国民の成熟化につながるものを発信する
関西学院大学経済学部卒業後、名古屋学院大学経済学部教授などを経て、1995年から関西学院大学経済学部の教授として勤められています。金融論、国際金融論、中央銀行論を専門として研究されている春井さんは、1998年の新日本銀行法の施行と同時に、日本金融学会の専門部会として「中央銀行研究部会(Central Banking Study Group)」を創設し、現在も同部会の事務局を担当されていらっしゃいます。また、パーソナルファイナンス学会の常任理事も務められており、著書では『中央銀行の経済分析――セントラル・バンキングの歴史・理論・政策』なども執筆されています。今回は、中央銀行についての研究、執筆、それからマスコミのあり方についてのお考えをお聞きしました。
グローバル人材の育成
――大学の教育者としてのお仕事について、お聞かせ下さい。
春井久志氏: 大学院を出て昨年で40年目となりました。現在務めている関西学院大学は私の母校なので、今は「弟子を育てる」立場にあります。授業科目としては、金融論や金融政策論、国際金融論、中央銀行論、グローバル人材のための英語などの講義科目と、ゼミを担当しています。日本銀行の白川前総裁が理事を辞めて2006年に京都大学へ行かれ、日本で初めて(?)中央銀行論という科目の講義を開設されたのを受けてですが1年後に私も経済学部に「中央銀行論」開講しました。他方、1989年の新日銀法施行と同時に日本金融学会に3番目の専門部会として「中央銀行研究部会」の創設にかかわり、現在も同部会の事務局を担当しています。
今日の日本のマスコミは、ほとんど「金太郎飴」のように視点が同じか、似通った報道しかありません。これからグローバルに仕事をする学生を育てるためには、これまでとは違ったものの見方を学生たちに伝えなければいけないと思いました。そこで国際ビジネスパーソンのための英語という形で、イギリスの『エコノミスト』誌を教材にしてビジネス英語を教えています。これは、(1)経済の知識と(2)英語の能力、それから、(3)正しい日本語に翻訳をするために必要なコミュニケートする国語力。その3つをバランスよく身に着けてもらうという目的で始めました。今年からは「グローバル人材のための英語」という風に講義名を変えて教えています。日本のことを知るための日本経済に関する教材の、そして日本と違った見方をしている英語の記事を受講生に提供して、学生は事前にその教材を日本語に翻訳して、教室で発表する。学生が分からないところは私が解説し、また補足説明を加えるというやり方で教えています。
――具体的には、どのような授業なんでしょうか?
春井久志氏: 2週間くらい前に出力した英文資料を受講生に渡して「聞いて分かる日本語に翻訳をして、それをプリントアウトしたものを持って来なさい」と伝えます。そして授業では、学生が手を挙げて事前に翻訳したものを発表します。それに対して、一定のポイントを与えます。例えば最少点が5点だとすると、発表内容によって6~9点と加点し、1回の報告でポイントを稼げるようにしているんです。だから、学生は競って手を挙げます。それで翻訳してもらって、まずいところや良いところなどを全部指摘します。90分の講義中に、最低1回は手を挙げてくださいと学生には求めています。
高校時代にパルモア学院(神戸)に通う
――英語に関してはいつ頃から勉強をされていたのでしょうか?
春井久志氏: 私は関西学院の高等部に通っていたんです。この関西学院は、アメリカの宣教師が約125年前に神戸の地に創立した大学なんです。中国で牧師として活動していた宣教師が、「もう少しクリスチャンが増えやすい国を探そう」ということで日本に来ました。中国で生まれたその牧師の息子が、宣教師として最初に来たのが神戸で、そこに作った教会が神戸栄光教会です。彼が神戸市灘区の「原田の森」に3年後に作ったのが関西学院です。最初は、若い日本人を教会に集めるために「ただで英語を教えますよ」という「読書室」の形をとり、その昼間部が関西学院に発展しました。その夜間部がずっと続いて現在のパルモア学院という英語学校になりました。私の頃は3学期制で4年制の学校でした。毎学期試験があって、その試験に受からないと次の学期へ上がれない。だから、合計12回試験をパスしないと4年間で卒業できなかったんです。私は高校生の時に、夜間の大人の英語クラスに通っていました。
――大人のための英語学校に行こうと思われたのはなぜでしょうか?
