無駄な経験などない
――一部上場の精密機器のメーカーに営業職として就職されますが、その経緯は?
渡瀬謙氏: 今思えば申し訳無いのですが、惰性という感じでもありました。バブルの時期だったのでそれなりに募集はありましたが、商学部には営業の募集しかきませんでした。元々おとなしい人間なので、最初は営業以外の職種を自分で探して面接に行っていたのですが、あまり上手くいきませんでした。そのうち周りの人間が就職をどんどん決めていったので、少し取り残された感じがあり、「一度どこかに決めるか」と、その募集にあった会社に行くことにしました。
――営業をされることになって、難しいなと思ったことはありましたか?
渡瀬謙氏: それは、やはり「人前で話すこと」でした。「子どもの頃から喋るのが苦手でも、大人になって慣れてきたら普通に喋れるようになるのかな」と思っていましたが、違いました。壁にぶつかりましたよ。新商品が出るとそれを発表する場があるのですが、営業部員がそれぞれ担当を与えられて、そこで話すことになったのです。僕は1週間くらい前から食事が喉を通らないぐらい緊張してしまいましたが、一生懸命自分でシナリオを作って、できる限りの準備はして臨みました。しかし、言葉を丸暗記していたのですが、途中の専門用語が1つポーンと飛んでしまって、途中で止まってしまいました。今になれば「忘れちゃいましたけど」とごまかすこともできたのにと思いますが、当時はそれもできず。丸暗記しているから忘れた言葉が出ないと次にいけない。その場で一生懸命思い出す作業に入っているうちに、観客席の左前の人がこっちを見てクスッと笑ったのが目に入ってしまって、「もうダメだ」と諦めてしまい、「すいません」と頭を下げて途中で演壇を降りてしまいました。その後は上司も誰もそのことについて触れてこないし、「もう二度と人前では喋るものか。やっぱり大人になっても自分の性格はどうにもならないんだ」と思いました。でも、その経験も現在とつながっているので、今となっては無駄な経験はないと思っています。
――リクルートに転職されたのは、どういった理由があったのでしょうか?
渡瀬謙氏: 当時は自分の商品に自信を持てなかったので、お客さんのためを思ったらどうしても勧められなくなってしまったのです。終いには、「こっちの方が良いですよ」と他の会社のものを勧めてしまうこともありました。人間的にはそれでいいかもしれませんが、会社から給料を貰っている身としてはやってはいけないことだと思い「この会社にはいられないな」という結論に達し、けじめをつけるために次の会社を決める前に辞めてしまいました。自信のもてない商品を売る営業をしていたので、ある意味、営業という仕事を思い切りやったことはありませんでした。「やっぱり営業には向いていないかも」とは思いましたが、「一度自信を持って勧められる商品を扱って、ダメだったら向いてないということにしようか」と考えたのです。とにかく白黒つけたかったのです。それをリクルートにいる友達に話したら「うちは商品に自信を持って売っているよ」と言われたので、面接を受けることにしました。ですが、その頃もまだ喋るとあがっていましたね。
「営業はベラベラしゃべってもしょうがない」
――リクルート入社後、10ヶ月でトップとなられたそうですね。その秘訣は?
渡瀬謙氏: リクルートは、皆さん元気で明るく、声も大きいし、口も立つ。ですから、「ここの商品はそういうタイプの人が紹介すると売れるんだな」と思い、最初の半年はそれを真似しようと、トークや笑顔、身振りなどの練習ばかりやっていました。それでも全く売れなかったのですが、ある時、上司が「調子が悪いみたいだから、明日僕の営業を見に来るか」と声をかけてくれたのです。その上司は部署のトップ営業マンで、人望があり、明るくて元気で、いつも周りに人が集まってワイワイやっているようなタイプだったので、半分「あなたの営業を見せられても僕には参考にならないよ」といった気持ちで同行しました。でも僕の予想とは違い、彼はポツリポツリと喋って、仕事の話をほとんどしませんでした。するとお客さんの方から、「これください」と言いだして、話がまとまりました。僕のイメージしていた営業とは全く違ったので「たまたまこういう日だったのかな?」と思っていたら、2件目、3件目も同じようなパターンでした。帰りに「あんな感じでも売れるんですね」と言ったら、「営業なんて、ベラベラ喋ってもしょうがないじゃないか。そういう意味では、お前は一番営業に向いているんだけどな」と言われて衝撃を受けました。そして、「あの雰囲気のやり取りならば自分でもできる。何か秘訣があるはずだ」と思いました。それまでとは目線を変えて、「なぜ売れたのか」を考えました。それからは他の人にも連れていってもらって、そこでつかんだものを自分なりに工夫していったら結果が出始めたのです。
――それが「無口営業」なのですね。その後独立されたのは何歳の時だったのでしょうか?
渡瀬謙氏: 32歳の時にピクトワークスを作りました。
リクルートに入るまでは、僕はおとなしい人間で、営業成績が良くないから同じフロアにいるのが辛いんだなと思っていました。しかし、実際にリクルートでトップを取って一応認められる状態になってみても、まだ居づらい。そこで初めて「自分は集団生活に向いていない」ということに気づいたのです。中学や高校ではクラブ活動に入ってもすぐに辞めてしまっていたし、それに対して自分でも「長続きしなくて忍耐力がない人間だ」と思っていたのですが、実はそうではなく、単に集団生活や団体行動が苦手だったのだということが分かったのです。それならば1人で仕事をすべきなのではないかと思い至ったのです。
――独立してコピーライターの道を選んだ理由は?
渡瀬謙氏: 当時はまだ28歳でしたが、その頃のリクルートにはライターやカメラマン、デザイナーなどの出入りがあったので、ほぼ皆フリーの人で、結構楽しそうにやっていました。カメラマンから、「徹夜することもあるけど、通勤も無いし、休みたい時に休めることもあるし」という話を聞いて、「自分の生きる道はこれだ!」と思えました。そうやって考えていくうちに、進む道がコピーライター、デザイナー、カメラマンの3択に絞られました。一番話が合ったのはカメラマンだったのですが、機材が高く、技術を高めるための勉強も技術的センスなども必要だから厳しい。デザイナーは、当時まだインターネットなどがなかったので、でき上がったデザインを納品するために持って行かなければいけませんでした。その点、ライターはFAXで納品ができる。「ライターならばどこでも仕事ができる」ということで、知り合いのところに居候させてもらってライターの勉強を始めることにしました。
――独立した時はどのようなお気持ちだったのでしょうか?
渡瀬謙氏: 独立した当時は、不安もそれほどなく、安心感があり、「煩わしさから解放された」という気持ちでした。「よくその性格で独立できましたね」と言われますが、全く逆だったのです(笑)。「独立するとかっこいい」というイメージがありましたが、実際は仕事をくれるので、それに応えるということの繰り返しでした。1人で始めたのですが、その後、懇意のクライアントから法人ではないと口座が持てなくなったので仕事が出せないと言われて、会社組織にしました。次第に「コピーだけじゃなくて、デザインのレイアウトとか印刷もお願いできないか」と言われるようになり、「雑誌1冊お願いします」といった大きな話になっていきました。それで人を雇うことになり、一時期は10人ぐらい居て、小さな事務所のようになっていました。広告、雑誌を制作するのが主な業務でしたが、デザイン事務所のような感じでもありました。
著書一覧『 渡瀬謙 』