フォアランナーのまま、「国家ブランディング」を展開する。
村尾隆介さんは小さな会社のブランド戦略を手掛けるコンサルタント。14歳で単身渡米。ネバダ州立大学教養学部政治学科を卒業後、本田技研に入社し、中近東・北アフリカのマーケティング・営業業務に携わる。同社退社後、食品の輸入販売ビジネスで起業し、成功したのち共同経営者に事業を売却。その後、スターブランド(株)の共同経営者・フロントマンとして、講演会やセミナーを行ったり、会員制のコンサルティングや、誰でもゼロからブランドづくりを開始できるようにと「小さな会社ブランド戦略キット」を販売するなど中小企業のサポートをされています。主な著書に 『小さな会社のブランド戦略』『だれかに話したくなる小さな会社』『安売りしない会社はどこで努力しているか』などがあります。社会活動にも熱心に取り組み、優れた国際感覚をお持ちの村尾さんの目から見た、日本社会への考察をお伺いしました。
地域業界でキラリと光る会社を生み出す。
――早速ですが、村尾さんの「ブランド戦略」への取り組みを伺えますか?
村尾隆介氏: 約10年前にスターブランド(株)をスタートさせましたが、その頃のブランド戦略はCI(コーポレート・アイデンティティ)ブームもあってロゴを作ることや印刷物をきれいにすることがブランド戦略だという捉え方が多かったのです。そんな世界に一石を投じるために、会社のロゴの4つの星が表している、僕の共著パートナーである浜口(浜口隆則さん)を含む4人のメンバーが集まって、地域業界でキラリと光る会社を生み出していくために、小さな会社専門のブランド戦略のコンサルティング会社を作っていこうというのが始まりでした。「みんなで盛り上げていこう」というつもりでやってきたので、今、たくさんの会社が同じ産業に入ってきて下さって、その中のリーディングカンパニーとして皆さんにリスペクトしていただき、非常にうれしく思っています。
――どのようにして今の道に至ったかというのを幼少期からお聞かせ下さい。読書遍歴も含めて、村尾さんはどのようなお子さまでしたか?
村尾隆介氏: 幼少期の僕はない物を作っていくというのがとても好きな子どもでした。例えば自分で新しいグループを作っていくとか、「こういうのがあったら面白いんじゃないの?」ということでゼロから始めたりということをよくしていました。学級委員や、生徒会など、常にグループのリーダーだったという記憶があります。
高校生になったら、1人で海外に行かなければならないという環境。
――渡米されていますが、ご自身で決断されましたか?
村尾隆介氏: 僕の家は普通の日本の核家族でしたが、高校生になったら、1人で海外に行かなければならない、という教育方針でした。姉も高校1年からアメリカの方に行っていましたし、僕は中学2年の時、14歳の時から海外に行くことになりました。毎年サマースクールのようなところに行って、海外でちゃんと生活できるかどうか夏休みを使って試されていたんですが、自分で大丈夫そうだと思ってそのまま残りました。今だったら怖くてやらないなと思いますが、当時はあまりリスクも考えなかったのかもしれません。
――どうしてご両親は、「海外に行かせよう」と決められたと思いますか?
村尾隆介氏: その頃は日本はバブルの時代でしたが、「長く続かない」と両親は冷静にあのバブルの時代を見ていて、世界のどこへ行っても普通に生活でき、職業も仕事も自分で作れる人になってほしい、0から1を作れる人間になってほしいということで、高校1年から海外に行かせるという方針にしたようです。たまたまそれが、今の日本にフィットしたんだろうなと思います。もともとうちの母親が非常に海外志向が強く、国際人であってほしいというのもあったようです。
14歳から「自分ブランド」の確立を図る。
――14歳からの海外生活ではどのようなご経験をされましたか?
村尾隆介氏: 中学2年の日本人の男の子が、いきなり白人の世界に入って生活するという状況でしたが、すぐに言葉は上達しない。そこでまず、「自分ブランド」のようなものを、学校の中で確立できる方法を自分で考えました。僕が思いついたのは、何を聞かれても、全部日本語で返して最後に「ベイベー」をつけようということでした(笑)。周りが笑ってくれるだろうなと思って、やり過ごしていたら、「日本から来た奴は面白い」という評判になったようです。みんながそうやって笑っているうちに、英語の方をなんとかするという個人ブランド戦略。自分が「個」として、このグループの中でどう存在感を出していくかということを、14歳の頭を振り絞って考えました。
――その経験が今のお仕事に繋がっているのでしょうか?
