生きていくための判断力を、培っていく
日本の江戸文化研究者。のりこえねっと(ヘイトスピーチとレイシズムを乗り越える国際ネットワーク)の共同代表も務める。法政大学社会学部教授、社会学部長を経て、2014年4月、法政大学総長就任。江戸時代の文学、美術、生活文化、海外貿易、経済、音曲、東アジア・インド・東南アジアと江戸の交流・比較研究などをされています。最初の単著『江戸の想像力』により芸術選奨文部大臣賞を、そして『江戸百夢』では芸術選奨文部科学大臣賞・サントリー学芸賞を獲得。2009年には『週刊金曜日』の編集委員に就任。また江戸時代の価値観から見た現代社会の問題に言及することが多く、「サンデーモーニング」でも不定期のコメンテーターとして活躍。「暗く陰惨なだけの時代」とされていた江戸時代像を転換し、「江戸ブーム」の一翼を担った田中優子さんに、江戸文学との出会い、電子書籍化や執筆に対する想い、そして大学、日本のこれからの課題についてお伺いしました。
「本が読みたくてしょうがない」というワクワク感
――本との最初の出会いとは?
田中優子氏: 「砂山」などの昔の童謡の本を、いつも持っていた記憶があります。西條八十さんの「かなりあ」などの詩が書いてあって、その背景に絵が描かれていました。それがとても好きで、絵本を見ながら童謡の言葉を覚えていきました。
1950年代は今と違って新刊書の本屋はあまりなく、高価だったので貸本屋に行っていました。貸本屋は漫画中心で、物足りなくなり、親について行って古本屋にもよく行くようになりました。当時の古本屋というのは一般書と児童書を特に区別して置いていなかったので、自分の好きなように本を手に取って買ってもらっていました。だから、子どもの頃からエドガー・アラン・ポーの本やフランス詩集なども読んでいて、親の本棚の中の読みやすそうで面白そうなものを自分なりに一所懸命探していましたね。4、5歳の時に、1度だけ交通事故に遭ったことがあって、オートバイに引っかけられて転んでしまったのですが、私は貸本屋に行くための5円玉を右手に握りしめていて離さなかったそうです(笑)。
――漫画はあまり読まれなかったのでしょうか?
田中優子氏: 小学校の高学年ぐらいになると雑誌も出始めて、少女漫画月刊誌を読むようになりました。月刊は結構厚くて、付録なども入っていました。新刊書の本屋が近所にできたので、その少女漫画を親が予約をしてくれて、毎月届けてもらうようにしました。発売日は学校に行っていてもドキドキして、早く家に帰りたかったですね(笑)。今はもう本が溢れすぎていますが、本が読みたくてしょうがなくてワクワクするという感覚は時々思い出します。少女漫画の初期の頃の作品は、歴史に根ざしていたり、素晴らしい漫画家の方々が書いていて、良い作品が多かったように思います。一緒に売られている食べ物が身体に良くないのではないかと母が気にしていたため、紙芝居屋さんの紙芝居を見に行くのは禁止でした。でも禁止されると余計に行きたくなりましたね(笑)。やっぱり、面白い物語を求めていたように思います。
――印象に残っている本はありますか?
田中優子氏: 『星の王子さま』が出た時に有隣堂で買った記憶があります。その頃からベストセラーの本というのが注目されるようになったと思います。五木寛之さんなどは母がよく読んでいた記憶もありますが、そういった本は子どもとはあまり関係がありませんよね。子どもが関係していて、すごく良く売れて評判になった最初の本が『星の王子さま』だったのではないでしょうか。小学校6年生ぐらいだったと思いますが、素晴らしい文学だったので、はっきりと記憶に残っています。作者であるテグジュペリ本人が挿絵を入れていて、絵の楽しさというのもあったので、ずっと読んでいましたね。大好きな本です。
――昔から「作家になりたい」と思われていたのでしょうか?
田中優子氏: かなり早い時期から物書きになりたいと思っていました。私は、私立の中学校に受験で入ったのですが、勉強を全然せずに本ばかり読んでいました。星の観察をするようになってからは、星関係の本も読むようになりました。当時『天文と気象』という雑誌を兄がとっていたのですが、それを読むのが楽しかったです。あとブルーバックスなども読み始めたので、その流れでSFを読むようにもなりました。本を読むのと星の観察をするので忙しくて、勉強をしないせいか成績はどんどん落ちていき、「このままではいけない」と、自分で本を禁止していた時期もありました。高校では、雑誌を作るための編集部のメンバーが募集されていたので、そこに入り、編集部員となりました。自分でも記事を書きましたし、小説を書いて載せたこともあります。掲載には先生の許可が必要だったので、高校生の頃には書くことの勉強ができたと思います。写真も自分で撮っていたので、自分で写真部も作りました。私は好奇心が強いのもあって、高校時代は星や写真という理系のコースと、それから文学、文章を書くという、文系の両方に没頭していました。
大学の先生の本を読んで感動。高校在学中にゼミを決めた。
――その後法政大学の文学部に進まれたわけですが、その理由とは?
田中優子氏: 高校生の頃には物書きになろうと決断をしていましたが、まだ分野を決めていたわけではありませんでした。編集部の顧問をやっていらした国語の先生は私の文章力を認めてくださっていて、「益田勝実という素晴らしい古事記や源氏物語の先生がいるから、ここがいいんじゃない?」と先生が勧めてくださったのが、法政大学でした。すごい先生がたくさんいるということが分かり、その先生たちの本も岩波新書などで読んで感動しました。それで法政大学に入る時には、既にどのゼミに行くかまで全て決めていました(笑)。
――ゼミのほかに興味があったのは、どのようなことでしたか?
田中優子氏: 大学に入ってからはゼミだけではなくて、アルバイトなど、本当に色々なことをやりました。記憶に強く残っているのは大学1年生の時にチョムスキーの本と出会ったこと。世界的な言語学者であるノーム・チョムスキーの生成文法の分厚い本を手に取って「すごいな」と思い、「言語学」という、新しい私の好奇心の対象がまた増えてしまいました。言語学というのは国語学と違い、かなり理論的にできているので、理科系の思考法が必要です。大学でも文学的なものと、理系的なものが私の中で両立していたのだと思います。それからフランス語の教室にも通っていました。『星の王子さま』もそうですが、フランス文学は子どもの頃から読んでいて、すごく好きだったのです。言語学はフランスの構造主義言語学という領域でしたが、まだあまり翻訳されたものが出ていませんでした。翻訳が出ていない本を読むためにきちんと勉強をしたいなと思ったのです。
著書一覧『 田中優子 』