川島蓉子

Profile

1961年、新潟市生まれ。早稲田大学商学部卒業、文化服装学院マーチャンダイジング科終了。ifs未来研究所所長。 ファッションという視点で消費者や市場の動向を分析し、アパレル、化粧品、流通、家電、自動車、インテリアなどの国内外の企業と、ブランド開発・デザイン開発などのプロジェクトを行う。多摩美術大学非常勤講師。Gマーク審査委員。 読売新聞で「くらしにごぼうび」という週刊コラムを連載。その他、日経MJ、ブレーン、日経トレンディなどに定期的に寄稿。 著書に「伊勢丹な人々」「イッセイミヤケのルール」(日本経済新聞社)、「ユナイテッドアローズ」(アスペクト)、「川島屋百貨店」(ポプラ社)、「虎屋ブランド物語」(東洋経済新報社)など多数。

Book Information

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未来には希望があると、すべての人に感じてもらいたい。



川島蓉子さんは、早稲田大学商学部卒業後、文化服装学院マーチャンダイジング科を修了し、伊藤忠ファッションシステム株式会社に入社、現在、ifs未来研究所所長として、ブランド開発やデザインなどのプロダクトを手掛けていらっしゃいます。また、著者としても『エスプリ思考 エルメス本社副社長、齋藤峰明が語る』『伊勢丹・ストーリー戦略』 『資生堂ブランド』『モノ・コトづくりのデザイン』など、デザインやブランドについての著書を多数執筆されています。今回は川島さんに、ものづくりについて、また時代を見るその視点についてインタビューさせていただきました。

ifs未来研究所所長となって


――どういったことがきっかけで、今のお仕事をすることになったのですか?


川島蓉子氏: 未来研究所という部署は、この4月に立ち上がったばかりです。私が大学を卒業してから伊藤忠ファッションシステムという会社に入り、29年目になりましたが、51歳になった今、物書きを主軸に働きたいと思い、会社に辞職したいという話をしたんです。すると「最後にやりたいことはないか?」と言われ、今の時代は、未来研究のようなことが大切じゃないかと思ったので、「未来研究所みたいなことをやらせていただけるならば、最後のご奉公として頑張りたい」と言ったんです。ありがたいことにその提案を引き受けてくださりました。

――社名に未来というタイトルを付けたのは、何か理由がございますか。


川島蓉子氏: 私の仕事の半分は、企業とプロジェクトをしていくことですが、だいたいがブランドを強くしたり新しいブランドを作ったり、世の中ではいわゆるブランディングと言われているお手伝いです。内情はそんなカッコイイことではなく、企業の悩み相談みたいなところがあります。最近の悩み事は、経費節減などもあって、新しい開発に対する余裕がなくなってきていることと、組織が縦割り組織で細分化していて、横の人が何をやっているのかわからなくなってきていることです。全然違う企業の人とコラボレーションしてみたいんだけれど、どうしていいかわからないとか、よく聞いていくと、未来に対する希望が薄くなってきている感じがしていました。未来というのは、1秒先から全てです。そこに何か希望を抱いていれば、人は前に向かって進めるけれども、どうもそれが止まったり閉じたりしている感覚があった。それを、未来は希望があって、明るくて、豊かになっていくものだという風に、人々の気持ちを変えたいという思いがあったんです。

――今はどのようなプロジェクトが行われていますか?


川島蓉子氏: 未来研究所の準備に入ったのが昨年度の秋ぐらいからで、まず、全く職種の違う外部メンバーでチームを組もうと思いました。職種の違う人たちが一緒になったら、化学反応が起こるに違いないと思ったからです。プロダクトデザイナーやデザインエンジニア、建築家、ジャーナリストなど7名集めました。コンセプトは、「7人のサムライと川島組長」です(笑)。次世代の人に中心メンバーになってほしかったので、中心メンバーは30代です。彼らと一緒に未来に向けて明るく豊かな提案をいろいろな形でしていきたいと思っています。

