのが、30代半ばぐらいでした。その辺りから、テキスト至上主義的なアプローチが段階的に始まってきたのだと思います。多分、表現について考え始めるようになったのは、この4、5年じゃないでしょうか。もともと、小説を書くのがあまり好きではないのかもしれません。だから、小説を書くという行為をできるだけ歯応えのあるものにするために、ハードルをある程度高くして面白くしようとして、それが表現と結合したのが、ごく最近だと思います。

――「書く」行為、「表現する」行為は、佐藤さんにとってどういうものですか?


佐藤哲也氏: 自己表現として1つの方法です。もう少し行動力があって資金もあれば、才能があるかはわかりませんが、映画を作っていたかもしれません。

「本」の形にはこだわらない


――電子書籍に対して、書き手としての思い、ご意見はございますか?


佐藤哲也氏: 私はいいと思っています。私自身は「パブー(株式会社ブクログが提供している個人向け電子書籍作成サービス)」で何本か公開していますし、小説を書く時は、縦書きで成形されていなければダメという話でもなく、普通のエディターで横書きしていますので、読む方もそれでいいと思っています。たまに読者とコンタクトを取ることがありますが、「テキストのデーターが欲しければ送るよ」「勝手に加工して好きなように読んでくれ」というような話もしています。著作権云々の問題に関しては最終的に尊重してほしいと思いますが、読者が読みたいという気持ちに対しては、別に構わないというか、気にしなければならない問題だとはあまり思いません。形式についても、もともと横書きで書いている世界ですから、読者がそれをどういう形で読もうが、問題はないと思います。

――問題は中身だということでしょうか?


佐藤哲也氏: ものによるかもしれませんが、私にはあまりこだわりはありません。むしろ電子化が進行していくのであれば、可変長で読める環境に対応したようなテキストにしておいた方が、読者の可読性や視認性が高くなってくるだろうと考えています。たとえば私はよく1行で字数を揃えて書くのですが、ああいうことはやめなければいけないのかもしれません。

――電子化が普及していくと、書き方は変わってきそうですか?


佐藤哲也氏: 人それぞれだと思います。作家の中には縦書きや原稿用紙のフォーマットにこだわる人もいると思います。あと、実際は、こちらが気にしなくても読者が気にするんです。例えば「パブー」に上げた作品を、自分でテキストを削りだして成形して、製本して「こんな風に製本してみました」と持ってきてくれた読者もいます(笑)。私自身は、完成しても印刷しない人間なので、ゲラになるまで紙になったものを見ることがないからか、「本」という形式にこだわりはなく、ましてや縦書きや紙にこだわっているわけでもありません。もし、作者が書いた状態のままで読みたいのであれば、普通のテキストファイルで読めばいいと思います。ただ、ページや段組み、組版にまでこだわる方もいますから、そこは人それぞれだと思います。

――電子化が進むと書き手のスタイルだけでなく、読者も変化していきそうですか?


佐藤哲也氏: 私の読者は必ずしも電子書籍で読みたがるタイプではなく、意外と保守的だなと感じています。今、いわゆる電子書籍で何が読まれているのかというと、小説よりコミックの方が多い印象を受けます。実際、Kindleでコミックを見てみると、確かに読みやすいですが、小説は、見た時の一覧性、情報量が限定される感じがしてよろしくないです。また、文章中の「注」が見たい場合、その辺の機能は整っているのかどうか。私の場合、電子書籍として読みたいものは、小説でも漫画でもなく、古典や研究書です。それこそ、リンクを押したらパッと地図が出てくるような読み方ができると非常に助かります。

――まだまだ足りない部分が多いですね。電子書籍、電子デバイスの進化に求めるものなのか、それとも、使い分けするべきなのでしょうか?


佐藤哲也氏: とりあえずは使い分けしかないと思います。ブックリーダーにそういった機能を持たせるのはかなり厳しいものがあると思います。Paperwhiteでは厳しそうな気がするけれど、iPadでならできそうな気もします。

――2010年にiPadが発売され「いよいよ電子書籍元年」と言われて久しいですが、普及にはあと何が足りないと思われますか?


佐藤哲也氏: 私は基本的に相変わらず本で読んでいます。「本」という形は、2000年以上変わっていないので、この強さを変えるのは難しいと思います。ただ、基本的には電子化は進むと思います。普通に流通するようなものは電子媒体が中心になって、特別なものだけ紙に焼かれるという感じになっていくでしょう。昔、四つ折版などが一般的だった頃、自分で製本屋に出して自分だけの装丁をしたという、それに近い形になってくるのではないかという気もします。出版社より製本業の方が儲かるようになるかもしれないので、出版と取次は無くなるかもしれません。逆に製本・印刷は特化した形で生き残るのではないかと思います。

的確な批評機能が必要


――編集者は今後どのようになっていくと思いますか?


