難しいことにチャレンジする
――経済学という道に進もうと思ったのは、どういったきっかけがあったのでしょうか?
春井久志氏: 関西学院では高等部から大学まではエスカレーター式なのですが、ある一定のルールがあるのです。高等部では100点満点でつけられた成績を、3年間分を全部足すと約3万点位になります。それを学校は集計をして、1学年270人くらいに学生に序列をつけます。それで「上位1番から60番までの成績の学生はどの大学の学部でも選べます、次に61番から120番までの人は経済学部以外ならどの学部でも選べます。成績の1番最後のグループは学部を選択できません。」というものでした。それで一番難関な経済学部に挑戦してみようと思ったわけです。残念ながら、経済学に関心があったからではありません。
――アメリカに行かれたのは、なぜだったのでしょうか?
春井久志氏: 大学へ入った直後、4月の私の誕生日に高等部から手紙が届きました。毎年高等部の卒業生1人をアメリカの大学へ留学させる制度があって、試験を受けたら私が1番になったので、留学の資格をもらえました。それがきっかけで、アメリカの大学へ行こうと決心しました。
――アメリカではどのような生活をされていましたか?
春井久志氏: アメリカの東南部ノースキャロライナ洲というところにある教派の違った(長老派教会)、非常に小さな大学で、19世紀に日本でいうと農業高校から発展したような大学です。学生はすべて寮で生活して、1日の半分は仕事をして、奨学金の一部に充てていました。大学が山や農地を持っていたので林業や農業もやりましたし、豚や牛も飼っていて、図書館で働く人もいました。教員も大半は同じキャンパスの教員住宅に住んでおり、大きな家族のような学園でした。
――その大学での勉強はいかかでしたか?
春井久志氏: 私の場合は高等部の3学期だけ、大学のように希望する授業科目を選択できたので、上級数学と上級英会話の2つを受講しました。アメリカの大学では、学部長室の壁に良い成績をとった学生の名前が張り出されるのですが、私の名前もその中にありました。数学に関しては私より成績の良い中国人の学生がいましたが、英文学やその他の科目では私の方が成績が良かったり、という風に留学生同士が切磋琢磨して一生懸命勉強に頑張っていました。アメリカでの大学生活は、私の人生で一番楽しかった19歳からの2年間だと思っています。当時の写真は、今も大事に持っています。
ベストで上手くいかない時は、セカンドベストを目指す
――アメリカにはどのくらい行かれていたのでしょうか?
春井久志氏: アメリカの大学では70単位以上を貰って、2年後に関西学院に戻ってきました。アメリカの大学での成績表を経済学部に提出して「単位を認めてくれますか?」と申請したのですが、「君が最初のケースだから」という理由で結局は教授会はその単位を全く認めてくれませんでした。帰国前の春に友達に私の代わりに履修登録だけをしてもらって、2年経った9月に帰ってきたのですが、その2週間後くらいに中間試験がありました。でもあの頃は履修単位に制限がなかったので、その後2年半で経済学部の卒業単位を全部とりました。普通だと130くらいかなと思いますが、アメリカでの単位と合わせると200単位くらいとったことになります。
――アメリカから帰ってきてからは、どのような学生生活だったのでしょうか?
春井久志氏: フルブライト留学試験(大学院生向け)を受けようと思っていたのですが、試験を受けようとしたところ、過去に「半年以上アメリカの大学に行っていた人には受験資格はない」と言われました。けれど、経済学部卒業後はアメリカの大学院に留学するつもりでしたので、当時練馬区にあった、グランドハイツというアメリカ軍の基地にあるハワイ大学の分校の校舎で試験を受けることにしました。その試験の結果を添えて大学院への進学を申請しました。その後、コロンビア大学とシカゴ大学から合格通知がきたので留学準備を進めていたのですが、大学卒業間近の3月に父が急遽入院をしたこともあってアメリカ留学を断念しました。それで、致し方なく日本の大学院(関西学院大学の経済学研究科)を受けることになったのです。
ベストが上手くいかない時は、それでもめげないで、セカンドベストを目指すこと。だから母校の大学院に進学しました。