やらないで後悔するより、やって後悔する方がまし
87年東北大学大学院工学研究科修了後、出光興産に就職。退職して仏国立ポンゼショセ工科大学院に留学、国際経営学部修了。仏最大の国営石油会社エルフ・アキテーヌ(現トタール)勤務、日本総合研究所など経て、2002年3月村田アソシエイツを設立。多くの民間企業の新事業開発・経営に参画し、中高年女性フィットネス「カーブス」、NTTドコモ「らくらくホン」、日本発の非薬物認知症療法「学習療法」の米国への輸出などの事業に取り組まれています。また、シニアビジネス・高齢社会研究の第一人者として、講演や、新聞・雑誌への執筆も多数行っています。著書に『シニアシフトの衝撃 超高齢社会をビジネスチャンスに変える方法』『年を重ねるのが楽しくなる!スマートエイジングという生き方』『団塊・シニアビジネス 7つの発想転換』などがあります。自身の経験を生かし常に新しいビジネスに取り組む村田裕之氏に、人生観やこれからのビジネスについてお聞きしました。
雪国生まれは忍耐強い
――シニアビジネスと村田アソシエイツのお仕事、活動内容についてご紹介いただけますか?
村田裕之氏: 私の会社は、設立して12年になります。法人を顧客にした、中高年向けビジネスの新事業開発・マーケティングを支援する会社です。企業から依頼を受けて、企画の初期段階から関わることもありますし、事業によっては会社を創って投資して役員になることもあります。
――今までのキャリア、多岐にわたる業種、業界との繋がりなど、ご経験が生きていますか?
村田裕之氏: そうですね。私自身が一貫して新規事業ばかりやってきました。大企業で新規事業をやる時と中小企業でやる場合と、それぞれに大変さがあります。大企業の場合、社内に嫉妬が多く、敵が多い。社内の敵にいかに「ウン」と言わせるかという戦いの連続です。中小企業の場合は人材や資金が足りない問題が大きいですね。
――ご出身は新潟で、雪国のお生まれだそうですね。
村田裕之氏: はい。栃尾市、今の長岡市です。後の上杉謙信、長尾景虎が幼年期を過ごしたところです。大きな分厚い油揚げは東京でも有名です。雪が深くて、田舎。その風景がいいのか、最近は映画のロケでよく使われています。私が子供の頃は、冬は本当に陸の孤島で、酷かったです。雪が積もると道路の方が家よりも高くなる。積雪で屋根から出入りするのは当たり前。一番ひどかったのは高校受験の年でしたね。一時間に1メートル降ったこともありました。
冬になると雪かきを毎日やらなくてはいけないのですが、これがとても重労働で(笑)。しぶしぶ始めて、「さあ終わったぞ」と思って後ろを振りかえると、もう新しい雪が積もっている。まるで追いかけられているような感じでしたね(笑)。
――そうした経験は精神的なものに影響を与えましたか?
村田裕之氏: ありますね。雪国生まれの人は忍耐強いです。だって、天候ばかりは人間にはどうにもならないでしょう。仕方がないというか、耐えるしかないというか。雪国で育ちますとね、どうしようもない力に身を委ねるわけではないですが、忍耐強くて諦めなくなります。
余談ですが、山本五十六は私の高校の先輩ですが、彼の在学当時は長岡中学という旧制中学でした。アメリカでは、彼が真珠湾攻撃を考えて日本を開戦に導いた立て役者のように誤解されていますが、新潟の中越地方の人間は基本的に戦うことを好みません。いつも雪で囲まれているから、戦っている暇はないのです。戦うべきなのは自然です。ですから基本的にはお互いに助け合います。それがやむにやまれず真珠湾攻撃を指揮した。いろいろな思いを押し殺して本当に「やむにやまれず」だったのだと私は思っています。
エネルギー問題を解決したい
――今は著者として本も出版されていますが、読書はお好きでしたか?
村田裕之氏: 実は、大学に入るまでは大して本は読まず、文学も好きではなかったです。高校2年の夏までは、むしろ現代国語が大嫌いでした。苦手意識が強くてね。なので、まさか自分が書く側になる日が来るとは思っていませんでした。最初の本を書いた時には父親に「まさかお前が本を書くなんて」と言われました(笑)。
学生の頃はアマチュア無線などに凝っていて、モノを作るのが好きでしたね。中学生の時くらいからエネルギー問題に興味を持って、それで最初の就職で出光興産に入りました。
――エネルギー問題に興味を持ったきっかけは?