佐藤哲也氏: 今は、自信を持って何かを出してくるスタンスがないように感じます。これが売れているから同じようなものを、という繰り返しをやっているうちに、劣化してきている気がします。それは昨日、今日の話ではなく、四半世紀ぐらいそれをやっているんじゃないかなと思います。特に漫画がそうで、あるコミック系編集者の話で、漫画家のことを「絵師」と呼んでいるということを聞きました。原作は別に提供されて絵を描くだけといった状態を、いかにも当然のような形で捉えているような雰囲気がある。そうではなく漫画家が必要なのに、なぜそこで「絵師」をたくさん作ってしまうのかがわかりません。それと同じことがもしかしたら小説でも起こっているのかもしれない。だから、今は小説家の数は多いですが、何が売れているのか全くわからない状態なのでしょうか。

――本当の小説家は少なくなっているということでしょうか?


佐藤哲也氏: メディアそのものが軽量化されましたから、ネット上の作家はたくさんいますし、作家が増えるのはどうしようもないです。ですから、漫画でも小説でも、ある作品が提供された時に、批評機能がどう的確に機能するかということが重要になってきます。今の批評は、どんなテキストでも一様な読み方をして、内容を読まないで片付けを繰り返しているようなところがある。本来、批評には、その作品の価値そのものを批評家が読者として向き合って、虚心坦懐に評価をし、自分なりに咀嚼した結果を発表するというプロセスが必要だと思うのですが、今、批評家はそれを一切やっていません。そうしたプロセスを経ないで、「私が読みたかったのはこんなものじゃない」的な批評をしている。そしてそういうのを見て読み方とはそういうものだと思い込んだ読者が、それを真似ている。結果、どんな小説を書いても区別が付かなくなっているので、読者の劣情に訴えかけるような作品と、それとは全く違う行動的なテキストで書かれた作品が、同じ次元で評価されるような傾向があります。Amazonのコメント欄で、私の小説に対して「よくわかんなかった」「最後まで読めなかったから2点」とかいうのがありましたが、評価をするためには最後まで読まなければいけないし、評価をするということは、自分自身の評価観がそこで晒されるという自覚を持たなければいけません。その上での意思表示であるべきなのに、非常に自堕落な風潮が蔓延しているように感じます。

――批評が機能していない状態なのですね。


佐藤哲也氏: 結局、批評家が機能しないのであれば、どんなテキストを出しても評価が与えられないわけです。だとすると、編集者としても売れるものに対して繰り返し再生産をかけていくしかないわけで、冒険できないというのはあると思います。もっと批評がないといけないと思いますが、批評家は専業になりたがるケースが多いような気がします。しかし小説家が持っているパイより批評家が持っているパイの方がはるかに小さいんです。そこへ若い人たちがある種の文筆家になりたいという動機付けで乗り込んでいくと、当然売文家にならざるを得ない。売文業をしていくためには、批評家の中で作られているある種の系統樹の中で自分のポジションを見つけて生き残り戦術を展開しなくてはならなくなるので、その瞬間にその人は批評家ではなくなる。私は純文学とはほとんど接点がないのですが、たまに飲み会に出かけていくと、「この人が話している時にはこちらは格下だから喋っちゃいけない」というような明確なヒエラルキー(階級制)があります。批評家もジャンル系の作家も同様です。そんなに肩書きで威張りたいのならば作家ではなくて、どこかの会社の管理職にでもなった方がいいんじゃないかと思いますね。私の場合は、ジャンルには入れない、ある意味孤高のポジションにいますので、自由にものが言えるし、自分のことをやっていくしかないと思っています。

妥協はしたくない


――佐藤さんが書いていく上で、大切にしていらっしゃることは、どのようなことでしょうか?


佐藤哲也氏: できれば、妥協はしたくないと思っています。ただ、もくろみは高くても、技術的な問題が出てくると妥協せざるを得ませんから、「その問題は次回ね」という感じで、最終的に出来上がっているものは妥協の産物という場合が多いですが。

――最後に今後の展望をお聞かせください。


佐藤哲也氏: 私はブログを持っていますが、そのブログで連載のできるような形式がないかなと考えていますが、意外と難しいです。実はこの1年ぐらい「ゾンビ小説を書きたい」と一生懸命やっていたのですが、一向にゾンビ小説にならないので(笑)、今、違う方向に舵をとり直しているところです。

(聞き手:沖中幸太郎)

著書一覧『 佐藤哲也

この著者のタグ: 『映画』 『表現』 『小説家』 『テキスト』

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