春井久志氏: 遊ぶ時間を確保するというか、少ない労力で良い成績をとるにはどうしたら良いかということを、子どもなりに考えました。「英国数を頑張れば良いのかな、それなら皆があまりやらないものをやろう」と思い、英語を集中的に勉強することに決めました。高等部は5時くらいに終わるのですが、西宮の高等部から電車で1時間弱くらいかけて三宮まで行って、パルモア学院へ通っていました。
――パルモア学院での勉強はどのようなものだったんでしょうか?
春井久志氏: パルモア学院は週5日制で、1日に2科目ずつ英語を勉強しました。だから英語の先生も10人いましたが、全部のクラスが英語関連です。10科目それぞれ違う内容で、作文、リーディングあり、文法あり、会話もありという多様かつ豊富な授業内容でした。しかし、高等部も3学期制だから試験日が2つとも大体同じ時期なのです。そうすると予習はできていても、復習とか試験勉強はできない。その中で自由な時間を確保するにはどうすればいいかということを考えた時に、授業時間内に全て頭に入れてしまおうと思ったんです。集中して話を聞いて、終わったら遊ぶこととか、次はどの本を読もうかということを考えていたようです。
本で色々な世界を覗いていた
――読書がお好きだったんですか?
春井久志氏: 関西学院の高等部はすごく良い学校で、当時は春や夏の休みに宿題が全くありませんでした。私は本を読むのが好きで、まずは『シャーロック・ホームズ』を全巻読んで、次に『アルセーヌ・ルパン』を読みました。私にとって「遊ぶ」というのは本を読むこと。つまり、自由な時間に好きなことをするのが私の遊びでした。小学校の教員をしている私の叔父が、家へ来る時のお土産は必ず本だったんです。しかも歴史物が多くで、荒木又右衛門などの有名な剣士や英雄伝などの本を持ってきてくれました。それで読む習慣が身についたのかもしれません。私の時代には、近所に貸本屋さんというのがありました。そこに行くと色々なジャンルの本が、床から天井まで本棚にぎっしり入っていました。私は歴史物を1冊借りて一晩で読んで、次の日にまた新たな本を借りてくるということを繰り返していました。それで近所では「春井さん家の子は、この棚の本を全部読んだ」と噂になったこともありました(笑)。
――読書のどのようなところに魅力を感じていらっしゃいますか?
春井久志氏: 本というのは、知らない世界が展開しているから、当時学生だった私にとっては、大人になった今以上に本が面白くてしょうがなかった訳です。だから毎日1冊読みました。今思えば、本によって私の世界が広がったのかもしれません。神戸は港街で、家から自転車で南の方へ行くと海。外国の船などが港に入っていて、「海は世界に繋がっている。いつか世界に行きたい」という思いをいつしか抱くようになりました。でも実際にはまだ行けない状況だったので、本を通して色々な世界を覗いていたのかもしれませんね。
難しいことにチャレンジする
――経済学という道に進もうと思ったのは、どういったきっかけがあったのでしょうか?
春井久志氏: 関西学院では高等部から大学まではエスカレーター式なのですが、ある一定のルールがあるのです。高等部では100点満点でつけられた成績を、3年間分を全部足すと約3万点位になります。それを学校は集計をして、1学年270人くらいに学生に序列をつけます。それで「上位1番から60番までの成績の学生はどの大学の学部でも選べます、次に61番から120番までの人は経済学部以外ならどの学部でも選べます。成績の1番最後のグループは学部を選択できません。」というものでした。それで一番難関な経済学部に挑戦してみようと思ったわけです。残念ながら、経済学に関心があったからではありません。
――アメリカに行かれたのは、なぜだったのでしょうか?
春井久志氏: 大学へ入った直後、4月の私の誕生日に高等部から手紙が届きました。毎年高等部の卒業生1人をアメリカの大学へ留学させる制度があって、試験を受けたら私が1番になったので、留学の資格をもらえました。それがきっかけで、アメリカの大学へ行こうと決心しました。
――アメリカではどのような生活をされていましたか?
春井久志氏: アメリカの東南部ノースキャロライナ洲というところにある教派の違った(長老派教会)、非常に小さな大学で、19世紀に日本でいうと農業高校から発展したような大学です。学生はすべて寮で生活して、1日の半分は仕事をして、奨学金の一部に充てていました。大学が山や農地を持っていたので林業や農業もやりましたし、豚や牛も飼っていて、図書館で働く人もいました。教員も大半は同じキャンパスの教員住宅に住んでおり、大きな家族のような学園でした。
――その大学での勉強はいかかでしたか?
