悩んでいる人たちへ、ヒントを与え続けていきたい
一部上場の精密機器メーカーを経て、株式会社リクルートに転職。社内でも異色な「無口な営業スタイル」で、入社10カ月目で営業達成率全国トップに。その後、有限会社ピクトワークスを設立。自ら考案した手法により新規顧客を次々と開拓し、広告や雑誌制作などを中心に活躍。その経験がのちの「TFTアポ取り法」の開発へとつながっていきました。ご自身の経験を生かしたメールマガジンは、多くの営業マンに支持され、現在は「サイレントセールストレーナー」として内向型営業マン教育のために、全国でセミナーや講演などを行っていらっしゃいます。テレビでは「たけしのニッポンのミカタ!」に出演。ラジオではトータス松本さんと対談するなど、出演多数。著書は『内向型営業マンの売り方にはコツがある』『「しゃべらない営業」の技術』『相手が思わず本音をしゃべり出す「3つの質問」』など多数。2014年2月には『朝5分!読むだけで「会話力」がグッと上がる本』を出版されました。今回は、苦手だった営業が転機を迎えたきっかけや、電子書籍について、そして執筆にかける想いを語っていただきました。
過去の自分に対して書いている
――内向型の営業マン教育に特化した講演やセミナー、研修、それから執筆といった様々な活動をされていますね。
渡瀬謙氏: 今は常に何かしらの本を書いている状態です。その合間に都内や地方都市での講演や研修などをしており、週2回くらい出掛けています。昨日は日帰りで新潟に行ってきました。移動が多いので新幹線の中で本を書いたりしますし、喫茶店などで書くこともあります。
――本のテーマはどのようにして決めることが多いのでしょうか?
渡瀬謙氏: インタビューを受けたり、仕事中のお客さんとの会話の中で、「あ、今のテーマは面白いな」と思い、それを膨らます、ということが多いです。『朝5分!読むだけで「会話力」がグッと上がる本』は「こんな企画で書いてください」という打診があったのです。そこで、今世に出ている会話本を色々と読んでいきました。『内向型のための雑談術』を書いた時も、雑談本を一通り読みました。すでに出ている本と同じ内容のものを書くのは嫌なので、面白いテーマがあればそれを自分なりに咀嚼して、新しいことを「自分の言葉で書きたいな」と思うのです。
僕の場合は、基本的に過去の自分に対して書いていることが多い。会話もできない、営業もできない、という自分に対して当時は悩みましたし、挫折したりつまずいたりしていました。「あの時、こんなことが分かっていればな」といったことを今執筆し、過去の自分に教えてあげているという感覚。ですから読者に押し付けるのではなく、寄り添うような文章を書くことを意識しています。
――「営業ができなかった」というのは意外です。昔から、いわゆる「内向型」だったのでしょうか?
渡瀬謙氏: そうですね。小学校の時もあまり喋らず、ほとんど誰とも遊んでいませんでした。自然の中で遊び、虫を捕まえるのが好きで、『ファーブル昆虫記』などを読んでいました。あがり症で人見知りだったので、できるだけ目立たないように、人と触れ合わないようにしていました。ですから、その頃は今のように講師という仕事をするということは考えもしていませんでした。何か具体的になりたいものなども当時はありませんでしたが、「1人でポツンとできる仕事があればいいな」ということを漠然と考えていました(笑)。しかし、なかなかイメージできないので、「そういう仕事は現実的じゃないな」とも思っていました。
自己を成長させた、辛い入院期間での読書体験
――高校生の時に、入院されていたそうですね。
渡瀬謙氏: ネフローゼという腎臓病を患い、高校2年から3年にかけての100日間入院しました。入院中は絶対安静で、食事制限もありました。高校時代は大食いだったので、入院したら病院食しか食べられないのがきつくて、病院の中で栄養失調になってしまったような感じでしたね(笑)。その入院の時に一番感じたのが、「なんで自分なんだ?」という感覚。クラスの人が見舞いに来てくれることもありましたが、僕は体調が悪くあまり喋れないので、皆がワイワイ喋っているのを聞いているだけ。病室の窓から下を眺めると、皆がじゃれあいながら楽しそうに帰っていくのが見えました。彼らは元気で健康な体を持っていて、ああやって自由に何でもできるけれど、自分だけが不自由で制限されている。「なんで自分がハズレを引いてしまったのかな」と、当時は悲観ばかりしていました。ですが、学校の先生や友達が、見舞いに来るたび自分の知らないジャンルの本をポンポン置いていったので、仕方なく本を読み始めることにしました。それらをひたすら読んで、「面白いのもつまらないのもあるなあ」と思い、そこから僕の読書歴がスタートしました。横溝正史さんや村上龍さん、村上春樹さんの小説などを読んでいましたね。
――その経験も、今につながっているという感じでしょうか。
渡瀬謙氏: 退院した時に、「地に足が着いてきた」と言われました。自分ではよく分かりませんでしたが、入院中のさまざまな読書体験がそうさせたのかもしれませんし、入院というある種特殊な、独自の体験をしたのだということに気付いたのかもしれませんね。決して良い体験では無かったかもしれないけれど、「悪いことだけではないかもしれないぞ」と。他人から見たら辛い経験でも、僕はそこから何かを学んだように思います。
――その後明治大学の方に入られますが、入院もされたので、受験は大変だったのではないでしょうか?
