売れるものよりも、良いものを残したい
長谷川法世さんは福岡市博多区出身。代表作『博多っ子純情』や『博多新聞東京支社』など、作品のほとんどは博多を舞台にしています。漫画家の活動のほか、「博多町家ふるさと館」館長をつとめられ、テレビ番組の司会者や、博多通りもんのCMキャラクターとしてもご活躍されています。どのようにして今の道に至ったか、その歩みや、過去と現在の、編集者との関係についてお聞きしました。
描くだけではなく、人に見せてこそ仕上がる芸術
――どのようなお子さんでしたか?
長谷川法世氏: 引っ込み思案でした。内気です。今、福岡の九州造形短期大学で漫画を教えているんですが、内気な学生が多いですね。最初の授業で、「漫画を描くことが好きな人は、大体引きこもり的性格だよね。」といいます。「B4の原稿用紙にカリカリ描いて、一日あきないんだから」って。「だけど、引っ込み思案、引きこもり的性格と同時に自己顕示欲が強くないと漫画家にはなれない」っていうんです。人に作品を見せたいという思いがなければ、なぜ漫画を描いているのかわからなくなるから。芸術だって人に見せてこそ完成するのではないかと思います。
――描いただけで仕上がるのではないということですね。
長谷川法世氏: 誰にも見せない芸術ってあるんだろうか。誰の目にも触れないというのは、存在しない事と同じではないか。ある作家が作品を誰にも見せずに死んだとする。死後、人の目に触れたものが芸術作品となる。でも、生きているうちに人に楽しんでもらう作品、漫画を描きたいと思うなら、自己顕示欲をかきたてなければならない。売り込まなければならないんです。
『鉄腕アトム』への思い入れから生まれた、サイン会
――初めて周りの人たちに絵や漫画のようなものを描いたのはいつ頃でしたか?
長谷川法世氏: 最初に人に認められたのは小学4年生の時、同級生からでした。鉛筆で鉄腕アトムやどんぐり天狗を描いていたら、「僕にも描いて」って同級生から頼まれて。女子もいっぱい。休み時間や昼休みにわっと集まるんです。みんな、運動場へも出なくなって、私はトイレも行けないんです。サイン会みたいでしたねえ。担任の先生も苦笑いしながら、「長谷川もいろいろやることがあるんだから、学校ではもう頼むな。頼まれても描くな」ってね。
――やめろとは言われなかったのですか?
長谷川法世氏: 級長をしていて、成績も良かったんです。だからなのか、やめろとは言われませんでした。授業中でも教科書とかノートの余白に落書きばかりしてました。幾何学模様やらアトムやらぱらぱら漫画やら。
――『鉄腕アトム』には思い入れがあったのでしょうか?
長谷川法世氏: 『鉄腕アトム』を見た時、「すごい」ってね。手塚治虫さんは、漫画の一コマにキャラクターの全身を入れるんです。同じコマに4,5人描かれていて、みんなセリフがある。しかも背景も入っている状態がずっと続くわけです。他の作家はそんな描き方できません。バストアップで一コマひとりみたいな。子ども心にレベルが違うなって。「同じように描きたい」って、真似しようと思っても全然だめで。
それでとりあえず、アトムの顔とか全身とか練習していたら、友達が見て描いてくれって。自分の漫画じゃないからって言うんですが、アトムでいいからって。イガグリ君もどんぐり天狗も注文されるままに。
――「これと同じものが描きたい」と思った時が、1つの大きな節目だったのでしょうか。
長谷川法世氏: そうですね。いつのまにか何かを始めているというのが「才能」だと思うんです。意識してからは続けること。いろいろ考えて良いものにしていくっていうのが「努力」ですよね。
――小学校の頃から、漫画家になりたいと思っていたのでしょうか?
