野村克也

Profile

1935年生まれ、京都府出身。京都府立峰山高校卒業後、野球選手として1954年から1980年の27年間にわたり、南海ホークス、ロッテオリオンズ、西武ライオンズでプレー。引退後はヤクルトスワローズ、阪神タイガース、社会人野球のシダックス、東北楽天ゴールデンイーグルスの監督を歴任。ヤクルトでは「ID野球」で黄金期を築き、楽天では球団初のクライマックスシリーズ出場を果たすなど輝かしい功績を残した。 著書に、『野球のコツ』(竹書房新書)、『野生の教育論―闘争心と教養をどう磨くか』(ダイヤモンド社)、『私の教え子ベストナイン』(光文社新書)、『野村克也の「菜根譚」』(宝島社)など、多数。

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「最後は正しい努力をしたヤツが出てくる」という例がここにいる



通算試合出場数は日本プロ野球歴代1位で、歴代2位の通算657本塁打、戦後初の三冠王など数々の記録を打ち立て、球界を代表する捕手として活躍。「ささやき戦術」や投手のクイックモーションの導入など、選手・監督時代を通じ、勝つための様々な工夫や駆け引きを重ねており、野球理論・野球技術の発展に貢献してきました。また、他球団で挫折した選手を見事に立ち直らせ、チームの中心選手に育て上げた手腕は、「野村再生工場」と呼ばれ、ヤクルトで築き上げた「ID野球」とともに頭脳野球を展開。東北楽天ゴールデンイーグルスでは球団初のクライマックスシリーズ出場を果たすなど、輝かしい功績を数多く残したことはファンのみならず多くの人々に勇気を与えました。また、氏独特の発言はボヤキ節と呼ばれ、そちらも広く親しまれています。著書には『野村ノート』『エースの品格』など多数ありますが、2013年に出版された『野生の教育論』では2013年の日本シリーズを中心に解説されています。今回は野村さんに、野球に対する想い、人生の節目にもらったアドバイス、そして著書を通じて伝えたい想いを語っていただきました。

人一倍、金持ちになりたいという気持ちが強かった


――京都の網野町(現在の京丹後市)出身だとお聞きしましたが、どのようなところだったのでしょうか?


野村克也氏: 丹後縮緬の本場でした。我々が学生の頃は若い人は都会に憧れていて、「高校を出たら都会で働きたい」という願望を全員が持っていたから、ほとんどが京都や大阪で就職していました。子どもの頃は、女性はみんな着物を着て生活していた時代だったから、縮緬の全盛期でした。父親は京都の田舎の方の育ちで、母親は滋賀県。どうやって結婚したのだろうと思ったら、近所のおばさんに、「あんたのところのお父さんとお母さんは熱烈な恋愛結婚でねぇ」などと話を聞かされて、明治生まれの母親が真っ赤な顔をしていました。父が体を悪くして京都市内の病院に入院した時の病院の看護婦が母だったそう。手が早かったというか、私もその血を引いているんだよ(笑)。「どんだけお母ちゃんが泣かされたか」という話もよく聞かされたし。1000人ぐらいの町で遊んでいたら町中の噂になるからね (笑)。

――小さい頃から野球はしていましたか?


野村克也氏: 4年生の時に終戦を迎えたので、当時のみんなの夢は海軍か陸軍だったね。私は陸軍派。父が陸軍に所属して戦死しているので、「親の敵を討ちたい」といった思いも強かったと思います。環境や時代が人を作るんだよ。今、小学生に「大きくなったら何になる?」と聞くと、野球をやっている子は、ほとんどが「プロ野球選手になりたい」と言うけど、それ以外の子の場合、はっきりと答える子は少ないね。そういう意味でも、スポーツをやるのは子どもにとっていいことなんだよね。日本では文武両道などという素晴らしい言葉があるのに、今は子どもがかわいそうだよ。

――なぜ将来の夢が答えられないのでしょうか?