村田裕之氏: 小さい頃から父親に「世の中の役に立つことをやれ」と言われてきたこともありますし、「自分も何か大きなテーマをやりたい」と漠然と思っていたこともあります。大学の時に入った研究室が地熱の開発をやっていました。私は機械工学科だったのですが、当時としては珍しく、電気工学、資源工学、金属工学など広く、異なった学科にまたがったプロジェクトをやっていたのです。
ホットドライロック(高温乾燥岩体)発電と言うプロジェクトでした。日本は火山国なので、日本中どこでも地下に行けば熱いのです。そこで、「水圧破砕という技術を使って地中に亀裂を入れ、一方の穴から冷たい水を入れれば、もう一方の穴からお湯が取れるじゃないか」という発想で、これの実用化を目指した研究をしていました。地面をボイラーのように利用する。そうすれば、資源小国の日本は永遠にエネルギー問題を解決できるじゃないかということです。
―― 夢のある研究ですね。
村田裕之氏: 結局、夢で終わってしまいましたが、原発事故の後は地熱がまた注目されています。この方法が確立されれば原子力はいらないし、石油火力も最小限で済むのです。ところが技術的に、実用化はまだ難しい。地中は見えませんから、コントロールができないのです。
当時、私がその研究で実際に何をやっていたかというと、土方仕事です。墓石にも使われる硬い花崗岩を加工するプロになっていましたね(笑)。花崗岩の亀裂をどうコントロールするかという理論を構築する実験をしていましたから、一回、実験をすすめるのに、1メートル立方の花崗岩をダイヤモンドカッターでぶった切っていました。それから、岩手の八幡平という山にこもって実験をしていましたから、熊と間違えられて猟銃で撃たれそうになったこともあります(笑)。そういった経験のおかげで、何があっても動じなくなりましたね。
――卒業後は、出光興産に就職されました。
村田裕之氏: 最初は出光地熱という会社に就職する予定でした。それが、入社1か月前に呼び出されて、エンジニアリング会社に引っこ抜かれたのです。結論から言えば、それが非常に良かった。当時、地熱はビジネスとして難しく、シュリンク気味でした。一方、エンジニアリングの方は新しくコジェネレーションを手掛けていた。ちなみに、この技術は最近また注目されています。エネルギービジネスというのは20年くらいのインターバルで繰り返します。風力でもソーラーでも、今やっていることは全て20年以上前にやっていたことなのです。
――入社したのは、出光佐三さんの影響もありましたか?
村田裕之氏: 入社前に出光佐三店主(出光ではこう呼びます)の著書を独自に何冊か読み、新人研修で、さらに多くの著書を読みました。当時、私はまだ25歳の若僧でしたから、店主の書いていることの意味が理解できませんでした。読んでも血肉にならない訳ですね。本当の意味で店主の偉大さが分かったのは40代になってから。自分が独立してからです。
例えば10代の頃に夏目漱石や芥川龍之介の本を読めと言われるでしょう。でも、10代で読んでも、書き手と読み手の人生の深みが違うから、その言葉や文脈の意味なんて分からない。ところが歳を重ねてふと読み返した時に、「ああ、こういうことだったんだ」と思うのではないでしょうか。読書には熟成期間が必要だと思います。本は何も変わらないけれど読み手の感性、読む能力が本のレベルに追い付いて、初めてそのメッセージが伝わる。もちろん未熟な時は、未熟なりに伝わるものがあると思います。でも、時間が経ってからもう一度読むと、その意味がもっと深く、骨身に沁みて分かるのです。
――そのように何度も読み返せるような本を見つけることは大事なことですね。
村田裕之氏: 本との縁ですよね。初めて読んでから長くずっと本棚に留めておく本もあるし、最初に出会った時には縁がなくてほったらかしておいたけれども、30年経って何かの節目にパッと目に留まってパラパラと読んだら、「あ、そういうことだったのか」という事もあります。
音楽や映画でもよくありますよね。特に映画と本は似ている。古い映画、古典的な映画は、10代で観た時と30代で観た時と、50代で観た時と見え方が全く違います。私はどちらかといえば昔のフランス映画やイタリア映画のような、脚本と演技で魅せる映画が好きですね。
感性を大切に
――渡仏されていますが、その理由はどういったことだったのでしょうか?