長谷川法世氏: 違います。小学校ではもう諦めかけていました。特に6年になると、「もう卒業か。中学になったら高校入試の勉強しなきゃならないから、漫画描いてる暇はないよなあ」って。それで、漫画の描き納めってことで、ストーリー漫画を描いてみたんです。帳面に鉛筆でかいて、色鉛筆で色塗って。家族に見せたら、「おお、あんたいつの間にこげんとば描いたとね」って驚かれて。3つ上の兄にも感心されました。兄はライバルというか、「お前はへたくそ」って言われてましたから嬉しかったですね。
――ストーリー漫画を描かれてみて、いかがでしたか?
長谷川法世氏: 先ず第一に「これは『禁断の惑星』の模倣じゃないか」と思いました。子ども漫画だから、少年を主人公にしたりして、作り変えもしたんですが、基本的にオリジナルでないことは自覚していました。絵に関しては、やはりバストアップが多くって。あと、最大の反省点は、ギャグがまったくなかったことなんです。手塚先生はギャグやユーモアをいれるんです。それがなかったので、「やっぱ才能ねーや」って諦めて。中学に入ったら勉強に邁進しようって思いました。
漫画を描くことで得た、見られる喜び
――一旦、漫画から離れたのですね。それからまた漫画を描こうとしたきっかけはなんだったのでしょうか?
長谷川法世氏: 中学2年の時に鉛筆や色鉛筆でなく、ちゃんとした作品を描いてみたいと思い、手塚さんの『マンガの描き方』を取り寄せたんです。漫画には黒インクを使うと書いてあったので、文房具屋さんに行って、「黒インクください」と言ったら、店のおばあさんは「黒インクやら知らんねえ。これならあるけど」と、ふつうの青インクを買わされて。地方にいるから漫画は無理だとおもいましたね。「マンガの描き方」には、墨汁で描いてもいいと指導してあるんですが、墨汁には筆、という先入観があって手塚先生は間違っているなんて考えたりして。
それでもとにかくストーリー漫画を描こう、ギャグをいれようと、青インクで描き始めました。「素浪人長屋」ってタイトルで。4ページまで書いたんですが、青インクって髪の毛なんかを筆で塗るとムラになって。それで「地方にいては漫画家にはなれない」って挫折して諦めて、高校へ進学しました。
――高校ではどのような漫画を描かれていたのでしょうか?
長谷川法世氏: 1年の時、わら半紙に万年筆で下書きなしで、ドイツ軍に抵抗するパルチザンの漫画を描きました。授業中に。これはほんとにお遊びで、タイトルは忘れたんだけど映画のままに描きはじめたんです。そしたら周りから見せてくれって言われて。「次、どげんなるとや?」ってせがまれて、一日中描いてみんなに見せて、成績は下がって。
人が自分の漫画を見て楽しむのがこちらの喜びになって、もっといいものを描こうなんて思うようになったんですね。
――漫画を描く喜び、見てもらう喜びというのを感じた訳わけですね。
長谷川法世氏: ええ、だから私の漫画人生は自然にうまく運んだんじゃないでしょうか。でも、漫画家になるのは諦めていたんですよ。それで絵描きになろうと思って高校では美術部に入りました。黒インクはないけど、油絵の材料は地方でも揃いましたから。
でもね、絵を描いていると、ストーリーのようなものが頭に浮かんでくるんですよ。たとえばリンゴを描いているときに、誰かの手が伸びてリンゴをかじり始めるとか。「なんばしよるか!」って怒ると、「裏側ば食べるけん良かろうもん」なんてセリフが浮かぶんです。ほんとは、配色とか筆のタッチとかに集中しなきゃいけないんですけどね。だから、やっぱり漫画家にむいているのかなという思いはありました。
「手塚離れ」によって、自分の漫画を描くように
――何度か筆を置こうと決意するも、気づいたら描いていて、ストーリーが湧き上がっていったのですね。
長谷川法世氏: まともなストーリーじゃないけれどね。活字嫌いで小説もまともに読んでない、シェークスピアもO.ヘンリーも少年雑誌やカバヤ文庫の抄訳か漫画ですからね。それで私の作品は日常生活のスケッチが基本。『博多っ子純情』なんですね。手塚作品に憧れたんだけれど、SF小説は読まなかったので、自分では描けっこないんです。それで次第に手塚離れしました。
