昔の夢は、プロ野球選手
――三重県のご出身と伺っております。
三浦佑之氏: 三重県の美杉村(現・津市)の生まれです。小学校の頃は、学年の分け隔てなく全員を引き連れて、杉ばかりの山中や川を駆け巡っていました。やんちゃ坊主みたいな感じですが、今思うとあまりいいことではなかったかもしれないです(笑)。
――どういうきっかけで文学少年になっていったのでしょうか。
三浦佑之氏: 中学、高校と、国語の先生が面白い授業をしてくださったということもあるかもしれません。あるいは祖父が寝物語にしてくれた講談に興味を持ち、それで本を読んだりすることが好きになったのかもしれません。そうそう、数学とか理科系のものが全然できなかったから余計にそうだったのでしょう。消去法で残ったのが、国語であったということだったのかもしれませんね(笑)。
――中学校の頃はどんな本がお好きでしたか。
三浦佑之氏: ありきたりの日本文学ですが、図書館に備えられていた文学全集で漱石だとか森鴎外だとかを読んでいたように思います。もちろん当時は、鴎外の難しい時代もの的な作品は分からなかったけど、鴎外の青春もので、『青年』や『雁』などはすごく面白くて、青春小説というか恋愛小説として一種の憧れがあったのかもしれません。でもそれよりも、家で祖父や親父が読んでいた『オール読物』があって、そこに載っている通俗小説や時代小説を隠れて読むほうが好きだったように思いますね。高校に入ると、現代の作家や海外の翻訳小説も読むようになりました。
――その頃から文学者になりたいと思っていたのでしょうか。
三浦佑之氏: 小学校の時はプロ野球選手になりたいと思っていました。それはもうごく普通です。ですから、文学者や研究者とかは全然考えていませんでした。
わたしの家は山の中だったので通学できず、下宿して高校へ通っていました。早くからきままな1人暮らしをし、大学は「東京、いいなあと」思って、おのぼりさんで東京へ来たのです。その時には文学を勉強したいと思っていたのですが、研究者という道を考えていたわけではありません。わたしは団塊の世代より1学年前の世代なのに、浪人をしてしまいましたし、とにかく大学受験が大変でした。あまり勉強もしなかったからですが、やっとのことで文学部に入学したという感じですね。
学生運動も、大学院も、時代。
――大学では文学以外に打ち込んだものはありましたか。
三浦佑之氏: わたしは1966年に入学していますが、68年、69年は学生運動で大騒ぎの時代でした。だから、大学で授業をするより何かもっと別のことをしていることが多かったです。授業は好きでした。最初はワンダーフォーゲル部という運動部にいて、知床を歩いたり、北アルプスを歩いたり、そういう山登りをしていましたが、1年すると飽きてしまって、「もういいじゃん。疲れるし」と思ったのです(笑)。それで、2年になって友人が劇団を作るというので仲間に入って、それからはずっと芝居をやっていました。その頃は小劇場運動が盛んで、芝居を作って外で公演したりしていました。そのうち学生運動が盛んになってきて、デモにいったり、ストライキもあったり、なかなか忙しくて大変な大学4年間でしたね。
――大学は大変な時期でしたが、その後、先生は大学院に進まれますよね。
三浦佑之氏: あまり大きな声では言えませんが、あの頃は「でもしか院生」というのが流行っていたのです。就職がなかったので、院生に「でも」なるかとか、大学院「しか」行くところがないとか。わたしは一応要領よく大学を卒業しましたけど、していない連中も多かったです。わたしは、最初から全然就職活動をしていなかったので、大学院だったら行けるかなと思って入りました。そういう時代でしたから、両親も心配していたと思いますが、わりとわたしの親父もおふくろも「ああしろ、こうしろ」と押し付けず、好きにさせてくれました。仕送りは少なくなりましたが、「大学院に行きたい」と言ったら「そうか」と言うぐらいでした。
私も子供には、わりと何も言いません。娘(しをん)にも「こういう道にすすめ」と言ったことはありません。言っても聞かないと思います(笑)。息子は今も気ままに暮らしていまして、今になって思うと、子育てに失敗したのかもしれません。