春井久志氏: 私の場合は高等部の3学期だけ、大学のように希望する授業科目を選択できたので、上級数学と上級英会話の2つを受講しました。アメリカの大学では、学部長室の壁に良い成績をとった学生の名前が張り出されるのですが、私の名前もその中にありました。数学に関しては私より成績の良い中国人の学生がいましたが、英文学やその他の科目では私の方が成績が良かったり、という風に留学生同士が切磋琢磨して一生懸命勉強に頑張っていました。アメリカでの大学生活は、私の人生で一番楽しかった19歳からの2年間だと思っています。当時の写真は、今も大事に持っています。
ベストで上手くいかない時は、セカンドベストを目指す
――アメリカにはどのくらい行かれていたのでしょうか?
春井久志氏: アメリカの大学では70単位以上を貰って、2年後に関西学院に戻ってきました。アメリカの大学での成績表を経済学部に提出して「単位を認めてくれますか?」と申請したのですが、「君が最初のケースだから」という理由で結局は教授会はその単位を全く認めてくれませんでした。帰国前の春に友達に私の代わりに履修登録だけをしてもらって、2年経った9月に帰ってきたのですが、その2週間後くらいに中間試験がありました。でもあの頃は履修単位に制限がなかったので、その後2年半で経済学部の卒業単位を全部とりました。普通だと130くらいかなと思いますが、アメリカでの単位と合わせると200単位くらいとったことになります。
――アメリカから帰ってきてからは、どのような学生生活だったのでしょうか?
春井久志氏: フルブライト留学試験(大学院生向け)を受けようと思っていたのですが、試験を受けようとしたところ、過去に「半年以上アメリカの大学に行っていた人には受験資格はない」と言われました。けれど、経済学部卒業後はアメリカの大学院に留学するつもりでしたので、当時練馬区にあった、グランドハイツというアメリカ軍の基地にあるハワイ大学の分校の校舎で試験を受けることにしました。その試験の結果を添えて大学院への進学を申請しました。その後、コロンビア大学とシカゴ大学から合格通知がきたので留学準備を進めていたのですが、大学卒業間近の3月に父が急遽入院をしたこともあってアメリカ留学を断念しました。それで、致し方なく日本の大学院(関西学院大学の経済学研究科)を受けることになったのです。
ベストが上手くいかない時は、それでもめげないで、セカンドベストを目指すこと。だから母校の大学院に進学しました。
本を手に入れて勉強した、イギリスの金融理論
――大学院ではどのようなことを勉強されていたんですか?
春井久志氏: 私は学部から金融論のゼミに入りました。そのゼミの恩師が小寺武四朗先生という優れた方で、大学院も同じ先生のところに入りました。自分で研究課題を立てて先生に話してみたら、先生が「これは良い」と言ったものがあって、それがイギリスの金融理論だったのです。アラン・メルツァーという人がA History of the Federal Reserve(2003, 2009)という書名の本で、連邦準備制度の歴史を書いています。全部で3冊に及ぶ大著です。その中で18、19世紀に中央銀行というのが徐々に発達してきたということが書かれてあります。イギリスが経済力的にも軍事力的にも世界でトップだったので、中央銀行としてのイングランド銀行も発展していきました。イギリスの有名な経済学者、デヴィッド・リカードの研究者として有名な先生がおられたので質問に行くと、「私は貨幣や金融は専門分野ではないから、自分で勉強しなさい」と言われてしまい、恩師もアメリカ中心なのでイギリスは専門分野ではない。だから、色々な19、20世紀イギリス経済に関する英語の本を古本屋で手に入れて、自分で勉強しました。パルモア学院で勉強した英語がその時、とても役立ちました。
――特に印象に残っている本はありますか?