渡瀬謙氏: はい。退院してからも、疲れてはいけないということで、勉強にも制限があったので、現役で合格するのはちょっと無理だなと思いました。人が遊んでいる時間に勉強しないと追いつけないので、テレビを観ないということと、疲れないように12時には寝ることを自分に課すことにして、それを徹底しました。社会科の選択科目に関しては、入院中に先生から「何を選ぶ?」と聞かれ、「教科書の1番薄いやつ」と答えたら、倫理社会になりました。でも、倫理社会を選んだ人は学年でも3人くらいしかいませんでしたし、受験できる大学が少ないということに気が付き、浪人してからは日本史に切り替えたのです。日本史は全くゼロからのスタートとなったので、自分で完璧なタイムスケジュールを作りました。「今の仕事にそれが活かせれば」と思うくらい、あの頃はよくやったなと自分でも思いますね(笑)。
――大学生活はどのようなものでしたか?
渡瀬謙氏: 大学入試まではすごくストイックにやっていましたが、ゴールが大学合格という感じだったので、ちょっと気が抜けてしまいました。でも本来は大学に合格するのがゴールではなくて、大学に合格して、その上の就職などを考えなければいけなかったのですが…。やることが無くなってしまったような感覚に陥ってしまって、バイトをしているか、布団の中で一日中、本を読んでいました。ちょうど校舎が御茶ノ水にあり、神田が近かったのです。とある古本屋ではどれでも4冊100円で売っていたので、そこで本を買っては乱読していました。「1冊買ったら、頭から最後まで読まないとダメだ」といったことを言われていたので、「最初は面白くなかったとしても、最後は面白くなるかもしれない」と頑張って読んでいました。全てに該当するわけではないですが、多くの本は、最初が面白くなければ最後まで面白くないということに気付いたのです(笑)。それに気がついてからは、最初にサーっと読んで、「これはダメだ」と感じたら次、という読み方になっていきました。面白くない本を真面目に最後まで読むのは、どうしても時間の無駄だと思ってしまうのです。
無駄な経験などない
――一部上場の精密機器のメーカーに営業職として就職されますが、その経緯は?
渡瀬謙氏: 今思えば申し訳無いのですが、惰性という感じでもありました。バブルの時期だったのでそれなりに募集はありましたが、商学部には営業の募集しかきませんでした。元々おとなしい人間なので、最初は営業以外の職種を自分で探して面接に行っていたのですが、あまり上手くいきませんでした。そのうち周りの人間が就職をどんどん決めていったので、少し取り残された感じがあり、「一度どこかに決めるか」と、その募集にあった会社に行くことにしました。
――営業をされることになって、難しいなと思ったことはありましたか?
渡瀬謙氏: それは、やはり「人前で話すこと」でした。「子どもの頃から喋るのが苦手でも、大人になって慣れてきたら普通に喋れるようになるのかな」と思っていましたが、違いました。壁にぶつかりましたよ。新商品が出るとそれを発表する場があるのですが、営業部員がそれぞれ担当を与えられて、そこで話すことになったのです。僕は1週間くらい前から食事が喉を通らないぐらい緊張してしまいましたが、一生懸命自分でシナリオを作って、できる限りの準備はして臨みました。しかし、言葉を丸暗記していたのですが、途中の専門用語が1つポーンと飛んでしまって、途中で止まってしまいました。今になれば「忘れちゃいましたけど」とごまかすこともできたのにと思いますが、当時はそれもできず。丸暗記しているから忘れた言葉が出ないと次にいけない。その場で一生懸命思い出す作業に入っているうちに、観客席の左前の人がこっちを見てクスッと笑ったのが目に入ってしまって、「もうダメだ」と諦めてしまい、「すいません」と頭を下げて途中で演壇を降りてしまいました。その後は上司も誰もそのことについて触れてこないし、「もう二度と人前では喋るものか。やっぱり大人になっても自分の性格はどうにもならないんだ」と思いました。でも、その経験も現在とつながっているので、今となっては無駄な経験はないと思っています。
――リクルートに転職されたのは、どういった理由があったのでしょうか?