村尾隆介氏: ブランド戦略とは、ある意味その地域、業界、グループの中で圧倒的な差別化をしていくための戦略でもあるのです。僕は昔から自然と「このグループの中で自分は何をやったら目立つか」ということをよく考える子でしたので、僕はこの仕事を天職だと感じています。
ビジネスの世界を知ってから政治家になるのも悪くない。
――その後日本に帰られて就職するわけですが、就職する時はどのような感じでしたか?
村尾隆介氏: 僕は日本で社会人デビューしてまだ14、5年です。僕は大学でも政治を勉強していたので、その後も政治の道に進もうと思い、ワシントンD.C.の日本大使館などからも内定も受けていました。大使館で働いて、日本に戻ってから代議士秘書、その後に政治家になろうということしか僕は考えておらず、ビジネスは全く頭にありませんでした。
――その考えが変わるきっかけはなんだったのでしょうか?
村尾隆介氏: 「うちに来てほしい」と本田技研にたまたまスカウトされたことです。大使館に決まっていたこともあり、最初は断っていたのですが、だんだんとビジネスパーソンから政治家にはなれるけれど、政治家はビジネスパーソンになれないなと思うようになりましした。世の中のほとんどはビジネスに絡んでいる人なのだから、そういう世界を知ってから政治家になるというのも悪くない。10年間だけ一般企業で経験を積もうと思って、本田技研にお世話になることに決めました。それからあっという間にもう15年経ってしまったので、今は延長戦です。
――会社を立ち上げることにしたのは、どういった経緯からでしょうか?
村尾隆介氏: 本田技研で4年間勤めて、ビジネスが非常に面白くなってきたので、僕はこの「ホンダ」という名刺がなくてもビジネスの世界でやっていけるか、というのを試してみたくなり、自分で事業を興しました。サプリメント業界で最初は起業して、しばらくしてからテレビ、ラジオ、雑誌などたくさんのメディアに報じていただいた時に、それを見た全国の経営者から電話で、いろいろと依頼をいただくようになりました。それがあっという間に今の状態になったので、サプリメント事業を売却し、もう1回形を整え直しました。その時、事業の成功の理由を考えたのですが、「小さいながらもブランドを作って、サプリメントを少し特別なものにした」ということを発見しました。小さな会社にも「ブランド戦略」という考え方は必要なので、自分が着手しようと思ったのが起業のきっかけです。それがちょうど10年前のことでした。
自分を支えたのは使命感。
――この10年を振り返ってどのような思いがありますか?
村尾隆介氏: 最初の頃は、「敷居が高いもの」、「大企業がやるもの」と言ってなかなか理解されませんでした。でも講演、セミナー活動を全国で続けてきて、売り上げのためだけではなく、「地域・業界でキラリと光る会社ならスタッフが喜ぶ」「スタッフのためにやろう」という啓蒙活動を続けてきて、次第に本もたくさんの方が読んでくれるようになり、今に至っています。スターブランドの10年の歴史のうち、最初の7年は啓蒙でした。
――すぐに理解をされる方は少なかったそうですが、それでもめげなかった理由は?
村尾隆介氏: 使命感があるのかもしれません。世の中のほとんどの会社は小さな会社で、社員も我慢しているからなんとかなっているという、この悪循環はなんだろうと僕は考えました。自分の勤めている会社が、その地域・業界で「スモールジャイアント」と言われるような存在で、そこの勤めていることに誇りを持つスタッフがいたり、その会社について「どんどん継がせていきたい」という経営者が多くなっていけば、世の中が変わるだろうと思っています。僕の仕事が社会を明るくしていく、社会全体のためという、より大きなビジョンを持って仕事に取り組んできたからこそ、めげずにここまでこれたのだと思います。より大きなビジョンやミッション感を持っている会社の考えや方針は、ホームページを見ても分かるように、自然と透けて見えるものだと思います。
――お仕事をされるにあたって、心の支えとなっている本などはありますか?
