デザインの最先端を学ぶために
――デザイン科に入ろうと、昔から考えていたのですか?
本秀康氏: 僕は親の転勤で、小学校5回、中学校、高校は2回ずつ転校しています。こんなに転校が多いと普通は苦労も多いのでしょうが、僕にとって転校はプラスになりました。転校した場所は結構偏っていて京都、三重県など近畿一帯と埼玉、九州です。中学校3年生の時は埼玉の和光市というところに住んでいて、その後佐賀に引っ越したのです。そこで高校のデザイン科に入ったのですが、入ってすぐ親の転勤が決まって、また東京に戻ることになりました。その時、「せっかくここの高校に入ったのだから、高校卒業まで1人でここで暮らしなさい」と親に言われたのですが、僕は東京の生活を知っているし、九州でデザインを学んでも不利だなと思って、「東京のデザイン科がある高校に入りたい」と言って、東京へ戻りました。
中学で東京に住んでいた時はカルチャーに対して無頓着だったのですが、1年半くらい九州に住んだ時、東京でカルチャーを吸収するということが、いかに大切かということが分かりました。それで、高校2年生の1学期から横浜に引っ越して、最新のカルチャーを必死に勉強しました。イラストの展示や、イベントがあれば必ず行くようにしました。サブカルチャー的な素養が、そこで形成されたと思います。こういう風に気付かせてくれることもあったので、あの転校は、自分にとってはプラスになったと思います。
夢を思い出してイラストレーターに。
――将来は、「絵を描く仕事に」と思っていましたか?
本秀康氏: 将来の夢は漫画家でした。でも高校がデザイン科だったので、しばらくはデザイナーの仕事をしていました。デザインをしていると、イラストレーターに発注する時間がなくて、自分でイラストを描くことも結構ありました。それが社内の別のデザイナーの目に留まって、社内で発注を受けていたら、イラストのほうが楽しくなったので、会社を辞めてフリーのイラストレーターになりました。
新人の時にイラストレーターとして売り込んだのは、『MUSIC MAGAZINE』さんと、文藝春秋から出ている『Sport Graphic Number』というスポーツ雑誌の2誌だけです。通常は、もっと一般紙のほうに売り込むことが多いようなのですが、僕の20代前半期はものすごいオタクの時代で、音楽とボクシングにしか興味がなかったのです。それで好きなミュージシャンを描いて『MUSIC MAGAZINE』に、好きなボクサーを描いて『Number』に持って行きました。『MUSIC MAGAZINE』でも『Number』でも、絵を見せたのは、ほんの30分くらいで、その後2時間くらい編集者と専門分野の話をして盛り上がり(笑)、仕事を頂くことになりました。
――編集者は、どういうところを見ているのだと思われますか?
本秀康氏: 絵の良し悪しよりも、「この人はこの雑誌の傾向に詳しいのか」というところを見ていると思います。やはり専門誌というのは、記事だけではなく、イラストにもマニアックな目線がないと読者に納得してもらえないので、編集者はビジュアルを作る人やイラストレーターに関しても、その分野におけるマニアを望んでいるようなのです。僕は基本的に、音楽、ミュージシャンのことが好きになったら、その人の似顔絵を描きます。子どもの頃、本を買い始めるのは漫画からだと思いますが、好きなキャラクターを模写していました。その延長線上で当時は描いていましたが、それが活かされたのだと思いますね。
――漫画家への転身のきっかけは?
本秀康氏: 25歳か26歳位の時、中学生まではずっと漫画家になりたかったということを思い出したのです。中学生の時に描いていた漫画は、鉛筆で描いただけの落書きでしたが、やっぱり漫画家なりたかったので、つけペンとインクを買ってきて、漫画家のように仕上げようと、書いたこともありました。でもなかなか難しかったです。それから10年くらい経って、「今ならプロとして絵も描いていることだし、できるだろう」と思って描いてみたんです。それを、『月刊漫画ガロ』に持ちこんで、載せていただけることになりました。
著書一覧『 本秀康 』