未来研の来年の研究テーマは「不便だけれども快適なもの」



川島蓉子氏: 来年の春に発表する年間研究テーマは、「不便だけれども快適なもの」です。

――不便だけれども快適なもの。全く両極端な言葉ですね。


川島蓉子氏: 人類は、便利で快適なものを求めて日々進化してきたつもりだけれど、ボタンが多すぎて使い切れないリモコンや、早く閉まりすぎて困る自動ドアとか、面倒くさいものがいっぱい増えてきている。どこが一番快適か、どこまで便利になることが未来かということを考えてもいい時期なのではないかと私は思っています。「快」と「不快」も人によっては、はっきりとボーダーラインをひけるものではない。だから世の中への提言としてそういうことを投げかけてみようということと、できればそれを企画書ではなくて、わかりやすい形で皆さんに伝えていこうという風に思いました。それで、私が話した趣旨を世の中に知ってもらうために、お披露目会を開催しました。意外と外部からの反響がよくて、進んでいる方向は間違っていないという風に感じています。

運命を変えた早稲田合格


――新潟のご出身ということですが、どんな幼少期だったのでしょうか。


川島蓉子氏: 日本の高度経済成長期の1961年生まれで、スポーツはできないけれど、お勉強はできる子でした。一人っ子ですから、大人が何を言ったら気に入ってくれるかわかっていました。キャラクター的にはおてんばだけれどまじめな級長といった感じですね。あとはおしゃべりが大好きでした。

――デザインやファッションに関して、ご両親からの影響はありましたか。


川島蓉子氏: 母は服が好きな人で、その影響で私も小さい時から、チラシをコラージュして服を作ったり、祖母の家にいくと、はぎれを縫って何かを作ったりするぐらい服が好きでした。中学・高校と新潟で過ごし、制服が大嫌いだったので制服を着ないために中学受験、高校受験をしました。お金がなかったので布を買ってきて全部自分で縫っていたぐらい服が好きで、服飾の道へ進むために、ファッションの専門学校に通おうと思っていました。

――大学は早稲田大学に進まれていますよね。選んだ理由はなんだったのでしょうか?


川島蓉子氏: 一人暮らしで田舎を出たいと思っていましたが、洋服の学校を選んでも、将来食べていけないと反対されました。受験先として唯一OKが出たのが、お茶の水女子大の被服科だったのですが、受験のリハーサルとしてダメもとで受けた早稲田の商学部へ通うことになりました。しかし、ファッションなどに疎い大学だったので、オシャレ談義をするような友達ができず、「ファッションの話をするには、どうすればいいんだろう」とすごく悩んだのですが、大学3年生の時に、文化服装学院の別科を見つけ、週に1、2回学べるコースに行きました。通い始めると面白くて、昼の大学を辞めてそちらに入り直そうとしたら親に泣かれましたので、仕方なく両立しました。就職の際も大反対されて、唯一許しが出たのが、伊藤忠ファッションシステム。当時は大嫌いな制服を着て、お茶くみや電話番をしていました。そんなところから私のキャリアは始まっています。文化服装学院に通って服を縫ったり作ったりという方法も学びましたが、あまりそこでは褒めてもらえなかったので、自分にクリエイティブな才能はないかもしれないということがわかりました。そこで考えたのが、商学部とファッションを結びつけるとすると、たぶんマーケティング的な領域だろうなということでした。当時は80年代ポストモダンというのがもてはやされた時期です。あの頃は建築もプロダクトもファッションもつながりそうな気配があって、そういうことを仕事にしたいと思いました。

文章を書くのは昔から好きだった。


――いつ頃から、ものを書くことに興味をもち始めたのでしょうか?


川島蓉子氏: 小さい頃から本が好きで読んでいました。空想癖もあったんでしょう、1人で物語を書いたりもしていました。

――本を初めてお書きになるきっかけというのはあったのでしょうか?


川島蓉子氏: 転機になったのは、会社が25周年を迎えた、36歳くらいの時です。その時の社長に、「25周年記念で本でも出すか?」と言われて、なんだかわからないけど「私がやります」と手を挙げたんです。その時はやるということを選び取ったんです。ところが、どうやったら本ができるかが全くわからないので、とりあえず本屋さんに行って、ビジネス書を買いあさりました。出版社にも電話をかけて、この本の編集者を出してくださいと言って、「こんな企画がある」と売り込んだりもしました。当然ながら撃沈ですよね。ですが、PHP研究所の人に「企画はダメだけど、あなたは面白いから、一回本でも作ってみましょうか」と言われ、苦労しながら作った本が1冊目です。「業務以外の時間でやる分には構わない」と会社に言われたので、その後も続き、10年かけて7冊ぐらいの本を作りました。そのうちに編集者から「もうちょっと違う観点でやってみましょう」と提案がありました。「何がいいですか?」と尋ねると、「企業物みたいなものをやってみませんか」と言われて、「ビームスならやりたいです」と言い、44歳の時に『ビームス戦略』を書きました。その後、伊勢丹についての本も書き、以来、ずっと書き続けているという感じです。これはもう編集者の力ですね。

――ビームスの本を書いた時は、どういった執筆スタイルだったのでしょうか?


