REITに出会い「日本でも必要な時がくる」という確信を持った
――日本ではどのようなお仕事をされていたのでしょうか?
井出保夫氏: 不動産の開発などが主で、都心の土地を買ってビルを建てる仕事をしていました。今で言うと地上げです。それから再開発など、当時は「花形だけど、難しい」と思われていたような仕事でした。再開発や等価交換などという不動産のスキルも当時はありましたし、自分なりにその仕事のノウハウを蓄積し、身に付けたつもりですし、自分でも得意だなと思うものもあります。
――REITに出会ったのは?
井出保夫氏: 一生の間に自分で建てることのできるビルは、大きいものだとせいぜい1棟か2棟。小さいのを入れても5、6棟かなと感じたのです。アメリカに行って不動産などを見ていると、不動産が投資商品、金融商品になっていました。まだそういった仕事は日本にはありませんでした。当時、REITがアメリカで上場していて、銘柄がもう100以上ありました。10000円くらいから買えたので、自分で試しに買ってみたら、確かに配当がきましたし、「こういうのがいずれ日本でもできるだろうな」というのを感じました。ただ、土地が値上がりしている時代だったので、役所も業界も、誰もそういったものの必要性を感じておらず、REITが導入される気運も全くありませんでした。それが出てきたのは、バブルが崩壊して10年ぐらい経った頃で、REITが導入されたのは2001年でした。不良資産問題を解消するためにそういった器や制度が必要ということで、不良債権の処理の一貫として「REITを作ろう」ということで、日本版のJ-REITが導入されたのです。どちらかというと、後ろ向きの入り口の中から出てきた感じもありますが、今は10兆円くらいの不動産が、REITに生まれ変わっているわけなので、結果オーライです。
――「これは必要な時がくる」という確信があったのですね。
井出保夫氏: ありましたね。ただ、金融技術などがどうしても必要なこともあって、アメリカのREITは不動産会社の人ではなく、証券マンの仕事でした。日本で不動産会社の人にやらせても限界があるだろうなと感じましたし、そこに日本で進まなかった理由があると私は思います。この10年の間に、REITが成長していった過程においては、そういう金融プレーヤーが果たした役割はすごく大きかったと思います。両者が不動産の証券化の中で、共存して働くことができるようになりました。
世の中の成長、景気回復と共に会社が成長していくのが良い形
――30代で独立された時は、どのようなお気持ちだったのでしょうか?
井出保夫氏: 全然かしこまった気持ちはありませんでした。サラリーマンを辞めた93、4年頃には、バブルが崩壊して大企業でもリストラなども始まっていて、最悪でした。会社にしがみつかなければいけないような時期に「独立します」と言ったものですから、当時の上司は皆驚いていました。でも私は「世の中が良い時に独立しても、意外と上手くいかないかもしれない」と思ったのです。結果論かもしれませんが、悪い時に独立して、世の中が良くなるのに合わせて成長をしていく、というのがモデルとしてはおそらく一番いいのではないかと思います。やっぱり、サラリーマンは同じような仕事を、同時に多くの人がやらされるじゃないですか。そういう誰でもできるというか、マスの仕事の一部になることにもう耐えられなかったのもあります。だから、独立した時は不安はありませんでした。
――やるしかないという使命感で新しい道へと一歩を踏み出したのですね。
井出保夫氏: そうですね。そうやって一歩を踏み出してからやった色々な仕事の中で、最初に世の中に広く認められたのは執筆業でした。本は勉強しながら書いたわけではなく、それまでの蓄積を纏めるような仕事だから、全然苦痛ではありませんし、本を読んだ人から講演依頼があったりして、全国へ行くようになり、韓国からも講演に呼ばれるなど、予期しなかった流れになっていって、非常に楽しかったです。私の場合は本にして世の中に出す仕事を選んだわけですが、自分で不動産ファンドなどを運用する会社を作って、上場するという道もあったわけです。ですが、その道を選んだとしたら、何回も私は失敗していたと思います。現にやり過ぎてしまって、あのリーマンショックで討ち死にしてしまった人もたくさんいました。程々のリスクテイクにしておかないといけないと思いました。今思うと、自分にも向いていたかなという気もします。日本はバブルで懲りて、トラウマになっているのかもしれません。今、多少不動産が上がってきたぐらいで、また大騒ぎしているわけです。東京オリンピックの頃にはもうバブルになるなどと言い始めていて、またバブルを潰そうという見えない力が働いていくような気が私はしています。
著書一覧『 井出保夫 』