村田裕之氏: 私は20代半ばに、エネルギー問題の本質は石油だという結論にたどり着きました。石油のエキスパートにならない限り、エネルギー問題の解決はできないと分かったのです。石油ビジネスには、石油を探し当てて掘って生産する上流部門と、それを精製し、製品にして販売する下流部門があります。日本には殆ど下流部門しかありません。ところが世界を牛耳っているのは全部上流部門を持っている当時メジャーと呼ばれた石油資本でした。
戦争の歴史というのは石油の奪い合いの歴史です。現在の尖閣諸島も同じ。1970年代後半、石油ショックの後に尖閣に大きな石油の貯留層がありそうだというので、中国が領有権を主張するようになりました。20世紀は石油の世紀と言われましたが、21世紀も根本は変わっていません。原子力もまた、石油がないと成り立たないエネルギー源です。そこには莫大な資金と政治が関わる。私はその世界に行ってみたいと思い、出光を飛び出してフランスの学校に留学しました。
何て無謀なことをしたのか、後でよく分かりました。今はインターネットのおかげでフランス人もかなり英語を話すようになりましたが、25年前はフランス語を話せなければフランスでは生きていけませんでした。当時の大統領はミッテラン。首相のマダム・クレッソンが対日強硬派で日本に批判的でした。当時はバブル経済の頃で、私が日本人だと分かるとすぐに「何で日本はあんなに洪水のごとく製品を輸出するんだ」と言われました。国の外に出て初めて、日本人であることを再認識させられ、自分と関係のない国の問題も自分に問われるのだと知りました。「日本は何で女性が家に閉じこもって働かないのか」などと、色々なことを質問されました。また、当時は特にアジア系は差別されていたように思います。根強い人種差別というのは、今もあります。だから日本で在日韓国人などが差別されているのを見ると心が痛みます。一度でも自分が外国に行って差別された経験があるなら、そんなことは絶対にできないはずです。
――出光を辞めて留学というのは、大きな決断でしたね。
村田裕之氏: 親にも「何で辞めるんだ」と言われましたが、出光では石油のエキスパートになれないと分かりましたから。やらないで後悔するより、やって後悔するというのが、私のモットーだからです。
ただ、フランスでの生活は結構大変でした。初めの1カ月は「何でこんな所に来ちゃったんだろう」と意気消沈しました。歴史上の偉人の森鴎外や夏目漱石もみんなヨーロッパに行って鬱病になっている。寒い、暗い、物価が高い、人が冷たい、友達もいない、言葉も通じない。これではみんな鬱病になるわけです(笑)。でも、親にタンカ切って飛び出てきた以上、弱音は吐けない。親へ宛てた手紙では「元気にやっております。授業は充実しているし、世界中から色々な学生が来ているから大きな刺激を受けています」なんて書きながら、実際は涙が出そうなきつい毎日でした(笑)。
――そのような色々な経験が著書にも生きているのですね。本を出されたのは、出版社からのお話があったのでしょうか、それともご自身で企画を持ち込まれていったのでしょうか?
村田裕之氏: 2003年、当時シニアビジネスが注目され始めていました。私を真似て、若い人がコンサル会社を作って破竹の勢いでやっていたのですが、その人が先に本を出したのです。「あ、やられた」と思いました。中を見ると、私のデータを引用していて。それで、早く自分の考えを世に出さなければいけないなと思ったのです。そこで、前々職の日本総合研究所時代から知り合いだったダイヤモンド社の編集者の人に企画を手紙で出したら、「面白そう」と乗ってくれて、担当編集者に繋いでくれたのです。ダイヤモンド社で出版が決まった時は、もう、うれしくて、うれしくて。「ついに本が書ける、出せる」と思ってウキウキでした。今では常に締め切りに追われるようになっちゃって(笑)、逃げ出したくなるくらいなんです(苦笑)。
――書く上で大切にされていることはありますか?
村田裕之氏: どこにでも書いてあるようなことは極力書かないようにしています。それから、新聞や雑誌、テレビで一般的に言われていることが必ずしも正しいわけではないということを、常に頭に置いて、自分の気持ちに素直に書くようにしています。よく「シニアマーケットを捕まえろ」とか「シニア市場を攻略しろ」という言葉を目にしますが、そもそも、捕まえたり攻略したりする市場ではないのです。
――そうしたことを見極める秘訣は?
