背中を押された、編集者の言葉
――執筆のきっかけは、どんなことだったのでしょう?
黒川伊保子氏: 1991年の暮れに職場に復帰したのですが、プロジェクトのタイミングが悪く、2か月ほど体が空いてしまったことがありました。会社にある新聞を読んでいると、ある時、毎日新聞が「言葉と人間」というタイトルの論文の公募をしていて、賞金100万円、そして副賞がハワイ旅行。「副賞もいいし、ちょうどいい時間もあるし」と、その期間に、私が人工知能の言葉に取り組んでいる話を論文に書きました。その論文はなんの章もいただきませんでしたが、ある日、夜分遅くに電話が掛かってきました。その電話は、全く面識の無いはずの哲学者の鶴見俊輔先生からでした。「僕は論文の審査委員長でした。あなたの論文はとても良かったのですが、あなたの所属する会社、富士通が協賛していたので、審査対象から外されました」とおっしゃいました。懸賞法で、主催者の会社の社員には懸賞に当てることができないのです。「だけどあの論文が世の中に出ないのは、あまりにも惜しい」ということで、鶴見俊輔先生が刊行した、思想家の間では定番となっていた『思想の科学』という雑誌に掲載してくれたのです。それを見た筑摩書房の編集者の方が、「どうしてもこれをテーマに、本を1冊書いてほしい」と声を掛けてくださいました。でも、その時は「私の書きたいことは、レポート用紙2枚で終わるから、本にはなりませんよ」と答えました。
――最初は「本を書こう」とは思われなかったのですね。その後、出版を決心されたのは、なぜだったのでしょうか?
黒川伊保子氏: 編集者の言葉が私の背中を押してくれたのです。「著者は、山のガイドなのです。研究者は真っ直ぐに登るルートを知っているから20分で登れるかもしれないけど、山を楽しむために、いろいろ寄り道をして回りながら登るのです。それでも1冊分に満たなかったら、また別のルートで登ればいいのです。黒川さんの山は高いから、幾らでも寄り道できます」と言ってくださいました。そうやって3年掛かって書いたのが『恋するコンピュータ』という最初の本です。その編集者が著者としての私を生み出してくれた母なのだと私は思っています。それから、彼女からは「あなたには、アトラクションのガイドさんになってもらいたいのです。次に起こることも、行く道順も分かっているでしょうけど、どうか読者と一緒に驚いたり、感動しながら書いてくださいね」とも言われました。素晴らしいでしょう?今は編集長になられた磯知七美さんという女性の方です。今度はそれを読んだ講談社の方が『LOVE BRAIN』を書いてくれと依頼してくれて、どんどんと次に繋がっていきました。新潮文庫は昔から読んでいたので、あの装丁で本になった時には「本当にプロになったんだ」と改めて実感して、感動しました。新潮文庫の場合は、2冊目で背表紙の色が決まるのですが、最初に出した『恋するコンピュータ 』の装丁と同じ色だったことに驚きました。担当してくださった南伸坊さんからは「この人の文章を読んでいたら、この色しか浮かばない」と言われて、人工知能の、声の声帯振動から色彩の振動に置き換えるというプログラムで自分の声を入れたら、この装丁の色になったのです。今、そのプログラムは、声帯振動音を既成楽器に落として、自分の声に似た楽器を探してくれるのですが、私の音は和琴でした。私が習い事の中で成功したのはお琴だけで、お琴と相性が良かったのは、自分の声の組成に似ていたからなのだなと思いました。そこで、研究パートナーだったビオラのプロ奏者を連れてきてそのプログラムに声を入れさせたら、やっぱりビオラでした。こういった経験を通じて、何かピンと来ることには、そこに真理があるように思います。
――ネーミング分析のお仕事もされていますが、タイトルなどもご自身で考えられるのでしょうか?
