視覚能力に変化を与え、人を進化させる
東北大学医学部卒業。同大医学部眼科学教室にて初期研修後、同大大学院に入学、1998年よりマサチューセッツ工科大学にて研究員として勤務、現在は、理化学研究所脳科学総合研究センターにて適応知性研究チームのチームリーダーを務められています。著書の『つながる脳』では毎日出版文化賞自然科学部門を受賞されました。また、パフォーマンス集団グラインダーマン・タグチヒトシ氏とのコラボレーションによる、理化学研究所が開発したSRシステムを用い、新たなインタラクティブ体験が可能となったパフォーマンス「MIRAGE」は大きな話題を集めました。社会脳(ソーシャルブレインズ)というテーマで、従来にはないコンセプトと手法で脳科学の分野に切り込み、既成概念にとらわれることなくチャレンジを繰り返す藤井さんに、お仕事に対しての思い、そしてこれからの人間社会に対して思い描いていることをお聞きしました。
新しい物を世に出すのは難しい
――お仕事について、近況を交えながらご紹介してください。
藤井直敬氏: SR(代替現実)に関しては、昨年春先に論文を出した後、応用例として昨年の未来館で行った「MIRAGE」というパフォーマンスや東京ゲームショウでのソニーとのコラボがあります。その後は、実際にコンテンツを作ることと、ハードウェアとソフトウェアの改良を進めています。やっぱり「自分が動かないと何も始まらない」とアクションをおこしている感じですが、SRという呼称自体も、ようやく一般化してきたように感じます。大学や色々な研究所などで新しいものを作る人たちはたくさんいますが、それを実際に世の中に出すということは研究とは違う種類の活動なので、やはり難しいんだなというのを、実感していています(笑)。
――どのような点が難しいと思われますか?
藤井直敬氏: 価値の出し方が違うと思います。例えば、研究においては新しいということや、誰もやったことがないということに価値がおかれます。でも、世の中に出すという時は、「なんの役に立つのか」、「それはいくらでできるのか?」とか、「どういう時に誰が使うのか?」など、当たり前のことではありますが、それをきちんと言葉にしないといけません。そういった試算をまた別の誰かにやってもらうというわけにもいきません。専門的な分野のことだけではなく、出し方もひっくるめて全部やらないといけないのですが、僕はやったことがないから、どうしたらいいのかと戸惑うこともあります。ある程度、経験があることだと見通しがつくからあまり抵抗もありませんが、物を作って売ることや、ソフトウェアを作るクリエイターの人たちと打ち合わせするといったことに関しては、異文化だと感じてしまいます。
――手探りといった感じもありますか?
藤井直敬氏: そうですね。面白いなと思うのは、この1年でおそらく100組以上の人たちがSRを体験しにきましたが、「プロジェクトを起こしましょう」と言ってくる人は本当に数人しかいないことです。でも、その数人がやっぱりすごい人たちで、僕らの技術、SRに関してすごく情熱的なんです。やっぱりそういう人がいてくれるのがありがたいし、そういう人と会わせてくれた人、つないでくれた人に対しても本当に感謝しています。でも実際のプロジェクトが動き出した訳ではないので、まだ手探りの状態だと思います。
体験しないと分からないことでも、あえて言葉にする
――SRを世の中に出すために大切だ、と思われたことはなんでしょうか?
藤井直敬氏: やっぱりSRは体験しないと分からない種類の道具なので、言葉にできないと人の間に広がらないんです。だからこの間書いた『拡張する脳』という本も、一種のプロモーションとして書きました。
その本に関しては、ある程度は言葉になったと自分では思っていますが、それでも実際にSRを体験することの、2、3割ぐらいしか伝わってないと思います。やっぱり体験しない限りは分からないといった部分も大きいです。それでも、あえて言葉にしてでも伝えないと、次に進むことができません。まずは入り口として、興味を持ってもらうということが大事かなと僕は思っています。
――執筆というのは、ある意味、最初のガイドブックを書いているような感じもありますか?
