「王様は裸だ」と言い続ける
経営コンサルタントの上山信一さんは、運輸官僚出身で、マッキンゼーでの経験を活かし、企業はもちろん、学校や病院、地方自治体等などさまざまな組織の改革について助言されています。従来の組織の枠組み、世の中の常識にとらわれない改革論を展開し、全国からその見識と、手法への注目が集まる上山さんに、その独自の視点、コンサルティングや執筆活動の原動力について伺いました。
あらゆる組織にイノベーションの可能性
――全国各地の自治体で活躍されていますが、今日は新潟に行かれていたそうですね。
上山信一氏: 新潟市の都市計画研究所長を非常勤でやっていて、今日は市長と打ち合わせをしていました。今日のテーマは、「図書館改革」です。15市町村が合併して政令都市になり、小さいものを含めると図書館が全部で40以上あるのですが、未だその多くが旧市町村の時代の図書館のまま機能しているのです。昔ながらに真面目にやっているんですが、合併のメリットがまだ出せていない。時代の要請も変わってきていますし、よく考えるともっと色々なことができるはずです。
――図書館にはどのような課題があるのでしょうか?
上山信一氏: 蔵書の数は結構多いし、市民の満足度も高いのですが、登録者数はやや少なく、ヘビーユーザーが熱心に使っているという実態が分かってきました。それから、本がぐるぐる回らず、いつも同じ本が並んでいる。多くが区の複合施設の中に入っていて、図書館があることがあまり知られていないという問題もあります。本当は1階のカフェの横などにあったほうがいいと思うのですが、実際は5階の奥にあったりします。しかし図書館は地域づくりの拠点の役割を果たせます。地元の協議会で運営してもらうとか、図書館をきっかけに地域のあり方を考えることもできるはずです。人が集まって楽しく過ごす場所は商業施設ばかりではない。図書館が集会所になっていても構わないのです。そういう目で見ていくと色々なチャンスが出てきます。そこにある本を読ませる、貸し出すだけではない方向に変える作戦を市長と話していました。
――上山さんのコンサルティングの手法は、様々な組織に応用されていますね。
上山信一氏: 改革の対象は組織ですから業種は問いません。大企業やベンチャー、商社、病院、マスコミ。あとは役所や国営企業、外資系企業など色々つきあってきました。自治体や、NPO、シンクタンクの改革もやってきました。まだお寺と神社はやっていないんですが、いずれやりたいと思っています。例えば、薬師寺はイノベーションの大成功例なのです。かつては、お堂が焼け、ほとんど建物が残っていないお寺でした。それを、写経でお金をもらう仕組みで再建し、奈良時代の姿にもどしました。もうかなり昔のことですが、仏教業界の中では最もすごいイノベーションでしょう。まさにブルーオーシャン戦略です。
縦割りの時代からの方向転換
――上山さんにコンサルティングを依頼される方々は、どのような要望を持たれているのでしょうか?