渡瀬謙氏: 当時は自分の商品に自信を持てなかったので、お客さんのためを思ったらどうしても勧められなくなってしまったのです。終いには、「こっちの方が良いですよ」と他の会社のものを勧めてしまうこともありました。人間的にはそれでいいかもしれませんが、会社から給料を貰っている身としてはやってはいけないことだと思い「この会社にはいられないな」という結論に達し、けじめをつけるために次の会社を決める前に辞めてしまいました。自信のもてない商品を売る営業をしていたので、ある意味、営業という仕事を思い切りやったことはありませんでした。「やっぱり営業には向いていないかも」とは思いましたが、「一度自信を持って勧められる商品を扱って、ダメだったら向いてないということにしようか」と考えたのです。とにかく白黒つけたかったのです。それをリクルートにいる友達に話したら「うちは商品に自信を持って売っているよ」と言われたので、面接を受けることにしました。ですが、その頃もまだ喋るとあがっていましたね。
「営業はベラベラしゃべってもしょうがない」
――リクルート入社後、10ヶ月でトップとなられたそうですね。その秘訣は?
渡瀬謙氏: リクルートは、皆さん元気で明るく、声も大きいし、口も立つ。ですから、「ここの商品はそういうタイプの人が紹介すると売れるんだな」と思い、最初の半年はそれを真似しようと、トークや笑顔、身振りなどの練習ばかりやっていました。それでも全く売れなかったのですが、ある時、上司が「調子が悪いみたいだから、明日僕の営業を見に来るか」と声をかけてくれたのです。その上司は部署のトップ営業マンで、人望があり、明るくて元気で、いつも周りに人が集まってワイワイやっているようなタイプだったので、半分「あなたの営業を見せられても僕には参考にならないよ」といった気持ちで同行しました。でも僕の予想とは違い、彼はポツリポツリと喋って、仕事の話をほとんどしませんでした。するとお客さんの方から、「これください」と言いだして、話がまとまりました。僕のイメージしていた営業とは全く違ったので「たまたまこういう日だったのかな?」と思っていたら、2件目、3件目も同じようなパターンでした。帰りに「あんな感じでも売れるんですね」と言ったら、「営業なんて、ベラベラ喋ってもしょうがないじゃないか。そういう意味では、お前は一番営業に向いているんだけどな」と言われて衝撃を受けました。そして、「あの雰囲気のやり取りならば自分でもできる。何か秘訣があるはずだ」と思いました。それまでとは目線を変えて、「なぜ売れたのか」を考えました。それからは他の人にも連れていってもらって、そこでつかんだものを自分なりに工夫していったら結果が出始めたのです。
――それが「無口営業」なのですね。その後独立されたのは何歳の時だったのでしょうか?
渡瀬謙氏: 32歳の時にピクトワークスを作りました。
リクルートに入るまでは、僕はおとなしい人間で、営業成績が良くないから同じフロアにいるのが辛いんだなと思っていました。しかし、実際にリクルートでトップを取って一応認められる状態になってみても、まだ居づらい。そこで初めて「自分は集団生活に向いていない」ということに気づいたのです。中学や高校ではクラブ活動に入ってもすぐに辞めてしまっていたし、それに対して自分でも「長続きしなくて忍耐力がない人間だ」と思っていたのですが、実はそうではなく、単に集団生活や団体行動が苦手だったのだということが分かったのです。それならば1人で仕事をすべきなのではないかと思い至ったのです。
――独立してコピーライターの道を選んだ理由は?
