やりたいことしかやってこなかった
――幼少期はどのようなお子さんでしたか?
米倉誠一郎氏: 自分ではよく覚えてないのですが、家にお客さんが来て、うれしくなってホースで家中に水をまいたり、前の家に住んでいるおじさんが育てていたバラを、全部切り落としたり、という悪がきだったそうです。小学校6年生の時に少年少女世界文学全集を読んで「本って面白い」と思ったのですが、中学でビートルズに出会って「世の中にはもっと大事なものがある、それは愛と平和だ」と思い、本どころではなくなりました。中学校1、2年の時に彼らに出会って「男でも髪伸ばして良いんだ、世界は自由なんだ」と感じました。僕にとっては、その「自由」との出会いはすごく大きかったです。
――教育には熱心なご家庭でしたか?
米倉誠一郎氏: 全然違ったと思いますが、成績表の時だけ怖かった記憶があります。小学校の時は、体育の5以外は全部3。中学に入ってからは成績が良くなって、大体クラスで1、2番。どちらかというと文系で、数学は嫌いでした。でも、僕は芥川龍之介が好きで、彼が東大の数学科に入れるくらい数学が得意だったので、「数学ができない人は小説は書けない」と思って、見栄を張って数学は隠れて一生懸命やりました。
――都立戸山高校に進まれましたが、高校ではどのようなことが印象に残っていますか?
米倉誠一郎氏: 戸山高校で出会った担任は、私小説で有名な中石孝先生で、当時小説を3冊くらい出していました。中石先生も本当に自由で、生徒を大人として扱ってくれました。ホームルームをやっていると、僕の席に来て小さな声で、「米倉、お前ジタンって知ってるか?やっぱりフランスものは良いな」などという話をしてくれたりする。僕も小説家になろうと思っていたので、当時は手当たり次第に本を読んでいて、その先生に、「僕も小説家になりたい」といって書いたものを持っていったら、その場でびりびりと破られました。戸山高校では、つまらない校則や制服もなく自由でした。自分にとって一番大事なのは「精神の自由」で、それが全ての源と僕は思っています。いまも、その精神の自由を共有してくれる一橋大学イノベーション研究センターで職を得ましたので、ラッキーでした。考えてみると、今まで本当にやりたいことしかやってないんです。
同級生、恩師との刺激的な出会い
米倉誠一郎氏: 文藝春秋で「同級生交歓」という企画があって、戸山高校の同級生の大学教授や判事、にっかつロマンポルノの風祭ゆきなどが集まったことがありました。戸山高校には「検定教科書なんか使えるか」と自分で作ったガリ切りの教科書を使っていた、数学の武藤徹先生がいました。その同級生や先生のことについて文章を寄せましたところ、つい先週のことですが、武藤先生から突然手紙をもらったんです。先生はお元気で、89歳になって「今度本を出すんだ」とその手紙に書かれていました。先生は小柄で本当に穏やかな人なのですが、ガリ切りの教科書を使っていたような人だから、生徒が校則にしばられたりしている今の状況を、非常に憂えておられます。以前、戸山高校が進学校のようなものに指定されたことに対して、「高校は進学するためにあるんじゃない」という怒りの本を書かれました。その時、僕が文藝春秋に書いた文章を友人が送ってくれたようで、その中で僕が使った「きらめく知性、精神の自由」という言葉を自分の本のタイトルにつけてくれたことが、すごくうれしかったです。
――一橋大学に進学されたきっかけはどういったことでしたか?
米倉誠一郎氏: 僕は高校ではアメリカンフットボール部でクオーターバックをやったり、音楽にのめり込んだりで、勉強をしなかった。それで、高校3年の模擬テストで男子は150人位いて、149番で、びりから2番目と思いきや、150番は病欠ということがありました。それで浪人したわけなのですが、僕は芥川龍之介が好きだったので東大志望でしたが、夏に、会計士志望の友達が一橋大学のことを教えてくれました。聞くと、一橋は午前中が試験で、東大の文1は午後が試験だから両方受けられるということで一橋を受けることにしました。
――大学時代はどのような学生でしたか?
米倉誠一郎氏: イカのような長髪をしてバンドとバックパッカーをやって、遊んで暮らすといった感じで、いわゆるヒッピーでした。4年の夏にバックパックの旅から帰ってきたら、同級生たちは就職活動に走り回っている。ちょっと見てみるかと思って、イカ頭のまま試験を受けました。どの企業を受けたのかは忘れましたが、採ってもらいたいとも思っていないから、僕は言いたいことだけを言って帰りました。すると、いきなり重役面接ということになって、はじめて「自分は本当に何がしたいんだろう」と考えました。やはり教職だという結論に至って、大学に残ることを決心しました。
著書一覧『 米倉誠一郎 』