小林源文

Profile

1951年、福島生まれ。小学校低学年より東京の下町で育つ。高校卒業後、弱電関係と冷凍ユニットの整備員を経て、24歳、『壮烈!ドイツ機甲軍団』(立風書房)で漫画家デビュー、35歳よりフリーとなる。日本における戦争劇画の第一人者であり、戦争を題材とした作品を描く。登場人物の台詞にも印象的な台詞回しを特徴とする。 著書に『黒騎士物語』(日本出版社)、『Cat Shit One』(ソフトバンククリエイティブ)など多数。

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「諦めない」才能。描き続けて来たからこそ、開く扉。



戦争を題材とした劇画を中心に活躍する劇画家・イラストレーターの小林源文さん。『GENBUN MAGAZiNE』では、自らが発信媒体を持つ事で、自由なテーマで多くのファンに作品を届けています。数々の作品を世に出し続けるまでには、何度かの挫折や苦労がありました。その経験は、現在開かれているアートスクールで後進育成のノウハウとなって活かされています。描き手としてだけでなく、育てることにも熱心に取り組まれている小林さんに、出版に至るまでの経緯、作品を仕上げる喜び、描き続ける秘訣について語って頂きました。

“心の隙間”を埋める


――(お仕事場にて)資料がたくさんありますね。


小林源文氏: 明日あげなきゃいけない原稿もあります(笑)。自宅ではなく、あえて仕事場を設けている理由でもあるのですが、ここはもともとアートスクールを開くつもりで借りました。デッサンのための石膏像も押し入れに入ったままになっています。

――映画も流れていますが。


小林源文氏: これは今度描く漫画の資料映像として流しているのですが、映画は昔から見ていましたね。小学校4年から6年の間は月島に住んでいて、木場に行けば三番館の映画館があり、日比谷の方に行けば洋画のロードショーをやっていたりしましたので、よく歩いて映画を見に行ったりしていました。「地底探検」(米国、原作『地底旅行』)とかを日比谷の三原橋のあたりにある映画館で見ていましたね。それから「荒野の七人」(米国、日本映画「七人の侍」黒澤明監督のリメイク)。黒澤映画をベースにしているとは全然知らないで(笑)。その頃は、テレビでもちょうど西部劇が流行っていたんです。

――その頃、絵は描かれていましたか。


小林源文氏: 絵を描くのは昔から好きでしたね。親父はもともと警官だったのですが、使い込みとかそんなことをして退職してしまいました。おふくろは中学校の時に家出。中学1年生の時に別れて再会するまで38年かかったかな(笑)。保険会社か銀行員のおばさんが探してくれたのですが、38年ぶりに会った時は、人目もはばからずいい歳をしてびーびー泣いてしまいました(笑)。そういう家庭環境だったから、絵を描く方向でいったのかな、と思いますね。要するに、現実逃避です。本当にまともに絵を描くようになったのは、中西先生の門を叩いてからですね。その若い時にいい絵描きさんと出会えたのが良かった。それでずっと続けてこられたから。あとは、こういう絵を描くアルバイトは、当時、普通のアルバイトよりもギャラがかなり良かったからね(笑)。

それから中学生の頃には、絵を描いたり映画を見に行ったりする一方で、読書にも目覚めました。古本屋によく行っていましたね。ずっとアメリカの文化に憧れていて、あの頃、毎日新聞でやっていた『リーダーズ ダイジェスト』をよく読んでいました。最初に読んだのがちょうど小学校の5、6年生の時で、マリリン・モンローが亡くなったという記事が載った時、「こんな可愛い女の人がいるんだ」と驚いたのは、ずっと記憶に残っています(笑)。それと『リーダーズ ダイジェスト』は、記事に載っているイラストのセンスがいいんです。今では「アメリカン・イラストレーション」という分野になっているけど、「そういう絵はどうしたら描けるのかな」と思っていましたね。その、自分が理想とする絵に一番近かったのが中西先生の絵だったんです。