野村克也氏: 平和ボケだよ。貧しい時代に育つと「貧乏はイヤだ。金持ちになりたい」と思うようになりますよ。我々の時代の貧乏と、今の貧乏とではスケールが違う。その日をどう食いつなぐかという食料難の時代だったから、よくこんなに立派な体ができたなと思います(笑)。当時はとうもろこしのカスが米代わりで、パサパサ。それをわずかな粉と混ぜて作った膨らしパンが主食でした。量も少ないから、腹が減ってどうしようもなくて、畑荒らしとか悪いことばかりしていましたね。小学校3年生から新聞配達や忙しい店の子守、農繁期にはお百姓さんのお手伝いもしていました。お百姓さんのお手伝いはお金ではなくて、お礼にかぼちゃや芋などの食糧がもらえたので、母親もすごく喜んでいましたよ。そういう時代、環境で育ったから、人一倍、金持ちになりたいという気持ちが強かったんだろうね。

――「お金持ちになりたい」という想いは、母親のためだったんですね。


野村克也氏: 母親に楽をさせてやりたい、ということで「何になれば金持ちになれるか」と中学生の頃に考え始めたんだ。当時、2つ年下の美空ひばりさんがあっという間に人気歌手になったのを見て「歌手になろう」と思い、音楽部に入りました。歌手かプロ野球選手になることが、お金持ちになるための一番の近道だと思ったんだよ。でも、映画俳優を夢見たこともありましたよ。たまたま映画館の館長さんがウチの家の三軒隣に住んでいて、ある日、タダで入れてくれたんだ。当時は、阪東妻三郎に片岡千恵蔵、嵐寛壽郎などの時代劇の三大スターが活躍していて、家に帰って鏡の前で俳優さんの真似をしていたけど「この顔じゃ無理だわ」と思いました。渥美清さんと藤山寛美さんが、私と同じ時代に出てきていたら、「やっぱり演技だ」と映画の世界に飛び込んでいたかもしれません。仲代達矢さんと雑誌で対談した時に、「映画界の大損失です。野球界で大成した人だから、映画界へ行っても絶対に大成したはずです」と言われて驚いたよ。それで「そんなもんですかね。もし私が俳優になっていたら、どんな俳優さんになっていましたかね?」と聞いたら、「志村喬さんみたいになっておられたでしょうね」と答えてくださって。悪い気はしなかったね。

テスト生として入団。3年という期限を言い渡される。


――プロ野球への道をどのようにして、ひらかれていったのでしょうか?


野村克也氏: 中学3年の時に、家族3人で夕飯を食べていたら「お前は成績も悪いから、中学を出たら働きに出てくれ」と母に言われてショックだったね。でも兄が、「男の子だから高校ぐらいは出しておいてやらないと、苦労するよ」と助け舟を出してくれました。兄は私とは正反対でスポーツは全くせずに、暇さえあれば勉強していて、通知票は甲乙丙の時代でしたが、1年生から6年生まで全部甲。小、中、高と兄の後をずっと追って行ったら、担任の先生からはいつも「頑張れば君もできるんだよ」と言われていました。でも、大きなお世話だと思って聞き流していましたね。兄が、「こいつを高校に行かせてやってくれ」と後押ししてくれたおかげで私は高校へ行けました。普通科と工業科があって、縮緬の街だから工業科の中に紡織、機械、化学と3つあったのですが、兄は「社会人野球の名門のカネボウとつながっている峰山高校の化学科に入って、カネボウを目指せ」と言いました。

――お兄様は、高校卒業後の姿を描いていらっしゃったんですね。


野村克也氏: ただ、兄も「プロ野球選手になるとは思わなかった」と言っていましたよ。テレビもない時代だったので、実際にプロを見たこともありませんでした。でも、高校の修学旅行で東京に行った時に、ちょうど後楽園で西鉄と阪急の試合があって、初めてプロの試合を観ることができたんだよ。2つ年上の中西太さんは、高校時代からパワーヒッターで注目されていたけど、見たことはなかったんだ。高松一高と試合をやって、平安のグラウンドのセンターの校舎の上を越えるホームランを打ったという伝説があったから、どんな人か見たかったんだよ。その中西さんをすぐ目の前で見ることができたんだけど、逆にプロという世界がすごく遠く感じられたというか、迫力におされて、とても自分がプロの選手になれるとは思えなかったね。

――その後テスト生として入団されましたが、テストを受けたのはどういった経緯があったのでしょうか?