村尾隆介氏: 僕が学生の頃から繰り返し読んでいるのは、落合信彦さんの、『極言』という本です。それからダニエル・ピンクの『フリーエージェント社会の到来』。ダニエルが「フリーエージェントとしてどこでも生きていけるような、そういう働き方の世界になっていく」と10年ぐらい前に言っていましたが、今まさにそういう世界になっていて、僕の今の働き方の根本は、この本でできているのだと思います。もう1冊は『アホウドリの糞でできた国―ナウル共和国物語』という大人の絵本のような本です。実際にあったナウル共和国の話が非常にコミカルに書かれています。これは短期的な戦略よりも中長期的な戦略の方が大事なのだということを伝えてくれている本です。短期的にサプリメントの事業で成功した時、僕には成功した中でもいろいろな悩みがありました。そんな時に共著パートナーである浜口からプレゼントしてもらって、「成功することと成功し続けることは違う」ということをこの本から教えられました。この3冊が僕の礎になっている本だと思っています。
周りの全てのものから学ぶものがある。
――最近読んだ本で印象に残っている本はありますか?
村尾隆介氏: ビジネス書ばかり読んでいる人は漫画を読まない人が多いので、僕は職業漫画を勧めたいと思っています。その職業だけに特化した漫画が今は多く、内容も細かい。『匠三代』という漫画がありますが、真面目な家作りしかしないというポリシーを持った小さな建築会社の、ファミリービジネスの話なのですが、これを通じて家作りや小さなハウスメーカーのあり方などを僕は学びました。『とろける鉄工所』という鉄工所の漫画も読みました。僕は今、鉄工所のコンサルタントなどをやっているんですが、スムーズに仕事に入れているのは『とろける鉄工所』を僕が熟読しているからかもしれません。鉄工所の日々の生活が綴ってあるんですが、作業中に飛び散る火のことを「スパッタ」と呼ぶことを知りました。「火の粉、大変ですね」と言うのと「スパッタ、大変ですね」と言うのでは大きな違いがあって、「こいつ、知ってる」と目の色が変わるんです。
――漫画も密接に取材されているので、参考書という感じですか?
村尾隆介氏: まさしくそうです。弁護士漫画、獣医の漫画、医者の漫画。僕はドクターのお世話をすることもありますが、麻酔医だけに特化した『麻酔科医ハナ』という漫画があってそれを読むと、麻酔医の苦労が少し分かったりします(笑)。最近、活字で読んだのでは、大前研一さんの『最強国家ニッポンの設計図』です。彼はコンサルタントをされながら、国づくりのことをたくさん提言されている方で、大前さんの本は僕は全部読んでいると思います。もう1つは、ビジネス書ではありませんが、町山智浩さんの『教科書に載ってないUSA語録』という本です。アメリカのニュースなどで出てくる最新のアメリカの言葉から、世界の流れを読み解くという内容で、学ぶところが多かったです。それを読むとアメリカのビジネスの動向も分かりますので、英会話の本と捉えず、ビジネス書として読んでほしいなと思います。
――村尾さんにとって周りにあるもの全てが勉強の材料になるという感じですね。
村尾隆介氏: よくセミナーや講演でも、「初めての土地に行った時、タクシーの運転手さんと話して、何が困っているのか、この土地で最近何が問題なのかを聞いてくれ」という風に言っています。
本は薬。だから共有する。
――村尾さんにとっての本というのはどんな存在ですか?
村尾隆介氏: ビジネス書やノンフィクションの本というのは、「薬」だと僕は考えます。人がふと立ち止まって本を手に取るのは、その方が悩んでいるキーワードが帯やタイトルに書いてあるからなのです。ドラッグストアで「最近目が乾く」という人が「渇き目、ドライアイに」という表示があるものを手に取る。ドライアイを治すためにそれをレジに持っていくのと同じです。何かしら困りごと、悩みがあって、それを解消したり軽減したりするため、もしくはそのヒントや治る糸口を見つける手段の1つが本だと思うので、僕は、本をプロデュースする時に「書店と薬局は似ているのだから、自分の半生記や自分の好きなことを書くのはやめてほしい」と言います。自分が持っている薬を「本」という形で差し出す。それを棚に置いてもらうという製薬会社だと自分のことをそう位置づけていますし、逆を言えば、本は、自分が悩んでいたり、元気がない時に元気をもらう存在だと思っています。
――本を書く時はどのような思いで書かれていますか?
村尾隆介氏: ノウハウなどは隠していいと言われることもありますが、僕のように小説家ではなく、本業がありながら執筆をしている人間にとって、本を書くことは、自分が知り得ていることを、必要としている人に差し出していくという、社会貢献活動でありシェアだと思っています。自分がここまで溜めたノウハウを「いったんここで公開します」という気持ちで書いています。根本に本は「薬」だという考えだから、出し惜しみしたら効能もありません。
同じチームで2冊以上出版する。
――村尾さんにとっての理想の編集者とは、どのような人でしょうか?