春井久志氏: 帰国した時に、アメリカで一番よく売れている教科書であるポール・サミュエルソンの『経済学』を神戸丸善で買って、3年生の夏休みに読みました。その本を読破したおかげで経済学がよく分かるようになって、50年近く前に読んだ英文で書かれた教科書なのですが、未だにそこで読んだエピソードをよく覚えています。
すなわち、あるアメリカの村に1人の有能な弁護士がいました。彼は事務所をもっているからタイプを打つ仕事もしなきゃいけない。彼はその村で1番のタイピストでもあったのです。そうすると、彼は「半日は弁護士、残りの半日はタイプを打っている状態が経済学的に望ましいのか?」ということが経済学の問題になるのです。答えは「彼は1日中弁護士として働いて、2、3番目くらいの腕のタイピストを雇うのが経済的に最も効率が高い」のです。元々は、「比較優位の原理」というデイヴィッド・リカードゥの考えなのですが、これは経済学を超える意味を持っている答えだ私は思います。私たちは、ナンバーワンでなければ世の中で役に立たない訳ではないのです。だから、SMAPの歌「世界に1つだけの花」じゃないけれど、オンリーワンになことで、すべての人間が社会に貢献できるし、またその存在価値も生まれるのです。経済の「効率性」の問題だけではないことをこのエピソードから学びました。
――いかに人が幸せに効率よく暮らしていけるかという、とても面白い学問ですね。
春井久志氏: 経済学は人間を対象にした学問です。関西学院のスクールモットーは「Mastery for Service」つまり、奉仕をマスターするということ。一生懸命に技や知識を身につけて、そしてやっと人の役に立つ。それと経済学の本質とは、繋がっているような気がしています。
理論と政策と実態のバランス
――そもそも最初の本を出版するきっかけというのは、どのようなことだったのでしょうか?
春井久志氏: 92年に博士論文を著書として出版しました。それまでも金本位制度についてはその色々な側面について論文や本が書かれていましたが、金本位制度の全体像を示すものというか、個々の研究成果を総合的に繋ぐ著書はありませんでした。『金本位制度の経済学』の副題にあるように、「イギリス金本位制度の理論と歴史・政策」つまり理論、政策、制度を含めて1パッケージなのです。金本位制度については3つの異なった見方があります。1つは金本位制度はこんな風に機能するのですよという、歴史的に実証されていない「神話」のようなもの。もう1つはこのように働けば上手く機能する、という「理想像」です。最後に、それが実際にはどのように機能したのかという「現実像」です。これら3つの金本位制度観を整理して、包括的に説明したものを著書として出版しました。
――執筆する上で大事にされていることはありますか?
春井久志氏: 私は理論、政策、実態のバランスが重要だと考えます。どれか1つでも欠けていたとしたら、全体像が分からない。だから、その3つの要素はどうしても入っていなければならないと思っています。
――今後の出版のご予定は?
春井久志氏: 2009年に単一通貨ユーロができて10年目だったので、それをテーマに関西学院で国際シンポジウムを開きました。現在、副総裁の中曽さんは、その当時は金融市場局長で、リーマンショック後の世界の金融システムの混乱を収拾するために中央銀行家同士でネットワークを組んでいました。欧州中央銀行(ECB)の金融市場局長のパパディア氏もパネリストの1人です。第一次世界大戦後にヨーロッパで誕生したBISは今ではアジア太平洋事務所を有していますが、そこの代表であるネモローラ氏もパネリストでした。そういう人々がシンポジウムに来てくれました。そのシンポジウムに関する著書『揺れ動くユーロ――通貨・財政安定化への道』という本が今年2月に蒼天社出版から出ます。あとは、全30巻にのぼる大著『ケインズ全集』は東洋経済が少しずつ出しているのですが、私はその第17巻を翻訳して、今年の連休明けに出版されます。それから今までにも『マクミラン委員会報告書』の翻訳本は出ているのですが、その証言録のごく1部しか翻訳されていません。それで今度は「カンリフ委員会の審議記録」の全部を翻訳して出版することにしました。それが2014年1月に出版された『カンリフ委員会審議記録』(全3巻、蒼天社出版)です。また、30年来の友人(Forrest H. Capie)であるシティ大学(ロンドン)教授が著した『イングランド銀行史、1950年代~1979年』(Cambridge University Press, 2010)を現在数人の研究者で翻訳し、1年以内に出版する予定です。それも日本経済評論社から近いうちに出版される予定です。
重要なのは公正さ
――出版社、編集者の役割とはどのようなところにあると思われますか?
