小山慶太

Profile

1948年、神奈川県生まれ。早稲田大学理工学部応用物理学科卒業、同大学院博士課程修了。理学博士。物理学・天文学の近現代史を専門とし、物理学の軌跡を中心とした自然科学の展開やその研究者達を題材にした著書を多数執筆。 近著に『ノーベル賞でたどる物理の歴史』(丸善出版)、『科学歳時記 一日一話』『エネルギーの科学史』(河出書房新社)、『科学史人物事典 - 150のエピソードが語る天才たち』(中公新書)など。「NHK高校講座 ―『物理』」では「運動の科学史」の放送回の講師を担当するなど、メディア出演も。

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楽しんでやるのが学問。その魅力は自然に伝わるはず



早稲田大学理工学部応用物理学科卒業後、同大学大学院修士課程、博士課程を修了。物理学者、理学博士であり、早稲田大学社会科学総合学術院教授。過去には、早稲田大学オープン教育センター所長、文部科学省国際級人材育成研究会委員、財団法人竹中育英会評議員などを務められたご経験があります。自然科学や物理、著名な科学者たちについての書物を多く出版されており、著書には『科学史人物事典―150のエピソードが語る天才たち』『寺田寅彦―漱石、レイリー卿と和魂洋才の物理学』『科学史年表』などがあります。研究・学問への思い、著書で伝えている読者へのメッセージ、電子書籍などについて、お聞きしました。

得意だった勉強を活かして、面白いことをしたい


――神奈川のご出身とお聞きしていますが、子どもの頃から、研究という職業への興味はあったのでしょうか?


小山慶太氏: 逗子で生まれましたが、数ヵ月後には東京に移りました。赤ちゃんの時だったので、逗子にいた時の記憶はありませんが、戦争が終わってから、そんなに年月が経っていなかったので、言ってみれば疎開のようなものだったと思います。
子どもの頃は、外で駆け回ることもあれば、本を読んで過ごすこともあり、ごく普通の子だったと思います。幼稚園、小学校の頃のことはあまり覚えていませんが、学問の道へ進みたいと思いはじめたのはおそらく高校生くらいの頃だったと思います。クラスの先生から「将来の夢を書きなさい」と言われた時、 「大学に残って研究者になりたい」というようなことを書いた覚えがあります。

――研究者になりたいと思った理由はなんだったのでしょうか?


小山慶太氏: 「研究職は面白いのではないか」と思ったのでしょうね。自慢のように聞こえるかも知れませんが、人より勉強ができたということもあって、得意な道で面白いことをやればいいんじゃないかなと思ったのではないでしょうか。例えばプロ野球の選手になるといっても、野球がちょっと上手いぐらいではなかなかなれませんよね。もちろんレベルにもよりますが、大学に残って研究者になるということは、野球選手になるよりもチャンスはもう少し広い。中には、政治家になってゆくゆくは総理大臣になりたいと思っている人もいます。それもいいとは思いますが、現実としてなれる可能性は非常に少ないかもしれません。ですから、「それなりの大学に行って一生懸命勉強すれば、自分の好きな道に進めるんじゃないか?可能性としては、それほど小さいことではないだろう」と、思ったのです。それに学問は、いくらやっても終わらないので私にうってつけなのです。野球選手は、松井にしてもイチローにしても、どんなに凄い選手でも30歳、イチローは40歳ですが、身体そのものに限界が来てしまいます。でも学問というのは、脳がボケない限り体力が多少衰えてもできるわけです。それから、分野にもよりますが、研究員は退職したりしても、自分の好きな分野においては仕事でなくてもそれなりの楽しみ方ができる。お金にはあまりならないかもしれませんが、こんなに良い道はないと思います。お金も大事ですけどね(笑)。

理科から文科へ。とにかくやってみることで、面白さが見つかる


――早稲田大学を選ばれたのには、どういった理由があったのでしょうか?