村尾隆介氏: 僕は、一出版社、一編集、一営業。同じチームで必ず2冊以上出すというのをポリシーにしています。でも、同じ会社から前と同じチームでもう1冊出すためには、1冊目が商業的にも成功していなくてはいけないのです。ですから、基本的には一番最初にお会いした時に、「この人とは2冊以上出せそうだ」と感じた人と仕事をするようにしています。長い文章を書いていると書き詰まりますから、そういう時にブレスト役を務めるのも編集者だと思っています。編集者の中でもブレスト役がうまい人とそうでない人がいます。「ほら、あの映画のあのシーン」「ありますね」というような会話が繋がる人が、ブレスト役として僕は最適だと思っているので、最初の初対面の時にそういう会話の盛り上がりがあるかどうかを重視します。
――そういう意味では、その編集者というのは「一緒に走る」存在ですか?
村尾隆介氏: もちろん男性の編集者もいますが、僕は編集者は恋人だと思っているところもあるから、女性の編集者に担当してもらうことが多いです。少なくとも数年は運命を共にしていくので、プライベートでも会って食事をしたいなと思うかどうかという点も重要なのです。あとは、表紙やイラストなど少なからずデザイン面もありますので、そのセンスも必要です。持ち物や着ている物で、だいたいその人のセンスが分かりますから、そのセンスが自分と合うかどうかというのも考えます。
好奇心と行動力を持ち続ける。
――村尾さんは電子書籍を利用されていますか?
村尾隆介氏: 僕はよく電子書籍を読みます。僕は出張が多く、毎日新幹線、飛行機の世界なので、チェックインぎりぎりで本も雑誌も持ってないという時に、ダウンロードして読んでいます。電気を消しても読めるので、最近は、寝る前に漫画もダウンロードして読んだりもします。『ベクター・ケースファイル』という昆虫に関する漫画を読みましたが、すごく面白いです。ほかにも『フリー <無料>からお金を生み出す新戦略』を最近電子書籍で読みました。
――いろいろなものに興味がおありですね。
村尾隆介氏: いろいろなことに前のめりというか、興味、好奇心と、行動力や行動範囲の広さはすごいかもしれません。知らないことがあれば、すぐに聞いたり、ダウンロードしたり買ったりします。30代になってくると、好きなものにしか興味がなくなるのかもしれませんが、好奇心と行動力、これを失わなければもっといろいろなことができるのかなと思います。出張や移動が多いからこそ、電子書籍はとても便利だと思います。出張しながら冊数の多い漫画を読まなければいけないという時には電子書籍は便利だと思います。最近は、飛行機の機内でも国際線ならば電子書籍の漫画などを、前の画面で読めるようになりました。今後はそういう使い方や読み方がもっとはやってくるでしょう。
メッセージを伝える手段は、何通りもあってよい。
――電子書籍で読むことに対しての、書き手としての思いをお聞かせいただけますか?
村尾隆介氏: 僕はいろいろな形があっていいと思います。支払いの形がeコマース、振り込みや着払いなどといろいろあるように、1つのメッセージを伝えるのに、電子書籍、オーディオブック、紙、さらには、イメージに合う写真も加わった写真集版といった形、世界に届けるためにショートフィルム化してネット上で発表するという形もあるわけです。「ワンコンテンツ・マルチユース」という考えで、僕はアイディアやメッセージがいろいろな形で出て行っていいのだと思います。障害を持っている方もたくさんいるわけですから、そういう方に届く方法ということもメッセージを発信する段階、例えば著者ならば、書いている時から考えていくべきだと僕は思います。だからこそ、どの媒体もゼロにはならないと僕は思っています。
――それぞれの特性を活かすということですね。
村尾隆介氏: このコンテンツは電子書籍、これは写真集、これはオーディオブック向きなど、それぞれの特性に合った方法で発信されるようになると思います。セルDVDが普通のDVDだけに特化したコンテンツになっているように、今後は住み分けが進むと思います。僕にも「電子書籍だけで発表したい」と思うものもありますし、ページをめくったら部分的に動く、震えるなどという電子書籍ならではの技術も出てくれば、著者も「こういうコンテンツを電子書籍で試してみたい」という風になっていくと思います。
対立している間に取り残される日本。
――あくまで選択肢が増えるということでしょうか?
