漫画を描くことで得た、見られる喜び
――一旦、漫画から離れたのですね。それからまた漫画を描こうとしたきっかけはなんだったのでしょうか?
長谷川法世氏: 中学2年の時に鉛筆や色鉛筆でなく、ちゃんとした作品を描いてみたいと思い、手塚さんの『マンガの描き方』を取り寄せたんです。漫画には黒インクを使うと書いてあったので、文房具屋さんに行って、「黒インクください」と言ったら、店のおばあさんは「黒インクやら知らんねえ。これならあるけど」と、ふつうの青インクを買わされて。地方にいるから漫画は無理だとおもいましたね。「マンガの描き方」には、墨汁で描いてもいいと指導してあるんですが、墨汁には筆、という先入観があって手塚先生は間違っているなんて考えたりして。
それでもとにかくストーリー漫画を描こう、ギャグをいれようと、青インクで描き始めました。「素浪人長屋」ってタイトルで。4ページまで書いたんですが、青インクって髪の毛なんかを筆で塗るとムラになって。それで「地方にいては漫画家にはなれない」って挫折して諦めて、高校へ進学しました。
――高校ではどのような漫画を描かれていたのでしょうか?
長谷川法世氏: 1年の時、わら半紙に万年筆で下書きなしで、ドイツ軍に抵抗するパルチザンの漫画を描きました。授業中に。これはほんとにお遊びで、タイトルは忘れたんだけど映画のままに描きはじめたんです。そしたら周りから見せてくれって言われて。「次、どげんなるとや?」ってせがまれて、一日中描いてみんなに見せて、成績は下がって。
人が自分の漫画を見て楽しむのがこちらの喜びになって、もっといいものを描こうなんて思うようになったんですね。
――漫画を描く喜び、見てもらう喜びというのを感じた訳わけですね。
長谷川法世氏: ええ、だから私の漫画人生は自然にうまく運んだんじゃないでしょうか。でも、漫画家になるのは諦めていたんですよ。それで絵描きになろうと思って高校では美術部に入りました。黒インクはないけど、油絵の材料は地方でも揃いましたから。
でもね、絵を描いていると、ストーリーのようなものが頭に浮かんでくるんですよ。たとえばリンゴを描いているときに、誰かの手が伸びてリンゴをかじり始めるとか。「なんばしよるか!」って怒ると、「裏側ば食べるけん良かろうもん」なんてセリフが浮かぶんです。ほんとは、配色とか筆のタッチとかに集中しなきゃいけないんですけどね。だから、やっぱり漫画家にむいているのかなという思いはありました。
「手塚離れ」によって、自分の漫画を描くように
――何度か筆を置こうと決意するも、気づいたら描いていて、ストーリーが湧き上がっていったのですね。
長谷川法世氏: まともなストーリーじゃないけれどね。活字嫌いで小説もまともに読んでない、シェークスピアもO.ヘンリーも少年雑誌やカバヤ文庫の抄訳か漫画ですからね。それで私の作品は日常生活のスケッチが基本。『博多っ子純情』なんですね。手塚作品に憧れたんだけれど、SF小説は読まなかったので、自分では描けっこないんです。それで次第に手塚離れしました。
美大浪人していた頃、後輩が石ノ森章太郎さんの『漫画家入門』を見せてくれて。転機になりました。少年マガジン、サンデーと言う週刊誌も発行されて、漫画の情報も大幅に増えていました。
――ちょうど時代の変わり目だったのですね。
長谷川法世氏: 子どものための漫画を、って考えていたんですが自分では描けませんでした。才能、というか素養がないんですもん。手塚先生はロシア文学や日本の物語を漫画にしたりストーリー漫画の世界を押し広げた天才です。それにはつまり教養、素養といったものがあるんですね。海外作品についての著作権がゆるい時代でしたから自由に漫画にできたんですね。さいとうたかお先生も007映画がくると、すぐに貸本漫画にできた。私が漫画家になるころにはずいぶん環境が変わってきていましたが、一度だけフランスの短編小説を渡されたことがあります。一生懸命換骨奪胎して描いたら、そのまま描けばよかったのにって。のんびりした時代だったんですよ。
最近読んだ本で知ったんですが、音楽の著作権に関して、昭和62年に指揮者のカラヤンと元ビートルズのポール・マッカートニーが日本に著作権法の改正を求めるまで、野放し状態の部分があったらしいですね(倉田喜弘「日本レコード文化史」岩波現代文庫より)。日本の音楽や漫画の海賊版が問題になったりしていますけど、それほどかわりないのかもねえ。
話が横道にそれたけれど、すべてではないけれど手塚作品に出典があることがわかってきた頃、手塚離れをできました。私にとってはエディプスコンプレックスからの開放みたいなものです。
――自分たちを育ててくれたものでもあるけれど、いつかそこから離れないと自分のものは描けないわけですね。
長谷川法世氏: 実はもう1人、大好きな作家がいたんです。福井栄一さん、柔道漫画の『イガグリくん』、そして『赤銅鈴之助』の一回目を書いて亡くなられた方です。福井先生の作品は非常に日常描写が優れているんです。アトムみたいに空を飛ばなくてもこんな面白い作品が描けるんだって。アトムとイガグリ君の両極端が好きで、自分の作品としてはイガグリ君の日常性に向かいました。アトムはとても描けっこなかったし。
全てを吐き出して、漫画を作る
――日常というものの影響を受けたわけですね。漫画家としてデビューした経緯、きっかけをお聞かせ下さい。
長谷川法世氏: 「COM(こむ)」のおかげです。comic/communication/communityの頭3文字のCOM。手塚先生のお声がかりで発刊された青年漫画誌です。新人特集の4ページが原稿料を貰った最初。その後16ページの月例新人賞がより本格デビューといえますね。手塚離れはしていても、投稿するならここしかないって。
――全国区での印刷物ですよね、どのようなお気持ちでしたか?
長谷川法世氏: 載ったのはうれしいけれど、これじゃほんとには売れないなって、けっこう冷めていて。知り合いは凄いっていうけどね。本舞台は週刊誌だという気持なので、まだ全然という思いはありました。
――どのようしていかなければいけないと思いましたか?
長谷川法世氏: 週刊誌の連載を持ててはじめて一人前の漫画家だと思っていました。手塚治虫さんのような作品は諦めていたけれど、位置としては手塚先生が目標でした。
――今までどうして描き続けてこられたのでしょうか?
長谷川法世氏: 自分で気づかなかった才能や欠点が、自分の描いたものから見えてきますからね。次はもっといいものをという気持があって、自分の中にある漫画的なものを全部吐き出していくわけです。漫画って同じものは描きませんから、つぎつぎに自分の引き出しからさらけ出していく。8年つづけた『博多っ子純情』が終わった時には、『あしたのジョー』のまっ白だっていう燃え尽きた感じでした。なんにも残っていませんでした。
――描くということにおいて、何を大事にしていますか?
長谷川法世氏: 実際に描き始めると売れるものをとはあまり考えないんですよ。自分の描きたいものを、いかに読者に伝えるかは技術論としてあるのは当然で、それは学生にも伝えているけれど。一方で仕事をもらったら後は自分のもんという作品論があるわけでね。編集者にとっては扱いにくい作者の部類でしょうね。
著書一覧『 長谷川法世 』