川島蓉子氏: ビームスの企業というよりは設楽社長の人柄に大変惹かれていたので、社長へ取材を申し込もうとしました。でも最初は電話をかけてもつないでもらえませんでした。16、17回かけたら、さすがに根負けされまして「本の話はお断りしますけれども、よろしければいらしてください」と言っていただいたんです。今に至るまで、私の人生はすべてそういう感じで、ちやほやされたこともないし、スムーズにいったことはない。いつも「なんでこんなばかなことをしているんだろう、もっとスマートにやれないのかな」と悩んでいます。

一冊一冊が真剣勝負。フォーマットは持たない。



川島蓉子氏: 『ビームス戦略』から始まって今に至るまで、一冊たりとも手抜きをしたつもりはないし、一冊書くというのは結構しんどいけど頑張り抜いてやっています。ものを書いていて思うのは、書いている渦中は苦しく、マラソンと一緒です。「なんでこんなばかなことを選んだんだろう」と思いながら書き、編集者からガンガン言われ、書き直しをし、そこでまた原稿が真っ赤になり、表紙ができてきてタイトルが決まって、見本ができた時は最高潮にうれしくなります。店頭に出ると今度は心配で心配でしょうがなくて、売れても売れなくても書いたものは二度と見たくないぐらい恥ずかしいんです。最初にビームスの本を書いた時は、大好きな設楽社長が本を受け入れてくれるかどうかが、とても高いハードルでした。できあがった原稿を設楽社長に見ていただいたのですが、どれだけ赤が入るだろうと思いドキドキしていました。ところが読んでもらった原稿を見てみると、ほとんど赤が入っていない。しかも、「こんなにすてきに書いてくれてありがとう、フレーフレー川島」と書いた手紙までいただき、私はその場で泣きました。

――設楽社長は本を受け入れてくださったんですね


川島蓉子氏: ビームスの店に行って記念に服を買いました。今でもその服は大事にとってあります。それで全然関係ない販売員の方に、「今、設楽さんのところに行ってこんなことがあってうれしいんです!」と話し、「よかったですねぇ!」と言われて帰りました(笑)。そういう人生です。

編集者の力も借り、本の力を最大に引き出す。


――川島さんの本は毎回フォーマットがなく、面白いですよね。


川島蓉子氏: ありがとうございます。それは、編集者の力だと思います。大好きな対象物を一生懸命書けば書くほど没頭して、それを客観的にみて、「こうすればもっとよくなるよ」ということを言ってくれる第一の読者は編集者です。ビームスの本が売れた時に担当してくださった方がすごくいい編集者で、今後の仕事を全部彼とやろうと思ったんです。それを伝えたら、「川島さん、できるだけたくさんの人とやった方がいいですよ。経歴が全部PHPとかになるとあまりよくないから、いろいろな版元があった方がいい」と。「編集者は著者の引き出しを開ける役だから、いろいろな人とつき合った方が引き出しが開く可能性がある」ということを言われました。だからできるだけ多くの版元とやってきたんですが、ちやほや系の編集者が私はダメなようです。かなりMなので(笑)、バシバシ言われた方が頑張るタイプです。

電子書籍にこだわりはもたない


――書いたものを、読者が電子書籍として読むということに対して、率直に書き手としてどう思われますか?


川島蓉子氏: 媒体はなんであろうが、読んでもらいたいから書いているので、そう思うと、あまりこだわりはないです。ただ一方で、小さい時から紙の本が好きなので、自分は紙で読もうとは思います。やっぱりにおいがしたり手触りがあったり、めくるという行為と記憶が一緒になって結びつくものがありますね。



――装丁などはどうやって決められるんですか?


川島蓉子氏: 自分はデザイン業界に近い仕事をしていますので、大好きなアートディレクターにお願いして手がけていただいたり、編集者に任せてくれと言われればお任せしたりと、様々です。話し合いながら一緒にやりますけれど、最終的な判断は力のある編集者に委ねます。

インタビューの時には音声はとらない。


――インタビュー原稿を書かれるときはどのようにされているのでしょうか?