村尾隆介氏: 対立構造は必要ではありません。僕らの「小さな会社のブランド戦略」に関しても、表敬訪問をされた時に真似されることに難色を示すのではなく、「みんなで盛り上げていこう」と僕が言ったのと同じで、そこで対立する必要はないと思います。紙でも電子でも、みんなで「この著者はいいことを言っているのだから、みんなでメッセージを広げていこう」というスタンスがいいと思います。
――対立ではなく、協力関係が望ましいということですね。
村尾隆介氏: 僕のように普段から日本人以外に触れ合う機会が多いと、日本がどれだけ置いていかれているかよく分かります。「ジャパンバッシング」から始まり、「ジャパンパッシング」、今はもう「ジャパンナッシング」とすら言われています。僕は日本の新聞ではなく海外の新聞を読んでいますが、アジアならば日本ではなく台湾や韓国の話題が出てきます。本来ならば日本がとるべきだった「国家ブランディング」戦略に関しては、韓国はここ5年ぐらいは目覚ましいものがあったと思います。だから、日本でささいなことでいがみ合っている状況というのは、中近東などの国々における内戦と全く同じだと僕は思っています。内戦がおこっているうちに、どんどん世界は先に進んでしまう。だからそういう対立構造ではなく、一緒に進んで行こう、盛り上げていこうという、そういう感覚は書籍の世界でも僕の仕事の世界でも必要なのです。電子であろうとなかろうと、「活字」という世界、もしくは「知識」や「教養」という世界で盛り上げていけばいいという僕の思いに耳を傾けてほしい、そしてもっと未来の方向へ目を向けてほしいと願っています。
――書き手としてのお立場から、今後の出版社や編集者の役割については、どうお考えですか?
村尾隆介氏: 僕の本も台湾や韓国、中国本土では出ていますが、これからは、もっと英語圏にチャレンジする日本の著者がもっと増えてほしいと思っています。日本の良質なコンテンツを、英語圏の人にも伝わるやり方を確立するのが、電子書籍の会社や、出版社のするべき大きなチャレンジではないでしょうか。漫画だけでなく、日本のビジネス書や自己啓発本も、英語、スペイン語、イタリア語、フランス語で出版された時に、日本の存在感や日本の知識人のあり方がまた変わってくると思います。ですから、出版社と、英語ができる著者に、英語で伝えていくというチャレンジをしていきましょう、と僕は提案をしたいです。英語で出版するのには、いろいろなハードルがあるとは思いますが、電子書籍などいろいろな発表の方法があるので、僕はこの状況を変えていく一翼を担っていきたいと思っています。
――そのように考えるようになったきっかけはありますか?
村尾隆介氏: ジョン・ディマティーニは、ダイヤモンド社から『ザ・ミッション』という本などを出していて、世界を220カ所くらい講演で回っている、自己啓発の権威で世界的な著者なのですが、彼が来日した時に、一緒に朝ご飯を食べる機会がありました。その時に、彼から僕のこれからのスケジュールを聞かれて、次の講演は名古屋だと答えた時、「僕はこのあとテヘランで、すぐホノルルで講演だ。名古屋ならばここから2時間。それだけ英語ができて、本も売れているのに、日本で小さく講演をやっている。おまえはそんな小さな人間じゃないだろ?もっと世界に出て行かないと絶対だめだ」と言われました。彼はその後もメールなどで、出版社などを紹介してくれて、その時、僕の心が動きました。僕自身に、「もっと英語圏でチャレンジしていこう」と思わせてくれたのは彼ですので、僕はジョンに感謝しています。
これからは社会作りの専門家へ。頑張る姿を見てほしい。
――今後の展望をお聞かせ下さい。
村尾隆介氏: 僕は10年間かけて小さな会社のブランド戦略という産業、世界を作ってきたと自分で思っていますので、まずはそのクロージングをしたいと思います。僕が書き残したと思う小さな会社のブランド戦略の本を出して、いよいよ国家ブランディングの本や国のブランド戦略の本を手掛けていきたいです。小さな会社のブランド戦略の重要性を、経営者などの影響力のある人たちにまずは認識してもらい、最終的には「国自体のブランド化」の意義を認識してもらうために、10年計画でやってきました。10年という節目を迎え、これからは「全てはこのためだった」という僕の行き着く姿を見せていきたい。次世代の人が、自分で自分の仕事を作り頑張っている僕の姿を見て「使命感を持って頑張ればできるんだ」という勇気を持ってくれたらうれしいです。そのためにも、後ろで構えてメッセージだけを届けるのではなく、いつまでもフォアランナーとしてビジネスの最前線にいるという「現場感」を大切にしながら、これからは、ビジネスから、社会づくりの専門家という顔を大切にしていきたいと思います。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 村尾隆介 』