渡瀬謙氏: 当時はまだ28歳でしたが、その頃のリクルートにはライターやカメラマン、デザイナーなどの出入りがあったので、ほぼ皆フリーの人で、結構楽しそうにやっていました。カメラマンから、「徹夜することもあるけど、通勤も無いし、休みたい時に休めることもあるし」という話を聞いて、「自分の生きる道はこれだ!」と思えました。そうやって考えていくうちに、進む道がコピーライター、デザイナー、カメラマンの3択に絞られました。一番話が合ったのはカメラマンだったのですが、機材が高く、技術を高めるための勉強も技術的センスなども必要だから厳しい。デザイナーは、当時まだインターネットなどがなかったので、でき上がったデザインを納品するために持って行かなければいけませんでした。その点、ライターはFAXで納品ができる。「ライターならばどこでも仕事ができる」ということで、知り合いのところに居候させてもらってライターの勉強を始めることにしました。
――独立した時はどのようなお気持ちだったのでしょうか?
渡瀬謙氏: 独立した当時は、不安もそれほどなく、安心感があり、「煩わしさから解放された」という気持ちでした。「よくその性格で独立できましたね」と言われますが、全く逆だったのです(笑)。「独立するとかっこいい」というイメージがありましたが、実際は仕事をくれるので、それに応えるということの繰り返しでした。1人で始めたのですが、その後、懇意のクライアントから法人ではないと口座が持てなくなったので仕事が出せないと言われて、会社組織にしました。次第に「コピーだけじゃなくて、デザインのレイアウトとか印刷もお願いできないか」と言われるようになり、「雑誌1冊お願いします」といった大きな話になっていきました。それで人を雇うことになり、一時期は10人ぐらい居て、小さな事務所のようになっていました。広告、雑誌を制作するのが主な業務でしたが、デザイン事務所のような感じでもありました。
コピーライターを選んだのも「必然」
――その後、営業されている方の教育にシフトしていくわけですが、そのきっかけとは?
渡瀬謙氏: デザインの会社を10年ぐらいやって、3冊くらい雑誌の仕事を色々な会社から受けていました。ちょうど出版不況の時期が来て、雑誌の廃刊が多くなった時期になり「あと3ヶ月でうちの雑誌は廃刊になる」などと言われたのです。そこで思ったのは、「独立してフリーでやっているにも関わらず雇われているのと変わらない」ということ。それはなんか面白くない、と。「自由生産に携わることのできるような、もう少し川上にいきたい。自分で発信者になれないかな」という思いが生まれました。ちょうどメールマガジンが流行り始めた頃だったので、メールマガジンを配信することにしました。
――「サイレントセールスのススメ」ですね。
渡瀬謙氏: 最初はボランティアでクリエイター向けの営業の指南のようなものをメルマガ用に書いていました。自分で初めて営業のことを語ってみたのですが、意外と受け入れてもらえて、認めてくれました。「これは本になりますよ」といったコメントなどもいただいて、自分もその気になりました。同時期にメルマガを始めた人との横の繋がりもあり、彼らには出版のオファーがきていたので、「僕ももうすぐ来るかもしれない」と待っていたのですが、なかなか来ませんでした。そのうえ、メルマガ上で「1年以内に本にする」と宣言をして、自分を追い込んでいました。よく考えてみると、企画が決まってから本になるまでタイムラグがありますよね。「1年以内に」と考えたら、出版するなら早く決めないといけないと焦りました。そして、企画書を見よう見まねで作り、40社くらいに送りつけたのが、最初の出版のきっかけとなりました。
――それまでもメルマガは書かれていましたが、本として書かれることになって、難しいなと思ったことはありましたか?
渡瀬謙氏: メルマガは1話で完結できたのですが、本は連続性や流れも意識しなければいけません。ですから別作業という感じでもありました。そうやってできた本が書店に並んだ時は、やっぱりうれしかったです。高校の時に太宰治の『人間失格』を読んで、面白いと思ったのと同時に、「読者をこんな気持ちにさせる、こういう本を書けたら気持ちいいだろうな。でも自分にはできないな」と思っていたのを思い出しました。リクルートの後にコピーライターを選んだのも必然だったのかもしれないな、などと感慨深いものがありました。
最初は、本=小説というイメージが強かったので、小説家じゃないと本は書けないと思っていました。しかし、ビジネス書というジャンルでも本を書くことができるということを知って、そちらから入ることにしたのです。ビジネス書をやっていれば編集者との繋がりができるし、「そのうち小説を書くタイミングもあるだろう」と考えていました。そういったご縁があって、小説形式のものも出せました。編集者との出会いというのは、やはり大きいですね。
――著作者として、渡瀬さんが思う理想の編集者像は?