野村克也氏: 高校で野球を3年間やっていて、1年生で1回戦、2年生で2回戦、3年生も1回戦。負けるのはいつもコールド。でも、3年の時は西京極球場でホームランを打ったから、「1球団ぐらいはスカウトが来るだろう」と思っていたけど、どこも来なかったね(笑)。ある日スポーツ新聞の片隅に「南海ホークスの新人募集」というのが出ていて、それを見て、大阪球場へ行ってテストを受けました。京都の名門平安とか、我々が高校3年の時に甲子園に出た伏見高校、ほかにも立命館、同志社などのキャッチャーが来ていたから、自信も全然なかったし、「これは受からねえなあ」と冷やかし半分(笑)。最終的に7人が残ったのですが、そのうちの4人がキャッチャーでした。ゼッケンは1番から300番台までだったのに、私1人だけ番号が飛んで632。入団してからマネージャーに聞いたら、あんなに大勢がテストを受けに来るとは思わなくて、番号が足りなかったんだって。たまたま632があったから、ということで深い意味は無かったそうです(笑)。なんか不思議なテストだったね。

――テストに合格すると、すぐに契約という流れになったのでしょうか?


野村克也氏: 仮契約をして帰ってもらうから待っていろと言われました。その時、隣に座ってたヤツに「甲子園に出た?」と聞いたら「出られるわけがない。熊本県下益城郡から来た」と言われました。地名を聞いてもよく分からなかったけれど、なぜか鮮明に覚えてます。別のヤツは和歌山県日高郡で、もう1人は大阪府南河内郡。4人のキャッチャーはみんな田舎もんばかりだと思って、テストの時に鶴岡監督の姿がなかったことも、妙に納得しました。スカウトがいるし、テストをやったってすぐに戦力になるような選手が来るわけがない。つまり、ブルペンキャッチャーを採用するためのテストだったんだね。夢も希望もないような退屈な仕事だから、スレた都会の子よりコツコツと真面目にやる田舎の子の方がいいというのが、選ばれた理由。入団して「みんな3年でクビだ。でもこれも会社の恩情。長くひっぱると再就職に中途半端な年齢になるから、大学に行った連中より1年早く辞めさせてやる」と言われたよ。

――まるでクビ宣告のようですね。3年後にはどのようになったのでしょうか?


野村克也氏: 4人のうち残ったのは私だけで、ほかの3人は3年で本当にクビになったんだよ。私は1年が終わった契約更新の時に球団課長に「お前は素質がないって、プロの目から見りゃ分かるんだよ。やり直しは早い方がいい」とクビ宣告をされました。母親もプロに入る時に「プロなんて華やかな世界に行ったって失敗するだけだから、地道な道を行け」と大反対していました。カネボウの一次試験はパスしていて、あと面接だけを残していたのですが、どうせやるなら、と思ってプロへ行ったんです。そういった経緯もあり、「クビになって帰ったら、母親に心配をかけてしまうな」とショックで「もう就職もないでしょうし、帰り南海電車に飛び込んで死にます。私から野球をとったら何もありません。もう1年間だけ面倒を見てください。試合に使ってもらって、おっしゃる通り素質がないと感じたら、辞めて帰ります。給料もいりません」と言ったんです(笑)。なんでそんなことが口から出たのか分からないけど、「そういうバカなことを言うな!よし分かった、もう1年面倒を見てやる」という話になり、なんとかクビがつながりました。

――そのままでは引き下がらない。ご自分でクビをつなげましたね。


野村克也氏: そこで「お世話になりました」と帰っていたら今の自分はないんだよ。3年目に1軍にあがって、4年目にホームラン王をとったので、クビ宣告をした課長は、「分からんもんやなあ。ようお前も頑張ったろうけど、お前にはいい勉強させてもらった」と笑ってたよ。

著書一覧『 野村克也

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