藤井直敬氏: そうですね。脳科学や科学者の書いている本は、啓蒙書だったり、科学的知識をみんなに伝えることを目的にしているものがすごく多い。でも僕の書いている本には、文献も引用文献も書いていないし、全部自分の経験だけを書いているので、そういう点では、答えがありません。途中経過は書いていますが、どちらかというと疑問ばかり書いているかもしれません。その疑問に関しては、誰かが解けているかというと解けていない。でも問題としては大きな問題だと思うので、そういった問題をみんなで共有するという形の文章を書いています。読んだ人がそこから自分で考えてくれるのが一番いいと思っています。
――どのようにして今の道に至ったのかお聞かせ下さい。小さい頃はどのようなお子さんだったのでしょうか?
藤井直敬氏: 10歳まで福岡に住んでいて、本は人並みに読んでいたと思います。本の虫だったという記憶はありませんが、自分で本を選ぶようになってからは、SFを読むことが多かったような気がします
――ご両親は藤井さんの進路について、どのように考えられていたと思いますか?
藤井直敬氏: 両親とも医者でしたが、進路に関して明示的に言われたことはありませんでした。でも、みんながそう望んでいるだろうなとは思っていました。僕よりも歳上のいとこが4人ぐらいいるんですが、誰も医者になりませんでした。みんな「一族の誰かがなればいい」といった感じだったのかもしれません。僕は医学部に行くこと自体はやぶさかではなかったので、受けてみることにしました。
――高校の時はどのように過ごされていましたか?
藤井直敬氏: 高校では無線部に入っていました。そこはアマチュア無線だけではなくてコンピュータなどをいじっている人たちが多かったです。僕は高校の3年間、勉強した記憶があまりありません。一浪して予備校に入る時も試験がありましたが、それも難しくて、すごくショックを受けました。それで予備校が言う通りやってみたら成績が上がって、大学に受かりました。その1年間は間違いなく人生で一番頑張った時期だと思います(笑)。
研究の領域が狭くなることに対する疑問
――いわゆる脳科学というか、脳単体ではなくて、その関係性といったところに着目するようになったのは、どのようなきっかけがあったんでしょうか?
藤井直敬氏: アメリカから2004年に帰って来た時に「何をしようかな」と考えて、社会性ということに、興味が湧き始めました。誰でもそうなのかもしれませんが、大学院で1つ研究をやると疑問が生まれてきて、その疑問を突き詰めるといった感じに進んでいきます。でもそうすると、どんどん領域が狭くなってくるわけです。でも、「それがいいことなのか?」という疑問が僕にはあったので、日本に帰ってくる時に、もう1回振り出しに戻ろうと思いました。
――領域が狭くなっていくことに対しての疑問が出発点だったのですね。
藤井直敬氏: どうしても同じことを続けていくと、閉じてしまう。研究者は大きく2種類に分けられると思います。1つは、どんどん条件を狭めていくことで価値が出せる人。多くの科学者がそうです。もう1つは、ある程度何かを作ったら、それを終わらせて次に行く人たち。その2種類がいるんですが、僕はおそらく後者なのだと思います。そうやって移ってきたことは僕の中では違和感なく全部がつながっていて矛盾はないのですが、あまり周りには伝わらないんじゃないかなと思っています。多分、ただの飽きっぽいヒトだと思われている(笑)。
――プロモーションとして本を書かれることもある、ということですが、そもそも本を出すきっかけというのはどのようなところだったのでしょうか?
藤井直敬氏: 誰でも最初は「自分が本を書ける」などとは思わないと思うんです。高校の頃から書いたりするのが好きだったという人は別ですが、僕はそういうことはしてきていなかったものですから、全く書ける気がしませんでした。あるとき突然思い立って書いてみたら書けたので、自分でもすごく驚きました。最初に岩波で出した『予想脳』は、4万字ぐらいザーッと勢いで書いたのを、たまたま会った岩波の編集者に見せたら、「いいよ」と言われて出すことになったんです。「これが本として出るんだ」と自分でも驚きました(笑)。
イメージを喚起させること
――書く上で、こだわりや、気を付けていらっしゃることなどはありますか?