小山慶太氏: 当時、早稲田大学の理工学部というのはとても評価が高かったんです。
私は、目白にある学習院高等科に通っていたのですが、その教室から、早稲田大学の18階建ての校舎が建っていくところが見えていました。その頃は今のように高い建物はいくつもなかったので、「僕が入る頃には完成するのかな」と思いながら、毎日眺めていました。自分が勉強していく過程で建物がだんだんとでき上がっていき、「合格すればあそこに行ける」と思っていました。合格した時には、実際に完成していた建物の18階の屋上まで行きましたよ(笑)。

――大学院を出られて、理工学部物理学科で助手を勤められた後に、文化系の社会科学部へ移られていますね。それはなぜだったのでしょうか?


小山慶太氏: 大学院を出てから、物理学科の助手として、30歳くらいまで物理の理論の研究をしていました。その頃は、オーバードクター問題というのがあり、物理学の基礎的な研究をやり、博士になっても、大学の就職口がなかなかなかったのです。今ならば学位をとって企業に行く人はたくさんいますし、国の研究機関などもずいぶんありますが、当時は自分の研究をやりたいと思ったら大学に残らなければいけませんでした。そして、一定レベル以上の大学に残らなければいけないとなると、なかなかポストがなかったのです。例えば物理学科の助手を1人募集するといっても、100人から200人が応募していたのです。私は、たまたま縁があって、社会科学部に就職ができました。理工学部ではないですが、同じ早稲田大学の中に残れるというのは非常に運が良いことでした。ただ、物理学科の学生を教えるわけではないため、研究や教育、授業の中身ももちろんチェンジしなければいけませんでした。その時に、独学で科学の歴史の勉強を初めて、それを授業に還元するようになりました。思えば、これは著作のきっかけにもつながったなと思います。

――それまでとは違う、文科系の道へ行くことに抵抗はなかったのですか?


小山慶太氏: 正直に言うと、最初は物理学科の方に残りたかったのですが、今思うと自分で新しい境地を開いたような気がして、結果的には良かったと思います。本当に嫌だったらそこで断るのではなく、辞めていると思います。1歩か半歩くらいの違いなら、簡単に諦めず幅を広げることで、逆にそこを取り込める。いきなり科学史の研究や文学の研究をやったのとは違って、物理学である程度の経験や実績を残しているので、他の人ができないことができるようになるのです。人生は100%自分の思うようになんかいくわけがない。ちょっと何かがあったからといって、すぐに腐ったり諦めたりせずに、しばらくそこで頑張ったらいいと思います。5歩も10歩も違うところに行くようになったとしたら、合わないかもしれないので辞めたほうがいいかもしれませんが、1歩や2歩ぐらいだったら、「面白い」と思い始めるかもしれないので、とりあえずやってみる。私の場合は、面白いと思うようになりましたよ。

――研究を楽しんでいるという印象を受けます。


小山慶太氏: 科学の研究というのは、研究者の誰もが自分が楽しいからやっているのです。例えばニュートンは万有引力を発見しましたが、それで金儲けができたわけではありません。ですから昔の研究者や科学者というのは、比較的裕福な人が多く、ダーウィンも大金持ちでした。貧富の差があるというのはいいことではないのかもしれませんが、そういう裕福な人たちが、心の余裕がある中で、道楽として学問を楽しんで来たのが科学の基盤になっているのだと思います。現代の社会では、研究も職業の一環のようになっていますが、基本的には学問は楽しいという思いがあるので、研究を続けているのです。私にとって学問の学(ガク)は音楽の楽(ガク)なのです。
何か強いられ、義務として学問をやっているという人は、基本的にはいないと思います。ですから、学問は面白いということを無理に伝えようとしなくても、自然とその空気感が出ているので、学生や、本を読んでくれる人、テレビやラジオを見たり聞いたりしてくれる人には伝わるのではないかと思います。

著書一覧『 小山慶太

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