美大浪人していた頃、後輩が石ノ森章太郎さんの『漫画家入門』を見せてくれて。転機になりました。少年マガジン、サンデーと言う週刊誌も発行されて、漫画の情報も大幅に増えていました。
――ちょうど時代の変わり目だったのですね。
長谷川法世氏: 子どものための漫画を、って考えていたんですが自分では描けませんでした。才能、というか素養がないんですもん。手塚先生はロシア文学や日本の物語を漫画にしたりストーリー漫画の世界を押し広げた天才です。それにはつまり教養、素養といったものがあるんですね。海外作品についての著作権がゆるい時代でしたから自由に漫画にできたんですね。さいとうたかお先生も007映画がくると、すぐに貸本漫画にできた。私が漫画家になるころにはずいぶん環境が変わってきていましたが、一度だけフランスの短編小説を渡されたことがあります。一生懸命換骨奪胎して描いたら、そのまま描けばよかったのにって。のんびりした時代だったんですよ。
最近読んだ本で知ったんですが、音楽の著作権に関して、昭和62年に指揮者のカラヤンと元ビートルズのポール・マッカートニーが日本に著作権法の改正を求めるまで、野放し状態の部分があったらしいですね(倉田喜弘「日本レコード文化史」岩波現代文庫より)。日本の音楽や漫画の海賊版が問題になったりしていますけど、それほどかわりないのかもねえ。
話が横道にそれたけれど、すべてではないけれど手塚作品に出典があることがわかってきた頃、手塚離れをできました。私にとってはエディプスコンプレックスからの開放みたいなものです。
――自分たちを育ててくれたものでもあるけれど、いつかそこから離れないと自分のものは描けないわけですね。
長谷川法世氏: 実はもう1人、大好きな作家がいたんです。福井栄一さん、柔道漫画の『イガグリくん』、そして『赤銅鈴之助』の一回目を書いて亡くなられた方です。福井先生の作品は非常に日常描写が優れているんです。アトムみたいに空を飛ばなくてもこんな面白い作品が描けるんだって。アトムとイガグリ君の両極端が好きで、自分の作品としてはイガグリ君の日常性に向かいました。アトムはとても描けっこなかったし。
全てを吐き出して、漫画を作る
――日常というものの影響を受けたわけですね。漫画家としてデビューした経緯、きっかけをお聞かせ下さい。
長谷川法世氏: 「COM(こむ)」のおかげです。comic/communication/communityの頭3文字のCOM。手塚先生のお声がかりで発刊された青年漫画誌です。新人特集の4ページが原稿料を貰った最初。その後16ページの月例新人賞がより本格デビューといえますね。手塚離れはしていても、投稿するならここしかないって。
――全国区での印刷物ですよね、どのようなお気持ちでしたか?
長谷川法世氏: 載ったのはうれしいけれど、これじゃほんとには売れないなって、けっこう冷めていて。知り合いは凄いっていうけどね。本舞台は週刊誌だという気持なので、まだ全然という思いはありました。
――どのようしていかなければいけないと思いましたか?
長谷川法世氏: 週刊誌の連載を持ててはじめて一人前の漫画家だと思っていました。手塚治虫さんのような作品は諦めていたけれど、位置としては手塚先生が目標でした。
――今までどうして描き続けてこられたのでしょうか?
長谷川法世氏: 自分で気づかなかった才能や欠点が、自分の描いたものから見えてきますからね。次はもっといいものをという気持があって、自分の中にある漫画的なものを全部吐き出していくわけです。漫画って同じものは描きませんから、つぎつぎに自分の引き出しからさらけ出していく。8年つづけた『博多っ子純情』が終わった時には、『あしたのジョー』のまっ白だっていう燃え尽きた感じでした。なんにも残っていませんでした。
――描くということにおいて、何を大事にしていますか?
長谷川法世氏: 実際に描き始めると売れるものをとはあまり考えないんですよ。自分の描きたいものを、いかに読者に伝えるかは技術論としてあるのは当然で、それは学生にも伝えているけれど。一方で仕事をもらったら後は自分のもんという作品論があるわけでね。編集者にとっては扱いにくい作者の部類でしょうね。
理想は運命共同体という関係
――普段、編集者とはどんなやり取りをされていますか?