上山信一氏: まずは「改革をしたい」という方の話をよく聞きます。投資しなければいけない場合でも「お金がない」ということがあったりします。改革したくてもできないことが多いのです。相談に来られるうちの半分以上はタイミングが悪い。人の命ならどんなことがあっても救済しなければいけませんが、会社や組織は倒産寸前になると、もう無理なことも多い。さっさと会社をたたんで、他のビジネスをされたほうがいいという場合も多々あります。あとは経営者の能力。タイミングがよくて能力もあって、改革して再生できそうなものだけ手伝うのです。
――企業にしろ、行政にしろ、ビジネスドクターのような役割ですね。
上山信一氏: 明らかに病気の場合もありますが、先ほどの新潟市の図書館みたいに、病気ではないけれども、「宝の持ち腐れ」のような話もある。大企業や行政の場合は、むしろそっちの方が多いです。あとは転用や売却も。自治体でも公立病院などはもういらない、といった話が出てきます。しかし都心では公立病院でなくてもいいが、端の方に行くと民間の大きな病院がないから、公立が必要だったり、細かい議論になっていきます。これはシチュエーション・スペシフィックな解が必要なケース。一般論で語れないケースが増えていると感じます。
ほかにも美術館、店舗、ホテルとかいろいろな分野で全国一律、大量生産、画一管理がいい分野とそうじゃない分野の切り分けや、構造とか機能の見直し、大きな方針転換といった話が多くなっています。あと、私の仕事は「王様は裸だ」と言うことだったりもします。みんな薄々気がついている。しかし誰も言えない。そこでオーナーに直言したりすることもあります。それで言ってしまったら終わっちゃった、みたいな話もあります。真実を誰かが言うことが課題だったりするのです。
大阪と京都を「足して2で割る」文化
――王様に物申すのは、なかなか難しいことだと思うのですが。
上山信一氏: もともとあまのじゃくなのかもしれませんね。これは出身地の地域特性もあると思います。私が育った大阪では「目立ってなんぼ」です。授業で発表する時も、正しい答えを言うだけではなくて笑いをとらないとやっていけない。それは非常にハードルが高い(笑)。「他人と同じであるというのは恥ずかしい」という文化です。大げさに言うと、子ども時代をいかにユニークであるかが問われる文化環境の中で過ごしたわけです。あと大阪人は他人とのコミュニケーションでも、敷居が非常に低い。友人としゃべっているのに隣の他人が、「ちょっとすいません、一言言っていいですか?」とか入ってきたり、バス停なんかでも知らない隣の人としゃべる。そういう感覚、コミュニケーションの中で、知らない人やえらい人に臆せず、よくずばっと言っちゃう傾向があります。
――小さい頃は、よく読書をされていましたか?
上山信一氏: 親が本を買ったり借りてきたりして、幼児の頃は読み聞かせをしてくれました。家に童話などが結構ありましたので、子どもの頃からよく本を読んでいました。『孫悟空』などの冒険ものや、『水つき学校』という改革系の童話が好きでした。特に『水つき学校』は、洪水で困っている村で、みんなで頑張って堤防を直すといった話で、私の愛読書でした。
中学時代はそれほど本を読まず、鉄道マニアで、キャンプや旅行が好きでした。小中学校はボーイスカウト、高校はワンダーフォーゲル部で、もともとフィールドワークが好きでした。
1970年代、高校生の頃は、京都学派の全盛期です。梅棹忠夫、桑原武夫、西堀栄三郎、会田雄次、高坂正堯などの本が高校の図書館にたくさんあって、輝いていた。しかも当時はそういう先生たちが連日テレビに出たり、新聞で語っていたり。フィールドワークの京都学派には、心底憧れていました。そして、関西では、もともと「東大よりも京大の方が偉い」という文化があった。
――それで京大の法学部に進まれたのですね。
上山信一氏: 京大以外は眼中になかった。問題はどの学部かです。親戚がみんなビジネスをやっていたりする土壌もあって、文学部に行くわけでもないなと思っていました。今は経営コンサルタントで数字をたくさん使いますが、その当時は数学が嫌いで理系学部もいやだった。それで法学部に行きましたが正直言って法律は面白くなかった。クラブは探検部に入ろうとしましたが、いきなり「パレスチナに行け」とか言われたりで、ちょっとこれは違うと考えました。私は頭の中が大阪人なんで「実践的じゃなきゃいけない」とか「アカデミックなものはあまり役に立たない」などとなんとなく思っていました。ポリティカルなのも、アカデミックなのも好きじゃない。あの頃はまだ教養主義なところがあって、マックス・ヴェーバーやマルクスとか、難しい本はたくさん読まされましたが、アカデミックなものは面倒くさかった。それらはバックボーンとして大事だと思ったものの、とにかくフィールドワークというのが自分にとってはしっくりする言葉でした。それで現場で役に立つことをしたいと思っていました。この辺は大阪の実学志向と京都のアカデミズムを足して2で割ったような感じかもしれません。
著書一覧『 上山信一 』