藤井直敬氏: こだわりはあまりありませんが、よく「たとえ話が分かりやすいよね」と言われます。物事を数式で理解する人たちもいますが、僕はイメージを置き換えて理解する方だから、例えが分かりやすいと思われるのかもしれません。僕が人の話や現象を理解する時は、「こういったことなのね」と置き換えてみるといった理解の仕方をいつもしていて、それを自分が伝える時にもう1回やり直しているんです。伝えたい本質と、自分が思いついたたとえが与えてくれるイメージがすごく似ているならば、それを話せばいい。そうすると、なんとなく分かったような気にみんながなると思います。エッセンスが伝わればそれでいい、と僕は思っています。
――この先も新しいものを出す予定はおありですか?
藤井直敬氏: やっぱり内容がないと出せないから、今はまだありません。でも少し進めば、それはやぶさかではないです。やっぱりイメージできないものを、人は受け入れにくいのです。言葉もすごく大事なんだけれど、言葉とそれが喚起するイメージと、それが自分に起きたらどうなるのかという、そのいくつかのステップを経て初めて、新しいものをみんな受け取ることができるのです。例えば、最初の頃は「ガラケーでいいじゃん」と言っていた人たちが、今はスマホに変えている。それはおそらく、「そんなことができるんだ」といった具体的な使用例が隣にいて、それを自分のことに置き換えてイメージできたからではないでしょうか。コマーシャルを見ただけでは、あまり購買につながらないし、行動を変えることない。おそらく言葉は最初のフックであって、その後にそこから何かイメージを喚起させるものが必要。でもそれでも足りないから、自分の生活にどういう風に影響を与えるのか、といったそこまでの一貫した流れを作れないと、ものが普及するのはありえないのだと思います。そういうのは普段サイエンスをやっている人はあまり考えないと思います。
――そういうイメージ喚起といった点など、電子書籍に対する可能性を感じることはありますか?
藤井直敬氏: 電子書籍自体は、僕はまだきちんと使っていません。家にKindleやkobo、それからiPadもありますが、結局紙の本を読んでいます。もちろん習慣化されていないというのも1つあると思いますが、まだ買う習慣もできていません。Amazonで買う時も、電子版がないことが多いから、「どっちにしようかな」と考えることもないし、そういった考える習慣がないと、たまたま電子版があったとしても「紙でいいや」となります。値段が同じというのもおかしくないかな、と僕は思います。だから、まだ電子書籍の利便性と、電子書籍で出すことのアドバンテージを僕はあんまり理解していないのだと思います。
――Kindleなどを買おうと思ったのは、どういった理由からだったのでしょうか?
藤井直敬氏: まずは使ってみないと分からない、ということで買いました。新しいプラットフォームとして期待していて、どんなもんだろうと思ってやってみましたが、やっぱり僕はページのアップデートに時間がかかるのが許せませんでした。
――今後どういったところが進めばいいなと思いますか?
藤井直敬氏: 軽ければいいと思いますが、e-inkのコントラストは十分ですし、紙と比べても遜色はないと思います。別に曲がってくれなくてもいいし、柔らかくなくてもいい。アニメーションがたくさん入っていればいいかというと、そんなこともない。ただ、雑誌などは紙ではできない種類の、電子書籍ならではの、といったものに挑戦しているのを見るけれど、まだよくピンときません。
――画面というものと本とでは脳の使う部分が違うとおっしゃった方もいましたが、藤井さんはどういう風にお考えですか?
藤井直敬氏: あまり変わらない気がしますが、電子書籍は紙に比べて、なんとなく余計な処理をしなければいけない気がします。でも、それも慣れの問題という気もします。明らかに前と違う、と分かるものが出れば買うと思います。やっぱり最初から完璧なものは出てきません。Kindleは、最初に仕組みを全て作り出して、コンテンツもきちんと充実させてきたので、やはり偉いと思います。1つのエコシステムとしてまわす、今までにないものを作るという点では素晴らしいですよね。
――技術だけを世に出すだけではなくて、それを使えるような仕組みも一緒に作ること。
藤井直敬氏: SRはそのエコシステムを自分たちで作らなければいけないのですが、例えば映画屋さんがコンテンツを作ってくれるといった形など、既存のシステムの1部に組み込めればいいなと思います。そこが、僕が今「なんとかしなきゃ」と思っているところです。
情報に奥行きをもたせる
――SRという技術が一般化した未来というのは、どのようなものになると思われますか?