川島蓉子氏: あまりよく考えていないです。最近は、一応聞きたいことの項目はノートに書いていきますけど、音声も録りません。大枠の聞きたいことだけメモしておいて、あとは自分で言葉を聞きながらメモします。

――『エスプリ思考』でもそうですか?


川島蓉子氏: はい。あれはものすごいロングインタビューです。繰り返しインタビューをしていて思うのは、「頭じゃなくて心を書く」ということです。川島蓉子という心が、相手が、齋藤さんなら齋藤さんの心をどう受け止めるか、っていうことが肝要で、その時に強く残ったものを文字にしていく。あとは、インタビューもやっぱりその時の空気を、いかに柔らかくするか、広げていくかに私は力を注ぎます。この前、佐藤卓さんにインタビューしている時に、珍しく褒めていただいてありがたかったのですが「川島さんのインタビューは大笑いだよ」といったことを言われたんです。最初、きまじめに始まるんです。でもだんだん空気が柔らかくなっていくと、そこに笑顔が生まれたり、楽しくなったりするのが、私はインタビューだと思っています。卓さんと最後に笑ってインタビューを終えるために、じたばたしながら聞き出すわけです。あとは相手がどんなに偉い方であろうが、わからないことはわからないと聞く。相手がフンフンフンと言うと、「今のフンフンフンは何ですか?」って聞く。相手は「きれいだからです」と答えれば「どうきれいなんですか?」とさらに聞く。そういう聞き方をしていくので、一回ある方から「キックボクシングみたいだ」、と言われました。

――キックボクシングですか?


川島蓉子氏: 激しいやり取りがあるってことでしょう。そんなやり方を続けてきた結果が、私のインタビューなので、型破りでもあり、時に相手の方から、「こんなバラバラな話がどう原稿になるんですか?」と言われることもあります。



表現することは命より大事なこと


――川島さんにとって取材・インタビュー、書く行為は、総じてどんなことに思われますか?


川島蓉子氏: 大好きなことであり、自己表現です。また、仕事の中で命のように大事です。
毎回の作品で燃え尽きるのですが、その次に何かが必ず生まれるんです。もう51歳ですから、あと死ぬまでに何冊書けるかわからないですが、でも一生書いていくと思います。ネタとかノウハウは私の中にはないんです。面白かったインタビューはあるけれど、大成功だったと思ったことはない。一緒についてきて見るとよくわかると思いますが、全然うまくないんです。私は好奇心だけは強いので、若い時から無鉄砲に会いたい人に誰にでもアポを入れるんです。会ってもらえたら誠心誠意話を聞くし、原稿は覚悟して一生懸命書いて、それによって信頼していただく。それが私の人脈だと思うんです。

――書く上で音声を録らないそうですが、インタビュー後、すぐに原稿をまとめられるのでしょうか?


川島蓉子氏: それが、すぐに原稿を書かないので数週間たつとわからない言葉がいっぱいある。メモできることは微々たるものです。だからモザイクのように作り上げていくんです。効率が悪いでしょう?強いものから周りを広げていくタイプなんです。外の枠全部をおこして、それをギュッとさせるのか、強いところから肉付けするかのやり方の違いかもしれません。

一人一人の仕事は創造的であり、大事なこと


――今後はどんな展望を抱かれていますか?


川島蓉子氏: 野望は…あんまりないですけれど(笑)、先ほど申し上げたように、本もそうですが、心が動くことは生きていく中で大切だと思います。映画であろうと本であろうと、なんでもいいですが、そういうことをもっと今の人にも感じてほしいと思っています。書籍は、昨日決まったんですが、新潮社でエルメスの齋藤さんと、虎屋の黒川社長との対談を、まとめるというお話があって、それに取りかかる予定です。もう一冊は、今、日経ビジネスオンラインで連載を始めた、「ダサイ社長が日本をつぶす」というすごいタイトルのインタビュー物があるんですが、それが書籍になる予定です。そこで経営にも感覚やデザインが必要だと伝えたいと思います。未来研の活動としては、自分はつまらない仕事をやっていると思っている人に、一人一人の仕事は尊く意味があり、創造的であることを広めていきたいと思っています。5月の末に「ホテル未来」というイベントをやる予定ですので、楽しみにしていてください。

(聞き手:沖中幸太郎)

著書一覧『 川島蓉子

この著者のタグ: 『デザイン』 『こだわり』 『ファッション』 『アパレル』

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