門を叩くも「弟子入り」は、却下


――後に弟子入りの門を叩かれる先生ですね。


小林源文氏: そう、今から50年ぐらい前は少年月刊誌の時代があって、その頃、挿絵画家では小松崎茂さんがトップで、中西立太先生や高荷義之さんなどの作家がいました。中西先生か高荷さんのどちらかに弟子入りしようと思ったのですが、中西先生は軍事物以外の絵も描けて幅広く活動されていて、なおかつ当時自分が住んでいた場所から近いという事で、出版社の方に中西先生の住所を教えてもらい、門を叩きました。それが15、6歳の時です。「弟子にしてください」と言うとすぐ断られましたけど、「暇な時に遊びに来ていいよ」と言われたので、その時はしょっちゅう入り浸って後ろで絵を描くのを見ていました(笑)。

――憧れの作家の現場を生で見られたんですね。


小林源文氏: 当時、小学校の同級生と漫画を描いていたのですが「とてもじゃないけど俺はこんな絵は描けないな」と思いましたね(笑)。そして、何年間か通って見ているうちに、先生に「小林君ね、リアリズムだったら長く食えるよ」と教えられました。まともにデッサンを練習し出したのは18歳ぐらいの時からですね。2年ぐらいやって、会社の寮で同じ部屋にいた先輩の昼寝している顔を描いて見せたら、「小林君、うまくなった」って初めて褒められたのを覚えています。たまたまその先輩が色黒だったから描きやすかったんだよね(笑)。それがまず第一歩だったかな。


何度も挫折した劇作家への道


――就職して仕事をしながら、描いていたんですね。


小林源文氏: 20歳の頃は持ち込みとかも始めていて、何度も挫折して、実際は大変でした。「中西先生のようなイラストレーターになりたい」とも思っていましたが、この頃の出版界では『少年サンデー』に始まる週刊誌の時代に移っており、月刊誌は淘汰されてました。月刊誌の頃はたくさんあった仕事も、印刷技術が進化して写真を使う事が多くなり、絵描きの仕事がなくなりつつありました。プラモデルのブームもあったのでそのパッケージを描いたり、中西先生の仕事も歴史考証画や日本のお城、鎧なんかの方に移っていってしまいました。図解の仕事はずっとやっていましたね。中西先生から『壮烈!ドイツ機甲軍団』を描くのを手伝わないかと言っていただいて、モノクロ部分は私が全部描いたんです。それで共著として出したのが1975年、24歳の時でした。

そのあと、25歳で『X戦車図鑑』を出した後に、1回中断しました。その頃、ちょうど結婚して、弱電関係の仕事をしていたのですが、それだけでは給料が安くて食べていけないので、大井ふ頭の方で冷凍コンテナやガントリークレーンのメンテナンスなどをやっていました。ダメサラリーマンで、「休みは多く仕事は楽で給料はいっぱいほしい」という、間違った考えでした。「半年で辞めてやる」と思っていたのが、だんだんとその仕事が面白くなってきたんです。

そして、2年目辺りに全体のシーケンスが分かるようになってからは、故障修理なんかを1人でやっていても、周りの誰からもうるさいことを言われなくなってきたんです。最初はあんなに「早く辞めてやる」と思っていたのが、結構面白いから「じゃあもうちょっといようかな」と、結局そこでは10年間仕事をしていました(笑)。派遣で下請けだから立場は低いし、最初の頃は仕事を知らなくて怒鳴られて辛かったなぁ。職場環境も最悪(笑)。夏は照り返しで40度以上だけど、コンテナを船の中に積むので、ハッチを被せると中は60度以上。だから出てくると、体中に塩の結晶が付いて、お風呂に入っても簡単に取れない。もう絶対やりたくはないけど、あの仕事は好きだったし面白かった。

そういうきつくも楽しい仕事のおかげで、全く絵を描かなかった時期が2年間ほどありました。ちょうどその頃に友だちから「ホビージャパンの仕事をちょっと代わってよ」と言われ、2年ぶりぐらいに絵を描いて連載されることになるのですが、それがヒットしました。漫画を描くようになったのは、それからさらに1年ぐらいあとです。最初は4ページの絵物語だけで描いていました。1年ちょっとしてから絵物語でドイツ軍を描いていたらだんだん人気が高くなってきて、「漫画を描かないか?」と言われ、「じゃあもうちょっと漫画っぽいやつにしよう」と思いました。ずっと絵物語でしたから、最初は話が作れなくて、非常に悩みましたね。