村田裕之氏: 折に触れて素直な気持ちになる体験を積むことですね。自分の気持ちが素直に解放される体験を積み重ねることが大事だと思います。
歳をとるにつれ不感症になっていく人が多い。サラリーマン、特に銀行員や公務員などは自分の感情を業務では表に出せません。喜怒哀楽を表に出さないようにして20年以上もやってくると、いざという時に喜怒哀楽が出せなくなってしまう。機能、感性が衰えてしまうのです。
岡本太郎が書いた『今日の芸術』という本に、「いつの間にか精神の皮が固くなって己自身の自由観というものを忘れてしまい、他人の自由に対しても無感覚になってしまうのです」とあります。真実を見極めるために大切なのは、自分の感情、本当の心、魂の求めているものを解放して、それをぶつけることだと思います。私はこの本が大好きなんです。20代の時に読んで頭にガツンときた本です。
次世代の若者のために
――今後していきたいことはありますか?
村田裕之氏: 私は今、シニアビジネスに機軸を置いています。日本は高齢化率で世界一の超高齢社会です。年金にしても介護保険にしても課題は山積みですが、見方を変えれば先行者、フロントランナーとしての先行利益にもなるわけです。日本の商品・サービスを練り上げて、これから高齢化に直面する他の国に持っていけば、それらの国から感謝され、ビジネスにもなる。これをきっかけに日本の活力を、もう1回取り戻したいというのが1つあります。
もう1つ重要なのは、シニアビジネスや高齢化の課題解決は、実はシニアのためではなく、次の世代のためだということ。我々の社会は、1番年長の高齢者層が元気だと次の世代も元気になっていく。ところが最上層である高齢者層がしょぼくれていると、「日本の将来は暗いね」となってしまうでしょう。ですから、まずは高齢者層に元気になってもらう。そしてタンス預金の有意義な使い方を提案する。彼らが求めているが、まだ実現していない新しい商品・サービスを生み出し、気持ちよくお金を使ってもらうことで次の世代に所得移転をするのです。こうして企業の業績が良くなれば、雇用機会も増えるでしょう。若い人がそこでどんどん活躍していけばいい。シニアが長く働くと若者の雇用がなくなるなんてのは見方が狭いと思います。シニアのポテンシャルをうまく使って、次の世代のための種を撒いていくのです。
――今後の展望をお聞かせください。
村田裕之氏: 敢えて次にどういう本を書きたいかと言われたら、私は大学の仕事もしていますので、学生向けの本を書きたいです。以前、関西大学の客員教授をしていた時は、毎年1回、4月に、文学部の1年生に大学4年間をどう過ごすべきかという講義をしていました。これは自分の悪しき経験を踏まえてお話していました。
私がいつも話すのは1つ。「4年の間に、1つでいいから自分のテーマを見つけなさい」と。たった1つでいいから、自分しかできない、自分が1番好きなテーマを見つける。そのテーマを見つけるにはどうしたらいいか、そういう話をします。「それが貫徹できたら、就活なんてやらなくていいよ」と。就職が理由で大学院に行く人が多いようですが、就活予備校みたいなそういう時間の過ごし方はナンセンスだと思います。「だったら1か月でいいからカンボジアでもミャンマーでも、イランでもイラクでも行って、現場の生の姿を見て来い」「卒業旅行の代わりに、一人旅をしろ」って言ってね。
――本や講演を通して伝えたいこととは?
村田裕之氏: 私の手掛けているシニアビジネスは中高年や高齢者が対象でしょう。自分も多少歳を重ねてきたせいもあり、最近の関心は、人生の最期をどう過ごすのか、にあります。結局、多くの人が心の準備も含めて準備をきちんとしないうちに制限時間が来てしまっています。最近の傾向としては、「自分で納得して、スッキリして最期を迎えたい」という人が増えているのです。自分は親の介護でえらい目にあった、だから自分の子供にはそういうことをさせたくないと思っています。ですから、やるべき準備をした上であの世に行きたいという傾向が強い。実はやるべきことをある程度準備できると、逆に残りの時間は本当にやりたいことに費やせる。そういう思考を本当はもっと若い時期に持った方が良いと思います。我々の人生の時間は有限なのですから。
我々の生きている時間は、砂時計のようなもの。少しずつ砂が落ち続けていて、この砂がいつなくなるかは本人も含めて誰にも分からない。この砂が落ち続けていること、砂が有限だということは、特に20代、30代では分からない。若い頃は、なんとなく時間が無限にあるような錯覚に陥ります。ですから、必要なのは死生観です。生きるとは何か、死ぬとは何か。そこからスタートしていく。良く生きるために死んでも困らないための準備をする。そういうところから逆算した時に、20代には何をしたらいいのか、そういうことを伝えたいですね。
(聞き手:沖中幸太郎)
著書一覧『 村田裕之 』