不動産は理想の社会を作るためのツール
1999年、業界初の個人向け不動産コンサルティング会社、不動産の達人「株式会社さくら事務所」を設立。以降、『中立な不動産コンサルタント』としてオリジナルのスタイルを築きあげてこられました。国土交通省・経済産業省の委員を歴任されて、2008年4月、ホームインスペクション(住宅診断)の普及・公認資格制度をめざし、NPO法人日本ホームインスペクターズ協会を設立し、初代理事長に就任。複数の法人を経営する他、メディア出演 、不動産・経済セミナー講師、出版・執筆活動など、幅広く活躍されています。理想の社会を求めて前進し続ける長嶋修さんに、その人生観をお伺いしました。
家が幸せであることが重要
――不動産コンサルタントとして幅広くご活躍ですが、近況をお聞かせください。
長嶋修氏: 1999年に独立し、さくら事務所を作りました。事務所では大きく2つの事業を手がけています。1つは、不動産の世界のセカンドオピニオン、第三者として不動産のアドバイス、住宅の診断をします。もう1つは、マンションの管理組合向けコンサルティングです。その他、不動産仲介会社などもやっていますが、今年1月に社長の席を譲りました。今は、新しい事業を手掛けたいと思いまして、ドイツやフィリピンのセブ島に行っています。
――不動産に関わる業務は、ほぼ網羅していらっしゃるのでしょうか?
長嶋修氏: 不動産に関わることには、ほとんど手を出しています。私の目標・理念は、人と不動産の関係をより良くすること。そのためには、まず持ち家、マイホームの世界を知っていくことと、新築と中古のバランスが重要です。持ち家の世界を良くしていこうと思うと、賃貸の世界も良くしていかなくてはいけない。不動産の世界を良くしていこうと思うと、金融市場とのバランスを見なくてはいけない。また、文化とどう接続するのかも考えなくてはいけないので、どこまでも広がります。結局、住宅は衣食住と言われるものの1つで、全てが繋がっているんです。どんな仕事をしている人も、家には必ず帰りますので、そこに幸せがあるということが、やはり重要なんです。
――人と不動産のより幸福な関係を追及してその思想を世の中に広めることを使命だと感じられていますか?
長嶋修氏: 日本の持ち家文化は戦後からで、戦前は、ほぼ賃貸住宅に住んでいたんです。江戸時代はほぼ100パーセントの賃貸率。明治から戦争が終わるまで、持ち家率は10パーセントくらいでした。高度成長とともに持ち家文化が始まり、良くも悪くも成熟していない。ところが、日本人は器用ですので、設計や工事の品質は世界一なんです。ただ、住宅を長持ちさせるための、点検・メンテナンスをしていこうという意識が低かった。ですから、その技術に関しては他の先進国の方が成熟していて、おそらく、イギリスは日本より100年くらい、アメリカなら30年~40年くらい進んでいます。欧米の実例に学びつつ、それをどう日本風にアレンジしていくかが今の課題。不動産・住宅業界を変えていくことは大事ですが、民間不動産会社や業界団体が変わっていくのは結局、消費者、ユーザーが変わってからです。そういう意味で、教育啓蒙活動的なこともふまえて本を執筆しています。
司法書士から宅建に、急転換
――墨田区のご出身ですが、どんな子ども時代を過ごされましたか?
長嶋修氏: 現在のスカイツリーの袂辺りで生まれていますから、本当に下町の人間です。1973年に、親が埼玉県の郊外にマイホームを買って、小学校の時に引っ越してきました。
小学校時代は、健康優良児で表彰されるくらい健康で、運動が得意でした。勉強は、それなりにできましたが、学校でみんなと一緒に勉強することはあまり好きではありませんでした。自分の勉強したいことだけを、自分のペースで勉強したいと思っていました。
大学は地元の、自転車で行ける一番近いところを1校だけ受けたのですが、それも面白くなかったので中退しました。どうも時間の浪費のように思えてしまって。学歴や肩書きを、元々あてにしていないところがありましたので、少し世の中をバカにしているような、かなり生意気な若者だったと思います。
――ご両親は自由な教育方針だったのですか?
長嶋修氏: 基本的に放置プレイです。両親とも自営業者で忙しかったので、1人で遊ぶか、友達と遊ぶかで報告義務もなくかなり自由でした。すごくほめられて育った記憶はあります。
――両親が働く姿を間近で見るのは、大きな影響だったのではないでしょうか?