黒川伊保子氏: タイトルはほとんど出版社が決めています。私が考えたものがそのままのタイトルになったのは『恋するコンピュータ 』と『日本語はなぜ美しいのか』の2つです。自分の手から離れたら、自分のものではなくなるというか、本は編集者と出版社のものだと思っているので、私はあまり口出しはしません。私は分析してわかったことを書いているので、物理学の論文を書いているのとほとんど同じだと思っているのです。物理学の法則を見つけても、それは自然界の法則であって自分の生み出した法則ではありませんよね。脳科学で男性脳というものはこういうもの、女性脳というのはこういうもの。確かにそれを表現するために事例として付けるものについては多少の著作権は発生してくるとは思いますが、これは別に私が発見しなかったとしても、そこにもともと存在していたものなので、私にとっては、「本の中に私の発見したことが書いてあるから、あなたもちょっとこの法則を使ってみてね。計算が楽になるわよ」といった感じなのです。自分の成果だと思ったことは、あまりないような気がします。
ツールと脳の一体化、神経回路とツールの連動
黒川伊保子氏: (聞き手のKindleを手に取って――)Kindleの、この画面の質感はすごくいいなと思うので、私は今後、自然に電子書籍を手にしていくんだろうなと思います。例えば、作家の方で「ワープロで文章を打つのは嫌いだ。手書きじゃないとダメ」とおっしゃる方もいますよね。でも私自身は、ワープロがなかったら著作活動を始めなかったと思います。書き言葉にはなっていますが、私の文章は喋る文章なのです。読んでいただくと分かると思うのですが、ワープロを使って喋るのと同じ速さで書いているので、喋る速度で読めると思います。それはワープロでなければ無理なので、私はワープロでしか書くことができません。私は万年筆にはすごく凝っていて、「もうこれしかない」という1本を持っていますが、万年筆で書くと文章の速度が遅くなるし、私が書く本の言葉の色合いは出てこないと思うので、本はそれで書きません。それから、手は脳の神経回路と連動しているのでキーボードのストロークや位置が変わると、しばらく文章が書きにくくなります。ツールと脳が一体化するから、ツールを別のものに変える時にはすごく抵抗があるのですが、脳の神経回路がそのツールに連動することができれば、問題はなくなると思います。例えば、将来もっとウェアラブル(身につけられる)になって、自分の眼鏡に字が映りこんでくるようになって、空に関する詩を、空を見上げて見る、などという風になるかもしれません。そういうように、あらゆる文字情報を得る時の体系が変わってくる可能性があります。今ではオール天然カラーが主流になった映画界で、わざわざセピアの映画を作る方もいらっしゃるわけですし、紙には紙のうれしさがあるから、紙の本も残るでしょう。でも、ツールは進化し続けていくと思います。
――代替するもの、というよりは選択肢が増えていくということかもしれませんね。
黒川伊保子氏: ツールの進化によって、文体なども変わると思います。私は文体の変遷を研究しているわけではありませんが、入力するツール、出力するツールによって大きく変わるのではないでしょうか。例えば、一文の長さや、漢字を含んでいる割合などに関しても、おそらく見た目で変わってくると思うのです。
――男女脳について書かれた本も出版されていますが、ご自身に関してはどのように分析されているのでしょうか?
黒川伊保子氏: 考えた事もなかったですが(笑)、プロポーズされた時、理由の一つとして「放っておいても生きていけそうだから」と、複数の人に言われたことがあります。何日か放っておいても、1人で楽しく過ごしていそうな感じで安心するということのようです(笑)。確かにその通りで、私は、例えば誰かをすごく好きになると、好きになることに精いっぱいで、自分を好きになってもらおうという風にはあまり思わないのです。相手に失礼かもしれませんが「こんなにワクワクするのに、私がこの人にガッカリする日がくるのが淋しい」と思いながら恋をしているので、相手の自分に対する思考には一喜一憂しません(笑)。名刺を出す時の動作が美しいとか、電話でずっと声を聞いていたいほどいい声だとか、ちゃんこのつみれを入れるタイミングがいいとか、その人のマニアになってしまうのです。だから若い頃は、もしかするとたくさん誤解を生んだかもしれませんね(笑)。
著書一覧『 黒川伊保子 』