30代半ばからの決断。劇作家として独立


――その後会社員を辞め、劇作家一本で。


小林源文氏: やめてフリーになるきっかけはバイク事故。自損事故で途中、出版社に寄ったのですが、あの時に止めてくれればよかった(笑)、なんて人のせいにもできないけれど、その時に骨折してしまって、やっとサラリーマンを辞めることができました。半年前から退職願を出していて「辞めさせてくれ」と頼んでいたのですが、仕事が忙しくなって、毎日睡眠時間が3、4時間っていうのが4、5年も続いていたので、怪我はつらかったですが、辞められたときは本当にほっとしましたよ。

当時会社員としての給料より、原稿料の方が多くなっている時でした。とはいえ、家族もいる中で何年食べていけるか分からず心配でしたが、やってみたかった。さらにフリーになって40歳を過ぎてからは「これは何か戦略的に考えないといけないな」と、“ただ使われるだけじゃ終わってしまう”という思いが出てきました。

――ご自身で発信する媒体『GENBUN MAGAZiNE』を発行するきっかけもそこにあったのでしょうか。


小林源文氏: そうですね、40歳を過ぎてから、10年先を考えるようにしたことかな。普通の会社の経営者でも、10年先を考えると言うでしょう。だから自分で『GENBUN MAGAZiNE』の出版を始めたんです。自分が考えて好きなものを発信できる媒体を持ちたいなと。

直接のきっかけとなったのはある編集者との打ち合わせの時でした。子供の頃『月刊少年〜』ってあったでしょ、それの『442連隊戦闘団:進め!日系二世部隊』のイラストを描いたのが中西先生なんです。それを10歳の頃に見たんですが、その時からずっと忘れられなかった。中西先生に「その時の表紙をください」と言ったら、「これは絶対にあげられない」と言われてね(笑)。あの絵が好きだったな。文章を書いたのは矢野徹さんでした。ハイライトシーンだけは歴史的事実と合ってはいるけれど、内容的には半分ぐらいがフィクションです。それでも冒険小説的な内容で面白かったんです。

だからそれを、今度は自分で、歴史に忠実に描いてみたいと思いました。だってあれこそ本当に日本中を元気にする話で、あの部隊がアメリカ軍の中で一番勲章をもらった部隊ですから。

それでその話を編集者の方と打ち合わせをしたところ「なんですか、それ?」って言って聞くんです。歴史ものを担当としてやっているのに知らないんですよ。「いや、そんなの売れませんよ」とも言われました。だからこっちも意地になって(笑)、その日系部隊を描きたい、それなら自分で媒体を持とうと思いました。するとそのうち、新しい人をデビューさせるために、連載させてくれという話が出版社から来るようになりました。

人が今まで描いたことのないものを表現したい


――長年描かれてきて編集者や読者の反応はどう感じますか。


小林源文氏: ある時編集者に「小林さんのはセリフが多いね」と言われました。これには理由があるのですが、漫画と小説じゃ表現方法が違いますから。小説というのは、ここで何か起きるために1から10まで全部下ごしらえして「何か起きました」というのがあるでしょ。漫画は突然ポンと「これが起きました」となってそこから話を始めることができるんです。だからアメリカの映画なんていうのは、最初からドカーンと大事件が起きて話が始まるでしょ?お話作りって意外性と整合性なのです。あとはリアリズム。リアリズムは、目で見る小説のつもりで作っています。だからセリフも多いです。
それから、編集長だけではどの漫画が面白いか分からないから、読者の投書に委ねていたのですが、自分が『ウルトラジャンプ』をやっている時、投書でビリから2番目だったんです。その時、編集長に「ビリから2番目なのに、なんであんたの単行本が1番売れるんだ」って言われた時は、腹を抱えてゲラゲラ笑いましたよ(笑)。