渡瀬謙氏: 一番良いなと思うのは、著者の将来を考えてくれる編集者です。「この本が単体で売れるかどうか」という目線でお仕事をされている方が多いのですが、「この本を通してこの著者のビジネスをどう展開していくか」ということまで考えてくれる編集者も中には居て、そういう人はすごいなと思います。そういう方とお仕事をすると、結果的に良いと思える本ができますし、結果もついてくるのです。僕にとって編集者とは、思い込みで書いている部分を、読者目線でジャッジをしてくれる存在でもあります。書くということは、自分と向き合う行為でもあるし、それも世に出てしまったら修正がきかないので怖くもあります。ですが、僕はその覚悟をもって書いています。Amazonなどのレビューを見ると、当然、賛否が出ています。別段、否の意見を参考にしているというわけでもないのですが、「もしかしてこんなことを言ったらカチンとくる人も中にはいるかもしれない」というように、色々な目線を意識しながら書いています。また、「ハードルが低いから、こんな自分にもできるかもしれない」という気持ちになってもらえるよう工夫もしています。
電子書籍は安くなくていい
――電子書籍は使われていますか?
渡瀬謙氏: 以前から青空文庫で昔の小説などを読んでいました。スマートフォンだと読むには画面が小さいし、タブレットだと画面は大きいけれど重い。本を読むとしたらKindleくらいのサイズと重量が気持ちいいですね。山などへ釣りに行って、「この魚は何?」という時に図鑑が欲しくなるのですが、持って行くには重いですよね。また、寝る時にハードカバーの本を読むと、重くて疲れるじゃないですか。そういった時にはすごく便利だなと思います。でも、普段用には電子書籍は使いづらいなと僕は思っています。僕が本を読む時は、目次を読むのと同時にパラパラっと見て、目についた大きな見出しのところを読み始めるという読み方をしたいのです。また、本を書く時には、参考資料に付箋を付け、並べてめくりながら作業をするのですが、電子だとそれがしにくいなと思います。紙の本が電子書籍に置き換わるというより、その2つは別ものだと思っています。今はハードがあってソフトになっていますが、電子書籍でしかないものもあってもいいと思います。去年あたりから、僕が本を出している色々な出版社から「この本を電子化したいんですけど」という打診がすごく多かったのです。おそらく、今コンテンツをそろえている時期なのでしょうね。
――電子書籍が普及するためには、どのようなことが必要だと思われますか?
渡瀬謙氏: Amazonでは、ハード版と電子版という2つの金額があって、電子版は若干安くなっていますよね。でも、安い必要はないと思いますし、むしろ高くてもいいと僕は思います。学研の図鑑が意外と安くて3000円くらいで買えたりするのですが、同じ内容で5000円だとしても僕は電子書籍を買うと思います。本と電子書籍はお互いがライバルという関係ではないのです。これは僕がいつも営業で言う台詞です。今は類似商品が多いのですが、微妙な違いで売ろうとしてもあまり意味が無い。お客さん側としては元々はどれでもいいんです。じゃあどこで選ぶかというと、ひとつは値段です。でもだからといって売り手側がどんどん値段の競争をしていくと、消耗戦になってしまう。それに、値引き作業だけの営業活動は面白くない。だから僕は「もっと別の売り方をしましょう。土俵を変えて別のところで売り出しに行きましょう」という話をずっとしています。それは電子書籍でも同じことが言えるのではないかと思っています。
――今後の展望についてお聞かせください。
渡瀬謙氏: 今はまた営業マン向けの小説本を書いているところなので、その参考になる『夢を叶えるゾウ』などを何度か読んでいます。『朝5分!読むだけで「会話力」がグッと上がる本』もそうなのですが、コミュニケーションを円滑にするためのものに、もう少し力を入れていきたいなと考えています。仕事においては個々の能力の差も多少ありますが、ちょっとした人との付き合い方や、挨拶の返し方、あるいは声の掛け方などが大きく人生を左右してしまう、ということをすごく感じているのです。今ここで一言言わないがために、人生が変わってしまうのだったら、もったいないですよね?昔の自分のような悩みを持っている人は、今もたくさんいると思うのです。壁に当たったまま挫折して、その道を外れて別の道を探す人も多いと思います。僕はたまたま、「営業なんか向いてない」と思っていても、自分に合った方向性を見つけることができて、続けることができました。だからこそ、昔の僕と同じように悩んでいる人に対して、諦める以外の方法へのヒントを与えられるような存在であり続けたいなと思っています。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 渡瀬謙 』