長嶋修氏: そうですね。私の家は自営業といっても大企業の下請けでした。これは構造の上の方にいかなくちゃいけないとか、うちの小さい会社から内職の人に仕事を出したりするわけで、「こうやって経済は成り立っているんだな」と思いましたね。一方で、この世の中の構造が、あまり楽しいようには思えませんでした。父親も母親も大変そうでしたし。
私は、中学、高校とバスケットボールをやっていて、プロになろうと思っていました。練習も一生懸命やったんですが、当時のプロは一般の企業に入って、午前中は会社に勤めて午後から練習、という感じで、しかも同じ時期にNBAの選手が日本に来ていて、彼らの姿を代々木体育館で見た瞬間、これは敵わないなと思い、目的を失ってしまったんです。後は、居酒屋でバイトしたりしていましたが、少し真面目にならなくちゃと思って、20歳で広告会社に入ったんです。そこには5年くらいいたと思います。丁度、バブルの後期から崩壊くらいまでの時期でしたので、新人の私でもすごく売れました。年収がみるみるうちに上がっていって、20代前半で最高2000万までいったと思いますね。そうするともう、夜遅くまで仕事してそのまま派手に遊んで、会社に戻って1時間くらい寝てまた仕事するというようなが続きました。当時、「王様のように遊び、大統領のように働く」というようなキャッチフレーズのコマーシャルがありましたが、それを地でいく感じでした(笑)。
――よく遊び、よく働いたのですね。
長嶋修氏: 仕事は元々好きなので、ゲーム感覚で楽しんでいたのですが、そのうち、バブルも崩壊して、広告の仕事にも飽きがきてしまい、スランプに陥ったんです。それから、「結局、自分は真面目に生きてこなかったから悪いんだ」と、急に司法書士の勉強を始めました。真面目そうだというだけの理由でした。
――その原動力はどこから湧いてくるのでしょうか?
長嶋修氏: 何か夢中になるものが欲しいんです。それで、来週試験だっていう時に現役の司法書士の方に仕事でお会いしたら、「司法書士なんて不動産会社の奴隷だよ」と言われて、より川上に行くためには不動産会社の方が良いと思い、宅建の試験を受けて、不動産会社に入りました。かなりいい加減で、行き当たりばったりの行動でした。
――不動産業界に入って感じたことはありますか?
長嶋修氏: 不動産って、すごく大きい買い物ですから、業界の仕組みもきちんと整っていて素晴らしいはずだという期待感でいたものですから、そのギャップから、かなりのカルチャーショックを受けました。売る方も買う方も、誰も建物のことを見ていない。金融機関もお金を貸す時に、建物を確認しにも行かないんです。住宅の査定も結構ザックリでした。カルチャーショックは受けましたが、同時にここでやっていくのはそんなに難しくないなと思いました。1年経たない内に、大きいお店の店長を任されて、夢中で数年間仕事をしたら、だいたいマスターできたんです。でもここで満足しちゃうと、広告の時と同じ状況になりますから、日本の不動産市場は分かったけど、他の国はどうなんだろうと考えました。調べ出して愕然としました。他の国は歴史も長く、仕組みも整っていて、日本には大いに改善の余地があると気づいたんです。それで、まずは住宅の世界の第三者としての枠組みを整えようと、現在さくら事務所でやっている仕事を、当時「社内ベンチャーでやらして下さい」と役員に提案しに行ったんです。
――おいくつの頃ですか?
長嶋修氏: 31の時です。全く理解されずに目の前で提案書を捨てられてしまい、それで独立しました。全く準備せず独立したので、最初は当然上手くいきませんでした。1年目の売り上げが70万で2年目が150万。この時点でお金がなくなって、消費者金融を3社回ってお金を借りました。当時はストレス太りで90キロ近くなり、自分を保つのが大変でしたから、精神的にもきつかったと思います。
――めげずにやり通せたのはなぜでしょうか?
長嶋修氏: 上手くいくまでやるしかないと思っていました。それで3年目の、もう本当に来月やばいという時にテレビで取り上げられたんです。当時、ブログなどもなかったのでHTMLで思いの丈を日記風にして、業界の課題や自分が買う時はこうだと情報発信していました。毎日1000~1500くらいのアクセスでした。その中にテレビの制作会社の人がいて、私のことを引っ張ってテレビで会社の紹介をしてくれたんです。それから3週間は電話が鳴りっぱなし。そこでようやく上手くいったんです。同時にテレビを見たという編集の方から、「本を出さないか」というお誘いもありました。
著書一覧『 長嶋修 』