長谷川法世氏: 最近はサラリーマン化が進んで、昔のような暴れん坊の編集者が少なくなったようです。私の場合は酒飲んで別れ際に、「じゃあ、よろしく頼む」です(笑)。ずっと能力ぎりぎりで連載を持ちすぎていたんで、打ち合わせの時間が気分転換なんですが、そのときから数日がほかの連載をやりながらアイデアを詰めていく過程なんですね。今は締め切りが月曜でも、土曜日曜に進行状況の問合せ電話がまったくかかってきません。週休二日制が徹底したんですねえ。それで、原稿催促の電話にびくつく事は減ったけど。
ぎりぎりまで踏ん張ったときに最後のひらめきが出るっていうつくり方を捨てたくない。編集者にはそのサポートをして欲しい、優しく、強く、適当に(笑)。担当編集者が担当の間は運命共同体で作品づくりをやりたい。漫画が産業化していくと面白くないなあ。漫画はベルトコンベアーでできるものではないし、漫画家は商品納入業者にはなれないんだから。製造業としては研究開発部門が近いかもね。
――色々なものが電子化になったり、新しい電子書籍の媒体が出てきたりしていますが、利用することはありますか?
長谷川法世氏: 料金を払って読んだことはないなあ。青空文庫はよく利用します。博多出身の川上音二郎の事を調べたりね。Wikipediaもこの数年で飛躍的に充実して便利してます。インターネットの情報は間違いもあるけれどインデックスとしてはすばらしい。国立国会図書館の近代デジタルライブラリーなんかはいろんな資料を見られるので重宝してます。この間は宮内庁が五箇条のご誓文をはじめ収蔵品をデジタル化して公開し始めたのですぐ検索しました。論文なども大学が公開しはじめたのでこれも嬉しいです。音二郎について、演劇関係、明治時代全般、調べたいことがいっぱいあるんですが、ネットと、それから電子辞書が大いに役立ってます。
――電子辞書の良さとはどういったところだと思われますか?
長谷川法世氏: 広辞苑もブリタニカも入っているんだもん。すごいよね。しかもハンディーでしょ。百科事典とか場所を取るし重いし、つい調べるのをためらう事もあるけれど、ポケットにも入るからね。スマホも同じ。タブレットは一番欲しいものだけど、ずっとためらってる。タブレットまで手にしたら、紙から完全に離れてしまうかもしれない。それがためらっている原因かな。
まだまだ何かを残したい
――今後、漫画も含め、どんなことをしていきたいなと思われていますか?
長谷川法世氏: 年齢的な限界を考え始めています。まずいな、と。今までは、まだやり足りないけど、今はまだ、なんてのんきに構えていたんですが、もう後がなくなってきた。今年69歳になるので、無理がきくのは5年、がんばってあと10年でおしまい。隠居しての盆栽いじりも夢の一つだけど、まだまだ何かしたいね。
――具体的にはどういったことでしょうか?
長谷川法世氏: 川上音二郎を漫画か文字でまとめてみたい。芝居にはしているんです。大塚ムネトさんと共同脚本で「川上音二郎・貞奴物語」を書いて、博多座で3年前に上演しました(去年12月にも再演)。また、ブログで「川上音二郎発見伝」というのをやっていたんですが、書き込みすぎてしまって。それに、漫画の「徒然草」を描いてる間にブログ管理のパスワードを忘れてしまって、目下休筆中です。それから、博多のことももっと知りたいし、そこから見える日本のことも勉強ですねえ。
去年4か月半かかって『徒然草』を描いたんですが、漫画は何年ぶりだろう。長い事ペンを握らなかったもんなあ。休筆は体力・精神力の限界だったんですねえ、「漫画を描くと、どこかで木を伐って印刷用紙をつくるんだよなあ」って、思ってしまって。そういう意味でネットは一つの解決策だよね。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 長谷川法世 』