藤井直敬氏: 僕は、人を少し進化させるんじゃないかなと思っているんです。世界や環境などを認知する、その感じ方を拡張できるというか、その感じ方が変わってくると思う。言葉にはまだうまくできなくて、僕の心の中のイメージなのですが、特に視覚能力が拡張されると僕は思っています。視覚情報には奥行きがあると僕らは思っているけれど、基本的に二次元で十分なので、実はSRでは奥行き情報の殆どない平らな絵を見せているんです。そこに空間の奥行きではなく、情報の奥行きを持たせるということを考えています。今ここにある現在と、奥にある過去と、さらに別の過去や別の情報のレイヤーといったものが、自分の目の前の奥に埋まっているという感覚。その感覚をどう表現すればいいのか分からないけれど、おそらく新しい感覚なのではないかと思います。聴覚は、うるさいところでも相手の声が聞こえるといったように、自分の好きなところに焦点を合わせられる。視覚も注意を向けるということはできますが、その奥にさらに何かが隠れているということもあります。今はその情報の奥行きといったものがないので、そこをなんとか作りたいと僕は思っています。
――藤井さんの原動力とは?
藤井直敬氏: 自分の中でもまだうまく言葉にはなっていないのですが、何千年も前から人は何も変わっていないので、「人を変えたい」と思い続けています。人の悩みはずっと変わっていない。戦争もずっと続いているし、家族がどうだとか、ウチの馬鹿息子がどうだとか、そういった悩み事を何千年もずっと抱えている。見たり聞いたり感じたりする能力をもう少し拡張して、そういった問題をなんとか解決したいと僕は思っているのです。親子喧嘩とか、国の喧嘩の中の一部で一生が終わるのは、それはそれでも構わないとは思いますが、あとに残るものがないような気がします。人全般を研究の対象として、その結果人が変わるというのであれば、それはすごく面白いし、自分の存在意義をそこに見いだせるかもしれない。医者は基本的には壊れたものを直すだけだから、たぶんそれはできないと思います。病気が治ったからといって、病気になる前に抱えていた悩みまではなくせません。多くの悩みは対人関係などの社会的な悩み。そこを解消するというところが、僕が社会性の研究をする理由の1つとなっています。サイエンスが人を幸せにできるかというのはまた大きな問題なのかもしれませんが、SRという俯瞰的な新しい知覚を得ることによって人がステップアップして、社会的な問題に対して「それはもういいよ」と言って解決できるかもしれない。はっきりと何ができるかは現段階ではまだ分かりませんが、そういった問題に少しだけでも貢献できたらいいなというのが、僕の望みです。
――表紙などに書かれてあったかと思いますが、「自分ってなんなんだろう」というところが出発点なのでしょうか?
藤井直敬氏: 自分に興味がなくても、いきなりサイエンスという人もいるのかもしれないから、一概には言えないかもしれないけれど、少なくとも生物学、バイオロジーをやっている人たちは、ある程度は自分、もしくは人に興味をもって「なんでこうなんだろう」というところから始まっていると僕は思います。誰もいないところに切り込んでいく、という点ではある意味探検という感じでしょうか。
――今後の展望をお聞かせください。
藤井直敬氏: SRというもので、少しは人の興味をひけるようになってきたので、それを世の中に出したいと思います。もはやサイエンスではないのかもしれないけれど、SRを使った人たちが、どう変わっていくのかというのを見たいと思っています。僕は48歳になって人生の折り返し点は越えていると思っているので、どうやって自分の人生を締めていくのかなというのを考えるようになりました。だから、動けるうちにできることをしようかなと思っています。それと自分より若い人、才能がある人たちに何か機会を与えたい。今僕が持っている武器で一番大きいものはSRだから、それに関連して、若い人たちが何かできるプラットフォームといったものを提供したいと思っています。SRに興味を持って、何かを一緒に作ってみたいというヒトがいたら連絡して欲しいです。
もし、何か後世に残していくものが作れたら、少しは安心して死ねるかなと思います。個人的には、何のインパクトも社会にも残せないまま死ぬのか、と思うとちょっと耐えられない。例えば子どもを産んで、子どもが立派に育ってくれるというのも、次の世の中に貢献できているということ。資産を残しているわけだから、そういったことでもいいですよね。人それぞれが満足できる形で何かを残していけばいいと思います。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 藤井直敬 』