――編集者と意見を戦わせながら作品を作っていくんですね。


小林源文氏: そうですね。やっぱり人が今まで描いたことのないようなものを表現したいじゃないですか。ただ最近は、すごい編集者が少なくなったように思います。ただ原稿を入稿するための作業じゃなくて、一緒に何か考えてくれるような人がいいね。今仕事している担当編集者とは10何年の付き合いですが、「おたくが1番紳士的だね」と言ったら、「え?うちはただの会社ですから」って言うの(笑)。出版という今までのイメージとちょっと違う会社だからかな。この間『オメガ7』をやる時は俺が間に合わなかったんですが、彼は自分の首を賭けて締め切りを3週間ずらしてくれました。「先生の本は必ず増刷がかかりますし、赤字になりませんから心配していません」って言ってくれました(笑)。

――電子書籍やインターネットでの作品や情報発信も積極的にされていますね。


小林源文氏: 10何年前に150万かけてMacintoshで描き始めた時は、Macもすぐフリーズして、ひどかったです。毎回保存しないといけなくて、徹夜で描いた絵がうっかりフリーズして消えてしまった時は思わず涙がウルウルウルって出たり(笑)、MOの相性が悪くて続けて10枚ぐらい飛んでしまったり(笑)。でも、かみさんに「これ、使えないよ」と言ったら大金をかけている手前、何を言われるか分からないから、「いや、だまって描かなきゃ」と思って必死に使いこなしました(笑)。

そうやって電子機器との相性も次第に良くなっていったのですが、今後新たな取り組みとして『黒騎士物語』の英語版をKindleにアップしようと思っています。ほかにも「World of Tanks」(オンラインゲーム)のデザインをやっています。この絵を描くと最初に10か国ぐらいにアップされるそう。全部で15カ国でやっているので、少しずつですが海外での知名度も上がるようにしようと思って。

――海外発信をする中で、交流などはありますか?


小林源文氏: アンダルシア地方政府の招待で2、3日の間、向こうで漫画教室をやったんです。そしたらそこでお昼から酒を飲まされて。食前、食中、食後とフルコース。2日目か3日目には「もう勘弁してくれ」と思いましたね(笑)。そうしたら今度はEUのイタリアの代表団まで来て、一緒に俺が説明するのを聞いていたりして。あれは面白かったですね(笑)。

昔、中西先生の所でスペイン出身のエステバン・マロウドという作家のアメコミを見せてもらったのですが、ペン画がすごくかっこよくて、こんな画を描きたいと思ったことがありました。アンダルシアに行く前にもスペインに行く機会があったのですが、会うことはできませんでした。1942年生まれだからもうそろそろ結構な年かな。そういう想いがスペインにはありますね。

一枚絵の描ける人を育てたい。「毎日続けて描く」ことが大事


――作品制作だけでなく、現在は後進の育成にも熱心に取り組まれているそうですが。


小林源文氏: 絵描きさんでリアリズムを描ける人を育てたいと思って教室をやっています。まだスクールを始めて2年か3年目だけど、少なくともちゃんとした絵を描ける人になるには、やっぱり10年ぐらい続けないと結果は出てこないんじゃないかと思っています。そのうち、町田の方に分校でも作る時は、海の描き方、空の描き方、船の描き方、それを教えることができる場所も作りたいですね。大きな会社の応接間に行くと、大きな海洋画が飾ってあることが多いですが、その需要は結構あると思う。昔、少年誌が廃刊になって仕事がなくなった絵描きさんが、中西先生のところに「この先どうしようか」と相談に来てたんです。そうしたら中西さんが「海洋画を描きなさいよ」と言っていました。その人は10年後には海洋画で有名になって、それで食べられるようになってましたね。

――続けることで結果が見えてくる。辛いときはどうやって乗り越えていきましたか。


小林源文氏: 体力仕事もキツいけど、例えば、漫画だって眠らないでやるのはすごい苦痛で、午前4時頃になると「俺、何をしているんだろうな」と思うことなんかも何度もあるのですが、最高にいいものができた時は、やっぱりすごく嬉しいんです。誰も見たことのないものを見せてやろうと思うでしょ?そういう喜びがあるから続けられるんです。いかにその喜びを自分自身で発見して見つけていくかだね。昔、「おお、すごいな」「かっこいいな」と思って憧れた中西先生とか高荷先生も、もうお年で描き手は自分しかいない。だからこそ、もっと描ける人が出てきて欲しいですね。

(聞き手:沖中幸太郎)

著書一覧『 小林源文

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