春井久志氏: 出版社、編集者の社会的な役割は、非常に大きいと思います。一人の人間が一生かかって手に入れることができる情報というのは極めて限られており、偏っていますが、編集者や出版社は、もっと多くの情報を多くの人に配信できます。しかしながら、一定方向に導こうとする意図的な人もいるかもしれないので、そこをいかに排除するのかという「情報の公正さ」が重要になってきます。正しい情報を発信するという意味では出版社、編集者は「社会インフラ」なのだと思います。情報発信は、最終的には民主主義の進化、国民の1人ひとりの成熟化に繋がります。最近東京で講演したドイツの元首相は、「国民に苦い薬を飲ませるけれども、長期的にはドイツの国民のプラスになる政策を立てると」いう考えを表明しましたが、それは立派な見識だと思います。そういう優れた政治家を生むには、選挙民が「成熟」しないとだめです。消費税上げをなんとか認めさせた野田前首相は、2012年の総選挙で負けちゃいましたよね。だけど、消費税の増税は彼の功績だと私は思っています。ああいう政治家がどんどん出るようにするために、マスメディアを含めて、国民に正しい情報を公正な形で提供して、国民が成熟化する社会に導くことが重要です。
――電子書籍の可能性についてはどのようにお考えでしょうか?
春井久志氏: 30年以上前にマイクロフィルムを使っていた時に、問題が起こりました。マイクロフィルム・リーダーという大きな機械のようなものがあって、後ろからバックライトで文書を読むのですが、これがすごく読みにくくて目が疲れるんです。それで富士ゼロックス社に頼んでハードコピーしてもらって、出力しました。20年前にコピーした時は8万円もかかったのです。でも世界に1つだけのものなので、非常に重要です。今の時代であればもっと安価にかつ容易に読むことができたでしょう。そういう広い意味でも、私は電子書籍の可能性は大きいと思っています。ただ、今は出版社によって規格がばらばらなので、規格が統一されるともっと利便性が高まると思います。しかし、それも時間の問題だと思いますし、そこを早く乗り越えていけば一挙に普及すると思います。私もThe Economistをprint editionで読んでいますが、iPadでも読めるので、よく利用しています。定年退職したら読もうと思って漱石全集を全巻持っているのですが、大きな置き場所をとるので困っています。電子書籍がもっと早く普及していたら良かったのにと思いますね。
自分に与えられたタラントを生かす
――先生の使命とはどのようなところにあると感じられていますか?
春井久志氏: 2013年の3月に出た『中央銀行の経済分析』のあとがきでも「千里の行も足下から始まる」という老子の言葉を引用していますが、私がこの本を出すことによって、「何だ、ここが抜けているのじゃないか」とか、「ここはおかしいんじゃないか」と思ってくだされば、中央銀行の研究が前に進むかなと考えています。そういった研究進展のきっかけになればと思います。『聖書の創世記』にも書いてありますが、神は人間に「全ての生き物、動物植物に名前をつけなさい」と命令をされました。全ての物の所有者は神で、人間はそれを支配すること、使うことを命令されているだけなので、人間はこれらを管理して生かさないといけないのです。だからこれまでの私の研究成果を本にして出版するというのは、自分に与えられたもの、「タラントン(タレントの語源)」を生かすということなので、それが私の使命だと思っています。30年前にロンドンの大学の客員研究員としてシティ大学のビジネススクールへ行った時の所長がブライアン・グリフィス教授という方で、その後、彼は1980年代にマーガレット・サッチャー首相の政策顧問団の団長になりました。彼はクリスチャンとしても非常に有名な方で、彼の本を翻訳していた人からもう1冊彼の本を「一緒に訳しませんか」と私に声がかかりました。彼の本は経済学とキリスト教を融合した素晴らしい内容の類書のない本だったので、この翻訳は自分の使命だなと思いました。それが『富の創造:市場経済の民主化と自由化』(春井久志・八木功治訳、すぐ書房、1990年)です。
――今後の意気込みをお聞かせください。
春井久志氏: 中央銀行が優れた機関になった時に、一番メリットを受けるのはその中央銀行が置かれている国の国民です。だから、そのための研究が重要だろうということで、今も事務局としてやっています。今年はシンポジームのような形のもの(「中央銀行パネル」)が、6月に慶応義塾大学の三田キャンパスで開催される日本金融学会の全国大会で開かれます。そこでは、座長と3人くらいの報告者と、討論者でパネルディスカッションを考えています。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 春井久志 』